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※日本国永住
夏を渡る鳥
言葉を覚えたファイは以前のようによく喋るようになった。
日本国に連れて来てから人が変わったかのように全く言葉を発しなくなったから、黒鋼は心配していたのだが、
話を聞けば失礼なことを言わないために、ちゃんと言葉を覚えられるまではできるだけ口数を減らしていたのだと言った。
不満を抱いているのかとか、何か負い目でもあるのかとか、いろいろ考えていた黒鋼はそれを聞いて安心した。
しかし安心したのもつかの間、口八丁なファイは人を見つければ捕まえて話しかけ、黒鋼をからかい怒らせては喜んだ。
いったいどこで覚えてきたのか、日常会話では使わないような言葉まで駆使してそれはそれはよく喋った。
そんなファイを知世姫は「さぞ頭の回転の速い人なのでしょう」と語った。
実際、ファイは頭の回転も速ければ要領も良かった。
一つ教えれば十のことができる人間だった。
誰もが羨む天性の持ち主、それに加えてあの容貌。
憧れる者も妬む者もあの完璧な人間には勝てぬだろうと皆あきらめていた。
そんな完璧と思われていたファイだが、何も弱いところのない人間など居はしない。
季節は夏真っ盛り、ファイは高い気温と湿度に襲われ完全にダウンしてしまっていた。
「もうだめ、オレ、このまま死ぬんじゃないのかな……」
縁側に伏せたファイが力のない声で呟いた。
せめて少しの涼でもと縁側に出てきたが、風は全く吹く気配はない。
生まれてからずっと深い雪に覆われた世界で暮らしてきたため、いくら元気でいようと思っても体が耐えられない。
コートを二重に着るのが基本だったファイには薄着はどうにも心細く感じるが、そんなことも言ってられない暑さだ。
白い着物を一枚だけ羽織ってじりじりと焼かれる地面を見ていた。
「大丈夫か」
手桶を持った黒鋼が部屋に入るとファイは唸るような返事をした。
そんなファイに苦笑して、隣に座る。
「これ、頭に乗っけとけ」
手桶の中の氷水で濡らした手ぬぐいを絞り、ファイをごろんと引っくり返して額に乗せた。
「あー冷たいー、ありがとー」
「おまえを崇めてる連中にこの姿見せてやりてぇな」
「こんなオレを見ていいのは黒様だけだよ」
冷たい手ぬぐいのおかげで少し回復したらしいファイが黒鋼に笑いかける。
悪い意味ではなく、余計なことまで喋るようになった、と黒鋼は思った。
訳のわからないことばかり喋るのは以前と変わらないが、嘘をつく必要がなくなった今は心から楽しそうに話をする。
「今日はもう仕事ないの?」
「あぁ」
「そっかー、じゃあ一緒にご飯作ってくれる?」
「わかった」
ファイにはまだ仕事は与えられていない。
まずは言葉や慣習や礼儀、作法、文化を知ることが大事だと天照が白鷺城のそばの家にファイを住まわせ、黒鋼に面倒を見るよう命じた。
その分、黒鋼の仕事も減り、ファイに付いていられるようになった。
天照は厳格な帝だが決して非情ではない。
過酷な旅を終えたばかりの彼らを気遣い、また早くファイにこの国に馴染んで欲しいという思いでそのような命を下したのだ。
それを知っているから黒鋼も先頭をきって魔物討伐や近隣との争いに参加したい気持ちを抑えてファイの側にいた。
もちろん黒鋼は争いに関しては有能な人物であるから、要請は絶えなかったが。
「今日は何を教えてくれるの?」
「俺の教えられる料理はもうあんまりねぇな。今度、蘇摩に来てもらうか」
「それは悪いよ。でも作り方の本とかあれば持ってきて欲しいな」
温くなった手ぬぐいを氷水に浸してまた額に乗せる。
そのときの気持ちよさそうな顔が子供のように純粋で、黒鋼はそっとファイの髪をなでた。
