Main
29.伝えたら、だめかな
小さな桜の花びらが迷子みたいにひとつだけ飛んできて、ファイの足元に落ちた。
白鷺城の縁側は日当たりが良くて、何もしていないとすぐに眠くなってしまう。
少しの休息を、と言われてこうしてぼんやり縁側に腰掛けて青いだけの空を見つめているけれど、そうした曖昧な思考に浮かぶのは今見ている景色とは相反する、肌を裂く寒さと血なまぐさい光景だった。
ファイの耳の奥では、驚くほどの正確さで、王の言葉が次々と頭の中で再生される。
しかし言葉は浮かぶばかりで何の意味も持たない。
もうきっと、二度と意味を持たない。
視界の中央で知らない名前のかわいい鳥が庭の地面をつついているのが見える。
あの知らない鳥の名前を知るようにして、知っている言葉の数々を知らないものへと変えていく。
それが正しいことかどうかは、これからのことを考えれば、どうでもいいことだ。
「ね、あの鳥、なんて名前なの?」
少しだけ開いた障子の向こうに声をかけてみたが、返事はなかった。
音を立てないようにそうっと障子を開けると、黒鋼はどうやら眠っているらしかった。
こちらに背を向けて布団に横になっている黒鋼は日本国にたどり着いたときには相当の重症だった上に腕も失っていて、いつ死んでもおかしくない状態だった。
けれど目を覚ました彼は呆れるほどいつも通りで、終に彼の息が止まってしまうことが恐ろしくてそばにいることができず、ずっと部屋の外でうずくまっていた自分が恥ずかしくなるほどだった。
人はふとしたことで死んでしまうが、死なないときはどんなにしても死なないんだ、とファイは当然とも言える安心を悟った。
擦れて音が立たないように着物の端をつかんでファイは畳を這って移動し、黒鋼の隣に座った。
いつも思っていたことだが、彼は背中が大きい。
自分とは全然違う体つきを見るたびいつも羨ましく思い、そして情けなくなっていた。
彼のようになれたらと考えたことは一度や二度ではなかった。
「……今、いつだ?」
身じろいだ黒鋼が乾いた声で尋ねた。
起こしてしまったかな、と少し申し訳なく思った。
「まだお昼だから、寝てても大丈夫だよ」
めくれた布団をかけなおそうとしたが、黒鋼はそれを止めて起き上がった。
えんじ色の花が描かれた厚めの布団は彼に似合ってなくて、別人みたいに思えた。
「起きる? 何か食べるなら持ってくるよ」
まぶしさに目を押さえる黒鋼にそう言い立ち上がろうとすると、膝に手を置かれた。
いらないということらしい。
「別に、おまえが世話しなくても自分でやれる」
「いいじゃない。けが人なんだから、じっとしてて」
「おまえだってけが人だろ」
「オレはたいしたことないから」
それでも彼は頑なにファイの膝から手をどけなかった。
暖かい、まだ半分眠ったままの体温を感じた。
とてもおかしいことだと思った。
「変なの」
口に出して、片方だけになった黒鋼の手の甲をなでると、彼は顔を上げた。
大きくてごつごつした手はやっぱり、自分の手とは全く異なっている。
「オレ、ずっと君に嫌われてると思ってたのに」
すると黒鋼は不満そうに顔をしかめてそっぽを向いた。
彼がそういった幼いしぐさを見せるようになったのは、いつごろからだっただろう。
最初からだったような気もするけれど、たぶん今の方がずっと幼い。
「嫌いだとは言ったことねぇだろ」
「ないけどー。でも、好きとも言われてないし」
最初に会ったときから黒鋼はファイに、小狼たちに向けるものとは違う、強い警戒心を向けていた。
旅を続けるうちにだんだん薄れてはきたものの、その警戒心が完全に解かれたのは、ごく最近だったように記憶している。
ずいぶん遠くに感じる平和な頃のことを思い出してうつむくと、黒鋼は意外そうに目をぱちくりさせた。
「言われたかったのか?」
そのときファイは一定の距離を置いて拒絶を示していた頃の黒鋼との思い出に浸っていたから、彼が何を尋ねたのかよくわからなかった。
きょとんと首をかしげると、黒鋼は何か失敗したときのような苦々しい舌打ちをした。
「え?」
「……なんでもねぇ」
「だからなにが……あ! そういうこと!? え、っと、その、い、言われ……っ」
「いいから! 忘れろ!」
言葉の意図に気づいて慌てると、追い出すように水を持ってきて欲しいと頼まれた。
不自然な頼み方だとは思ったが、このままここにいても気まずくなるだけだから、すぐに部屋を飛び出した。
ひんやりした空気が足元をすくうように抜けていく。
顔が火照っているのは、縁側があんまりにも暖かかったせいだ。
「どうして、そんなこと聞くのー……」
床のこげ茶色の木目を見つめて震える息を吐いた。
募るばかりの想いをいたずらに刺激するのはやめてほしい。
もし、黒鋼に水を持ってくるように頼まれずあのまま部屋にいたら、自分は信じられないようなことまで口走っていただろう。
それを考えると恐ろしくならなければならないはずなのに、考えれば考えるほど気分は高揚した。
以前は暗く冷たかったイメージも、今では穏やかな海のまんなかで花に囲まれるようなおかしくてくすぐったいものに変わってしまった。
終わると諦めたものが終わらなくて、続けばいいと願ったものが続いている。
今なら、きっと今なら、やさしいままで伝えられるかもしれない。
「だめかな。オレが今、どんな気持ちでいるのか、伝えたら、だめかなぁ?」
結局名前を知れなかった鳥が笑うように鳴いている。
このままでは水を持って戻ったとき、さっきよりももっと真剣に気分が高まってしまうだろう。
でも、もう、それをだめだと止める自分はどこにもいなかった。
End