空間的狼少年

http://acceso.namidaame.com/

Main



絵描きの手紙


少し寒くなりました。庭の木の葉もずいぶん散りました。
あかるい部屋の大きな窓は全開で、わたしの仕える主人の髪がさあさあと揺れていています。
あたたかい紅茶を丸いテーブルに置いて、キャンバスに向かう主人に声をかけました。

「寒くはありませんか」

「大丈夫だよ」

振り向かずに主人は答えました。キャンバスにぶつかった声が新たな色を生み出しました。

「今度は何の絵ですか」

尋ねると、にっこりと彼は振り返りました。
隣に立って覗き込むと、きれいなイチョウの木が描かれていました。
丘にあるイチョウの下にはまっしろのベンチがあって、たくさんのイチョウの葉が舞い落ちています。
塗りたての絵は油のにおいがして、わたしもにっこりと笑い返しました。

「もう少しで完成するよ」

主人は筆を握りしめ大きく伸びをして、再びキャンバスに向かいました。
わたしは邪魔をしないよう、そっと部屋を出ました。
日当たりの悪い廊下は部屋よりもずっと寒くて、両腕をさすって身震いしました。



お昼になったので、昼食を作っていると主人が台所へ現れました。
体中をいろんな色で染めていて、カラフルな鳥のようだと思いました。

「お昼はなぁに?」

「シチューです」

主人は鍋を覗き込んで、満足そうな顔をしました。
彼の好きなかぼちゃが入っていることに気付いたのでしょう。
シチューを煮込む間にサラダも作ります。
大根とレタス、きゅうりにトマト。ドレッシングもわたしが作りました。
できあがった料理を並べていると主人が頭にタオルを乗せてお茶を入れ出しました。
いつの間にかシャワーを浴びてきたようです。
まっしろのシャツを着た主人は、絵画の中にいるかのような儚さを背負っていました。
リビングもとてもあかるい部屋です。
主人は家を借りるとき、とにかく日当たりのいい部屋を探していました。
からからと音を立てて主人が窓を開けました。
薄茶色の小鳥がびっくりして飛立ちました。
主人は遠い空を見つめています。かなしい目で、飛立ちたいような目で。
主人は持っていた絵手紙を紙飛行機にして空に飛ばしました。
紙飛行機はぐんぐん空へ登って、やがて見えなくなりました。

「冷めないうちに食べましょう?」

主人がこれ以上かなしまないためにわたしは霞んだ声で呼びかけました。
絵手紙には何が書かれているのか、わたしは知りません。
けれど一度も返事が来たことがないことは、知っています。
主人は返事を待っています。来ることのない返事を、いつまでも待っています。

「シチュー、あったかくて、おいしそうだね」

席についた主人はいつもの笑顔で語りかけてくれました。

「次は海の絵を描こうと思ってるんだ」

「いいですね」

「だから今度、海へ行こうね」

「はい」

主人の手紙の相手がどうして手紙を返してくれないのか、わたしは聞いたことがありません。
その相手が誰なのかも聞くことはできません。
主人は海の絵を描き終えたら、また絵手紙を紙飛行機にして誰かのもとへ送るのでしょう。
シチューの甘さは主人の心を癒せたでしょうか。
いつか、手紙の相手がこの家へ来てくれたらとわたしは願っています。
臆病な主人が願えないことを、代わりにわたしが願うのです。
いつか、そのひとが主人の送った絵手紙を抱えてこの家にやってきて、手紙を返せなかったことを謝って。
どうして返さなかったのかと聞くと、上手な絵が描けなかったせいだとか言って。
そんな、この部屋のような甘い、あかるい未来を、わたしは願います。
おいしいね、と主人はシチューを飲み込んで笑いました。
つめたい風がわたしの喉を通り抜けました。

End