Main
行方不明者
ファイは、黒鋼との待ち合わせにいつも遅れてきた。
彼の、のんびりした性格を考えれば納得をせざるを得ないが、それに振り回される者はたまったものじゃない。
黒鋼は仕事終わりに食事に行こうとファイに誘われこうして駅の前でファイを待っているのだが、待ち合わせ時間になるまであと
1分を切った。
あと1分以内にファイがここに来れば文句はないのだが、来る見込みはゼロだ。
どれほど黒鋼が怒っても彼は遅刻癖を直さない。
ごめんねーと笑いながら謝るばかりで、全く誠意を感じさせない。
だから黒鋼はファイが遅刻してくることを見越して、あえて自分も少し遅くに待ち合わせ場所に行ったりしている。
ファイがおおらかな自由人で、時間に追われるようなせかせかした人間ではないことは黒鋼がいちばん良く知っているから、
もう諦めの境地でファイの遅刻を毎回許してしまっている。
しかし黒鋼は今日、気付いてしまった。
ファイは仕事はきっちり期限内に終わらせるし、職場に遅刻してきたことは一度もないし、行事などで早くに出勤しなければならない
日でも必ず20分前には到着している。
さらにファイは、黒鋼以外の人との待ち合わせには一度も遅刻したことがないという。
これは、ファイが時間にルーズな人間ではなく、「黒たん先生との約束なら別に遅刻してもいいやー」と考えているということだ。
つまりあのファイに、なめられているということなのだ。
このことは黒鋼をひどく苛立たせた。
信用されていると言えば聞こえはいいが、黒鋼はそんな言い換えに誤魔化されるほど馬鹿ではない。
甘やかしすぎは良くないと、教育者として知っていたはずなのに、ついついあの笑顔にほだされてしまっていた。
もう簡単に許してやるものか。
待ち合わせ時間を10分過ぎてやってきたファイのへらへらした顔を見て、黒鋼はこれまでの怒りも込めて思い切り頭を殴った。
「てめぇ、今日は遅刻しないっつったんじゃねぇのか!」
「いっった!! ひどーい! 殴ることないじゃん!」
「1発ですんだだけありがたいと思え!」
「たった10分だよ!? 怒りすぎー! 黒さま短気!!」
「たった10分ってのはこっちが言うセリフだろうが! 遅れた方が偉そうにしてんじゃねぇ!」
突然ガラの悪い大男が優しそうな外人に殴りかかり怒鳴り散らしたせいで、駅にいた人々がぎょっとしてふたりから距離をとり始めた。
このあたりは治安がいいことで有名だが、怖い人はどこにでもいるものだ。
横目でこっそり見ながら帰宅途中のサラリーマンたちはそそくさと逃げていく。
「もうー、10分なんて誤差だよ、誤差。45億年を生きる地球に笑われるよー」
「人類の尺度で話をしろ」
「待たされたって思うから腹が立つんだよ。いっそ時計なんか捨てちゃいなよ!」
「……他に言いたいことは?」
「……遅れてごめんなさい」
拳を振りかざしたところでようやくファイが深々と頭を下げた。
そろそろ周りの誰かが警察に通報しかねない頃だ、場所を移動した方がいいだろう。
「そもそも時間決めたのはおまえだろうが」
「だからごめんってばー」
駅構内に入り、甘えるように擦り寄ってくるファイを押さえながら改札を抜ける。
今回もまた簡単に許してしまったような気がする。
けれど一度痛い目を見たわけなのだから、次はさすがに遅刻しないだろう。
もしこれで反省せずまた遅れようものなら、黒鋼はもう待ち続けてなどやるものかと心に誓った。
甘やかすばかりではいけない。
飴と鞭は使い分けが難しいところだ。
**************************
そして2週間後、今日の待ち合わせ場所はバス停だ。
バスの時刻表を調べて黒鋼に知らせてきたのはファイだったのに、ファイはまだ来ない。
苛々と足を鳴らし何度も時計と携帯を見るが、ファイの姿はどこにもないし連絡もない。
バスが来るまであと2分だ。
これを逃しても30分ほど待てば次のバスが来るが、だから構わないという問題ではない。
ファイが黒鋼と他人とで優先順位をつけ、黒鋼との約束を破り続けていることが問題なのだ。
もしファイが全ての物事、全ての人に対しルーズなのであれば黒鋼もここまで苛立たなかったであろう。
そうならばむしろ、ファイをまっとうな人間にするための協力を惜しまなかったかもしれない。
バス停に人がたまっていく。
ファイは来ない。
またもや黒鋼はファイに裏切られたのだ、彼は今日、何があっても絶対に遅れないと宣言したはずなのに。
黒鋼は約束は重んじられるべきものであり、守られないということは決してあってはならないと考えている。
それなのにファイは来ない、他人との待ち合わせには遅れることはないのに。
バスがやってきて、人が降りて人が乗る。
黒鋼は部外者だった。ただ人々の見る風景として、バス停の傍らで立ち尽くした。
走り行くバスを見送り、連絡ひとつ寄越さない待ち人を、黒鋼はとうとう見放した。
来た道を引き返し、羞恥と絶望感に耐えながら早足で部屋へ帰った。
あんな奴はもう知らない、約束を破るような奴を待つ価値なんてあるものか。
遅れてバス停へやってきて、そのまま帰った黒鋼を待ち続けて、待つ側の人間の気持ちを思い知ればいい。
まだ正午になったばかりだが冷蔵庫からビールをあるだけ出して、飲めるだけ飲んだ。
脳がすっかりアルコールで満たされて、抱いている感情が怒りなのか悲しみなのか虚しさなのか、わからなくなった。
しかしそうすることが目的だった気もする。
ちらりと時計を見るふりで携帯をチェックするが、着信もメールもない。
待ち合わせ時間はとうに3時間を越えている。
そのまま携帯をしばし見つめ、ぐらぐらと揺らぐ意識を手放した。
次に黒鋼が目を開けたのは、夜も更けた頃だった。
真っ暗な部屋でぼんやりと意識を取り戻し、一番に気にしたことはファイのことだった。
携帯には未だ連絡はない。
さすがにおかしいと思った黒鋼はわずかに痛む頭をさすりながら部屋を出て隣のファイの部屋を訪ねた。
数度呼び鈴を鳴らしたが返事はない。
いったいどこで何をしているのか、そろそろ心配になってきたが、こちらから連絡を入れるのには抵抗があった。
できれば知りたくない、と思った。
黒鋼との約束を破ってしていることなど、知りたくない。
そう願ったせいなのかどうかはわからないが、本当に黒鋼はファイの居場所を知ることはなくなった。
ファイは次の日もその次の日も黒鋼の前に姿を現すことはなく、3週間が経ったところで、ファイは正式に行方不明者として新聞に載った。
続く