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4
週末は前回と同じように会社から一緒にファイの部屋へ向かった。
夕食は家に着く前に蕎麦屋で済ませた。
ふたりで歩く夜道は孤独な宇宙の真ん中のようだった。
音がない。あんなにうるさかったマンションまでの道のりなのに、全く音がしない。
黒鋼とファイの歩く音と、息遣いと、控えめな会話以外の全ての音が消滅してしまっている。
ファイの部屋は相変わらず整頓されている。
職場でのファイの机の散らかりようはかなり有名なのに。
前回と同じく酒を飲んで、それからシャワーを借りた。
寝室には布団が敷かれていて、何ともいえない妙な気分になった。
電気を消してベッドに入ったファイは、手を伸ばして楽しそうに黒鋼の頬をつついた。
「学生に戻った気分」
「おまえは常日頃から学生気分だろ」
「えー。そんなことないよぅ」
ぽつぽつと取り留めのない話をしていると、やがておとなしい寝息が聞こえ出した。
眠ってしまったようだ。
人形はいつ動き出すだろうか。
いつまで起きていれば、と時計を見ようとしたところで、棚の方から軽い物音がした。
そっと目を開けてみると、人形たちがぴょんぴょんと次々棚から飛び降りていた。
信じられなかったが、夢でないことははっきりしていた。
床に置かれた人形もみんな集まって、黒鋼が横になっている布団を飛び越え、部屋の中心に集合した。
ベッドでファイと一緒に転がっている人形だけはぴくりとも動かない。
人形たちに気づかれぬよう、息を殺して見守っていると、人形は円状になり動きを止めた。
「集合完了! これより緊急会議を始める!」
熊の人形が一歩前に出て叫んだ。
本当に人形が喋ったことに驚いて声を上げそうになるのを必死でこらえる。
「議長! 議題を!」
今度は河童が手を上げて発言した。熊はうなずいて周りを見渡した。
「当然、あの人間についてだ!」
あの人間、と言って熊は黒鋼を指した。
慌てて目を閉じて眠っているふりをする。
ここからは迂闊に目を開けることはできないようだ。
「あれは、今のうしゃぎさんのご主人だろう」
「いいや、あれはただの持ち主だ。主人なんかじゃない」
「あれは駄目な方の人間だ」
「何も知らない奴だ。それでいて、知らないでいる世界こそが真実だと疑いもしないような奴だ」
「取るに足りない人間だ。脅威を感じる必要はない」
散々な言われようだ。
それにしても、あの人形たちはあんなにかわいらしい格好をしておきながら、ずいぶん硬い口調で喋るものだ。
「脅威とは何だ?」
「脅威とは、我々のご主人を奪われることだ」
「あれは我々の主人を奪おうとしているのか?」
「そうだ。あれはご主人に好意を抱いているんだろう」
「好意だって? 劣情の間違いだろう!」
誰かが叫ぶと、どっと笑いが起こった。
起き上がって蹴飛ばしてやろうかとも思ったが、ぐっとこらえて続きに耳を傾ける。
「それならば全く問題ない」
「なぜだ?」
「あれの目的は我々だ。あれは我々の正体を明かすためにここへ来ている」
「知識も知恵もないくせに、我々を知ろうだなんて、愚かな人間もいたものだ!」
「そうならば、問題はないな。あれの目的が我々である以上、ご主人はいつまでも我々のものだ……」
「そうだ。問題ない。何の脅威もない……」
「議題にする価値すらもなかったのだ……」
「しかし待たれよ。うしゃぎさんが裏切り者だとも考えられないだろうか?」
「裏切り者だって? どうしてそんな話になるのだ?」
「うしゃぎは望んであの人間のもとへ行った。ご主人がいつも我々に語って聞かせる、あの人間のもとへ」
「うしゃぎさんがあの人間のもとへ行くことがなければ、あれがここへ来ることは決してなかったはずだ!」
「確かにそうだ! うしゃぎさんは確かなきっかけになった!」
「しかし、それならば我々も裏切り者ということになるのではないか?」
「なんだそれは? いったい我々が誰を裏切るというのだ?」
「我々自身だ。我々がこうして会議することで、我々は我々を裏切り続けているのだ」
「ばからしい!」
「いや、考えるべき問題だ。我々は結局のところ、ご主人の意志以上に物事を考えることなどできぬのだから」
「だとしたら最初から結末は決まっているじゃないか」
「そうかもしれない。しかし、そうだと言い切れるわけではない」
