空間的狼少年

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20.奪わないから安心して


夜の闇のなかでわずかな光を受けた炯々たる金の瞳が黒鋼の紅い瞳とぶつかった。
虫の声すらしない静かな夜に、ファイの着物の布がすれる音だけが狭い部屋に響く。
まだ慣れない義手で白い肌を撫でれば振動が肉体に伝わった。
所在無く畳の上に放り投げられていたファイの手が黒鋼の頬に触れ、口付けをねだる。
それに応えればファイは足りないとばかりに頭に手を回して自分から唇を合わせる。
互いのぬるい息が口元で混ざった。
呼吸の音は直接体内に入ってきて、黒鋼の欲望に絡みつく。
理性だけでは抑えられない衝動に操られるように首に吸い付くと短く息を呑んだファイが体を震わせた。
他の誰の声もしない、他の何の動きもない密室で隠れるようにして肌を合わせる。
密やかに努めるのは専らファイの方で、その臆病さは滑稽なほどだ。
畳の下を這う鼠にさえ見つかってはならないと警戒している。
何に怯えているのか、黒鋼が問いかけるようにファイの頬に手をやると、彼は痛々しく微笑んだ。

「ごめんね」

いつかと同じ言葉をあの日と同じ笑顔で紡ぐ。
小刻みな波を作る呼吸は罪悪を帯びている。
理解できないもどかしさに黒鋼は今度はファイの首に強く歯を立てた。

「奪わないから」

やがて片方だけの金の瞳が逃げるように伏せられた。
その瞼にそっと口を付ければ強張った睫毛が揺れた。

「君の大事な人たちを、奪ったりしないから」

かすれた声が冷たい空気と共に吐き出される。

「だから安心して」

暗闇に浮き上がる青白い腕が黒鋼に伸ばされ、再び開かれた目はどこにもない未来を見据えていた。
こっちを見ろと言いたいのに黒鋼の喉はきつく絞まって声にならない。
細い腕は義手を撫で機械的な接合部分に指を這わせる。

「もう、奪わないから。君の大事なものを、壊さないから」

違うと言うことはできない。
否定を受け入れてもらえるほど信頼されていない。
痛々しいほどに緊張した体をあやすように抱いて、乱れた髪に手を差し入れる。
そうすれば躊躇いながらもすがり付いてくるのにファイは謝罪をやめない。
こうして当然のようにファイに触れられることに、黒鋼がどれほどの喜びと安堵を感じているのか、いったいどうすればこの臆病者に伝わるのだろうか。

「これまでなら、いくらでもおまえの嘘に騙されてやっても良かった」

まだ何も終わってやいないのに、本を閉じてしまう臆病者め。

「けどな、これからも同じように笑って誤魔化せると思うなよ」

語気を強めてそう言うと、ファイは困ったように笑った。
耳に口を寄せるとくすぐったそうに身をよじる。

「最初に、俺が連れ出せれば良かったんだ」

「過去を嘆いてもしかたないよ。未来を見ないと」

「……おまえが言うな」

きっと、すべてが終わった後なら言えるだろう。
おまえは奪う者ではなく、与える者だと。
やがて来る決戦の後には、みんな、負い目なく笑っているはずなのだから。

End