「この世界はどこも夏は暑いの?」
ファイが自分の髪をなでる手に指を絡ませながら尋ねた。
「いや、海の向こうは寒いらしい」
「海の向こうかぁ。それはもう日本じゃないの?」
「あぁ、外国だ」
日本国はあまり外国との貿易はしていないが、海を渡った人はたくさんいる。
黒鋼もあまり知らないがファイのような容姿の人間がずっと遠い国にいると聞いていた。
「いいなぁ。オレ、夏だけそっちの国行こうかな。で、冬になったら帰って来る」
「渡り鳥か、おまえは」
そう言うとファイは起き上がって黒鋼になでられ乱れた髪を整えた。
「渡り鳥みたいなのもいいね」
夏はなかなか陽が落ちない。
まぶしい太陽と広大な空の向こうに思いを馳せるファイに、黒鋼は焦燥を覚えた。
渡り鳥ならば本能でこの場所へまた帰ってくることができるけれど。
「どうせおまえは二度と帰って来ないんだろう」
「そんなことないよ」
「だめだ。絶対に海なんか渡るな」
「本気で言ったんじゃないのに……」
しかたないね、とファイは立ち上がって手桶の中の水を外へ捨てた。
氷はすっかり溶けてしまっていて冷たい水が熱せられた地面へと勢いよく吸い込まれていった。
塀の周りの木の下で蝉が一匹死んでいるのを見つけて、夏もきっとすぐに終わるだろうと黒鋼は思った。
そうすれば過ごしやすい季節になってこんな会話をしなくたって済む。
「買い物行くから着替えろ」
部屋の方へ入った黒鋼が脱ぎ捨てられた服を拾ってファイに投げる。
「んー……まだ着方がよく分かんない」
首をかしげて言うと黒鋼は何も言わずにファイに衣服を着せた。
本当はもう、ファイはひとりで着物くらい着られることを黒鋼は知っている。
全部着せてやるとファイは嬉しそうに笑うから、嫌な気はしないが。
「ごめんね」
「何がだ」
玄関の戸を開けて出て行こうとした黒鋼が立ち止まった。
傾き始めた陽はもう赤く染まっている。
「オレ、もっと自立するべきだね。君に甘えてばっかりで、ごめんね」
そう言ってファイは目を伏せた。
最初に会った頃よりファイは随分変わったと黒鋼は思っていたが、ファイのこの性格は持って生まれたもののようだ。
さらに他人を不幸にしたくないと考えていた時間があまりにも長すぎて、他人に遠慮ばかりするようになったのだろう。
付きっきりで言葉や作法を教える黒鋼に、自分のせいで時間を奪っていると罪悪感を感じていたようだ。
ファイはそういうことを決して表現しないから、なかなか気づいてやれない。
そうしているうちにファイの考えが良からぬ方へ行ってしまうのを、黒鋼は恐れていた。
「自立したら、おまえ、この国を出て行くだろう」
外へ一歩出ると粘つくような熱気が体を包み込む。
大きな蟻も力なく巣へ帰っていく。
「だったら俺に依存してろ」
玄関から出てこないファイを見やると、ファイはうつむき加減で笑っていた。
「そんなにオレのこと手放したくないんだ?」
「どうとでも解釈しろ」
「ばかみたい」
「お互い様だ」
離さない方も離れない方も。
「信用してくれないの?」
「おまえは言葉も態度も足りないからな」
「そっか」
言葉を覚え、よく喋るようになったのに、肝心なことは何一つ言わない。
楽しく生きられるようになったはずなのに、未だに誰のことも信頼していない。
この男にこれだけの言葉を与えたのは間違いだったかもしれないと黒鋼は少し後悔している。
嬉しそうに喋っている姿を見ればこちらも嬉しくなるが、そのために霧がかかったようにファイが見えなくなる。
「今日のご飯は何かなぁ」
日差しを手で覆いながらファイが楽しそうに歌う。
苛立ちはファイには向けられない。
言葉も態度も足りていないのは自分の方だ、と黒鋼は舌打ちした。
End