「我々は誰なんだ! なんのために存在を維持しようとしているんだ!」
そんなことを人形たちは延々と叫び続けた。
黒鋼の意識が混濁し、本物の夢の世界に移行するまで、延々と。
目が覚めるとファイはすでに起きてベッドの中で携帯を操作していた。
黒鋼が起きたのに気づくと、やわらかく微笑んでおはようと言った。不思議な朝だ。
「……おまえ、ファンタジー好きだろう」
朝食に作ってもらったサンドイッチは爽やかな夏の味がした。
きゅうりとレタスと、ハムとたまごのサンドイッチだった。
「え、うん、好きだけど、どうしてー?」
「いや。別に」
ファイは砂糖とミルクを入れたコーヒーをすすった。
自分で豆を買ってきて淹れているという。
「それで、どうだった? 人形のこと、何かわかった?」
「あー……さっぱり、だな」
「そっかー」
残念だね、とファイは食べ終わった皿を片付けた。
人形が何なのか、なぜ喋るのかはさっぱりわからなかったが、ひとつわかったことがある。
ファイはあの人形たちの主人であるらしいが、ファイはあの人形たちに支配されているということだった。
テレビをつけたファイが大きく伸びをしてソファに座る。
ファイはあれだけ人形が大声で話しているというのに、起きなかった。
それもおそらく、意志によるものだ。あの会話を聞きながら黒鋼は、気に入らない、と思った。
何もかも気に入らない。
黒鋼の心に渦巻くのは、理性を焦がす嫉妬の炎だ。
人形たちが言った、いつまでもファイが人形たちのものだという言葉が、ぐるぐると竜巻のように荒れている。
ファイは寂しさから逃れるための意志であの人形たちを動かした。
しかし今や、その結果に支配されてしまっている。呪縛と言ってもいいだろう。
そしてまた、その支配に人形たちは支配されているのだが、それは黒鋼には考える必要のないことだ。
ファイにはわからせてやらなければならない。
その寂しさは人形ごときでは癒せないことを。
何も知らないのはあの人形たちの方だ。
ただ在るだけの存在と、行動を伴える存在との違いをわからせてやらなければならない。
冷めたほろ苦いコーヒーを喉の奥に流し込んで黒鋼はファイの隣に立つ。
自分を見上げる宝石みたいな蒼い目がくるりとまわる。
「今日は世話になったな。もう少ししたら俺は帰る」
「うん。オレも、ありがとう。楽しかった」
にこりと笑う、細められた瞳には孤独がある。
以前は見えなかったが、今でははっきり見える
それで、と黒鋼は言葉を続ける。
少しだけ緊張する。不思議そうに見つめるファイに願うような視線を送る。
「今度は、俺の家に来ないか。ここみたいには、きれいじゃないが」
テレビのリモコンを片手に持ったままファイは固まった。
テレビではあるピアニストの特集をしてる。
重たい音と軽い音が一緒になって鍵盤から叩き出されている。
「……黒様が泊まりに来たのって、人形が本当に動くのかどうか確かめるためだったよね?」
「おう」
「それなのにどうして、オレが黒たんのお家に行くの?」
ほのかにハーブの香りがした。見ると、窓際に小さな植木鉢があった。
「おかしいか?」
「おかしいよ」
「なら言い方を変えりゃいいか? おまえにもらったうさぎのキーホルダーが勝手に動き回って困ってる」
そう言うとファイは目をぱちくりさせた。
「動く、の?」
うなずくとファイは困ったねと微笑んだ。
それは困ったね、と。本当に困っているように。
「オレのせいかなぁ?」
「たぶんな」
「だったら、オレがどうにかしなきゃ、ね」
次の週末でどう? とファイが尋ねる。
構わないと答えると、ファイは壁のカレンダーに赤ペンで花丸の印をつけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それじゃあ、また帰りに。今日も頑張りましょうね、いおりょぎさん!」
黒鋼が会社に着くと、入り口にこばとと五百祇を見つけた。
ふたりとも所属する部署が違うため、ここでお別れのようだ。
手を振るこばとに、転ぶなよと忠告して、五百祇は黒鋼のそばまでやって来た。
そして鞄に乗っかると、そこからまたジャンプして黒鋼の肩に座った。
「移動手段にしてんじゃねぇ」
「いいだろ。軽いし」
実際五百祇は軽い。だけど道具のように使用されているようで少々気に食わない。
けれど五百祇とは良い関係を築かせてもらっているので多少の不満は我慢する。
「そういえば、何で『いおりょぎ』なんだ?」
ふと思い立って肩の五百祇に尋ねた。
五百祇はこばとからいつもそう呼ばれている。
訂正する気もないらしく、五百祇は呼ばれれば返事をする。
「発音できねぇんだとよ」
しょうがねぇよなぁ、と五百祇は悪人面で笑った。
ちょうどエレベーターの扉が開いたので乗り込んだ。
最初は訂正したんだけどな、と五百祇は腕を組んで思い出に浸る。
「ほんと、しょうがねぇよなぁ。呼び名ひとつで、、特別になっちまうんだからよ」
エレベーターは2階で止まり、4人乗り込んできたので黒鋼も五百祇も口を閉ざした。
本当に、しょうがないと思う。
呼び名ひとつで特別になる。嫌だったはずなのに、むずむずとくすぐったい響きに変わってしまう。
6階で降りて窓の外を見る。雲ひとつない快晴だ。
ビルに包囲されてしまっているけれど、きれいな空だと思う。
同じ色をしている。
同じ感動を覚える。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ファイは黒鋼のマンションに着くまで、ずっと上機嫌にあれこれ喋り続けていたが、部屋に入ったとたんおとなしくなった。
どうしたのかと心配すると、親しき仲にも礼儀ありだからね、と仰々しく背筋をぴしりと伸ばしてネクタイを直した。
何だそれ、と笑うと、ファイもいつものようにへにゃりと笑った。
今朝、うさぎは寝室のサイドテーブルの上に置いてきた。
今はキッチンの炊飯器の上でふたりを観察している。
「どうして黒りんのお家でも動くのかなぁ?」
ファイは黒鋼の用意したウイスキーを飲みながらうさぎを振り返った。
黒鋼は何も言わなかった。さきいかを噛むのに忙しかった。
うさぎの話なんてそれっきり、一度もしなかった。
理由を要求したのはファイなのに、人形の言葉すら出さなかった。
ぱっとしない話題が続いた。ウイスキーも飲み干してしまって、つまみもなくなった。
外は相変わらず無音だ。でもいつもよりも宇宙の色が濃くなっている。
ちょうど会話が途切れたところで、黒鋼はまるで今ようやく気づいたというような声を上げた。
「終電、なくなったぞ」
「……普通さ、なくなる前に言うよね」
泊まっていけ、と机の上のものを片付け言うと、ファイは苦笑してソファに上半身を預けた。
「黒たん」
「何だ」
「怒らなくなったね。変なあだ名で呼んでも」
何も答えなかった。片付けに忙しい。
早くしないと眠くなって全部明日にまわしてしまうことになる。
ファイの蒼い瞳が黒鋼に向けられた。金色の睫毛がぱさりと震えて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「そこで寝るなよ」
聞こえているのか聞こえていないのか、ファイは曖昧な返事をしただけで、ソファにしがみつくような体勢をとっている。
隣に膝をついてファイの両肩をつかんで起こす。
ファイは迷惑そうな唸り声をあげて目を開けた。
今頃、ファイの部屋の人形たちはさぞ悔しい思いをしていることだろう。
おまえたちの主人はもう、俺の手のうちにある。ざまあみろ。
後頭部に手を回すとやわらかい金の髪の感触が手のひらいっぱいに伝わった。
ひっかくように指を優しく動かすとファイはくすくすと笑った。
ファイが帰ったらうさぎに礼のひとつでも言ってやらなければ。
妙な体験はさせられたものの、きっかけになったのは確かなのだから。
うさぎはあの人形たちの言うとおり、裏切り者だったかもしれない。
しかしそんな人形事情は黒鋼には関係ない。
もし報復を受けるというのなら、守ってやらなくもないが。
あらゆるものから宇宙の音がする。
銀河を白馬が駆け抜けて、ブラックホールに新幹線が一直線。
太陽を陣取ったのは早生まれのイタチの子で、天王星までかけっこするのはバッタとカマキリ。
信じれば何でも信じられる。
その中から欲しい真実だけを取り出す。
たぶんそれは間違った生き方だ。それでもファイを手に入れるということは、そういうことなのだ。
これからもきっと奇妙奇怪なことが起こり続けるだろう。
ファイの信じるものを信じて、それでいて、黒鋼は現実の枠内にいる。
宇宙の流れにファイが流されてしまうのならば腕をつかんでいればいいだけのことだ。
軽く触れ合った唇は、きらきらの星の味がした。