Main
2
「人形って動くものなのか?」
「俺は人形じゃねぇぞ」
「それは知ってる」
次の日、仕事を終え、帰る前にロビーで黒鋼は同僚の五百祇と少し話をした。
すっかり忘れていたが、この会社にはぬいぐるみとしか思えない社員がいくらか勤務しているのだ。
そのうちのひとりが黒鋼と同じ警備課に所属する五百祇だった。彼は青い犬のぬいぐるみのような体をしている。
「おまえ、どうやって動いてんだ?」
「……考えたことねぇな」
黒鋼の肩に乗っかった五百祇は首をかしげた。
その動きは人間そのものだった。
「いおりょぎさーん! お待たせしましたー!」
ふたりの後ろからぱたぱたと軽やかな足音がして、振り向くと帰り支度を整えた少女が走って来くるのが視界に入った。
長い髪が足を動かすたびに揺れている。
「おい、そんなに走ると……」
「きゃん!」
「あー、あいつに注意したって無駄だ。どんなに言ったってこけるんだからな」
黒鋼が声を掛ける前に少女、こばとはきれいに床に倒れこんだ。受身を取ることもなく真正面から。
「いたい、です……」
「ほんと学習しねぇなぁ」
ぴょんと黒鋼の肩から降りた五百祇がこばとのもとへ駆け寄り、打ち付けた鼻の頭をさすってやっている。
五百祇は口も態度も悪いが、こばとにだけは時々優しい。
そして立ち直ったこばとのバッグに入り込んで、さっさと帰るぞと促した。
「黒鋼さん、お疲れ様でした」
丁寧におじぎをするこばとの挨拶に短く答え、自分も帰ろうとしたところで、バッグから頭だけ出した五百祇に呼び止められた。
「動くぜ」
五百祇はぬいぐるみとらしからぬ尖った牙を見せて不敵に笑った。
「人形は、意志を持って動く」
こばとが不思議そうに五百祇を見下ろした。
五百祇はこばとに前を向いて歩けと怒鳴り、それっきりこちらを見ることはなかった。
人形は動く、意志を持って、動く。
疑いようのない真理のように思えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから数日のあいだ、黒鋼が帰宅するたびにうさぎは居場所を変えた。
どうやって出てきたのか、靴箱の引き出しから脱走し、椅子の足に縛り付けてもほどいて移動した。
そして必ずベッドの脇の、サイドテーブルの上でにこやかに微笑んでいるのだ。気味が悪い。
お祓いでもしてもらうべきかと考えたが、自分のような大の男がこんなファンシーなうさぎを気味悪がってお祓いしてもらうなんて、とてもじゃないができながった。
かと言って捨てることもできない。
こういう人形は、捨てれば捨てた次の日にまたこの部屋に戻ってくるものだからだ。
しかし意志を持って動いているというなら、もっとちゃんとした意志を見せて欲しい。
サイドテーブルが気に入っただけなのか、それとも他に想像もつかないような目的があるのか。
人形の意志なんて、人間である黒鋼にはわかりやしない。
今日、黒鋼は夜間の警備に当たっている。
うさぎはひとまずサイドテーブルに置いたままにしておくことにした。
いつもは眠るとき、隣にうさぎがいると落ち着かないのでクローゼットの中などに放り込んでいる。
夜の間はうさぎは動かない。そのまま黒鋼が出勤し、帰宅するともとの場所に戻ってきているのだ。
家を出ると静けさは変わらず異様さを誇っていた。
月が遠い。
星はもっと遠い。
地球から遠いのではなくて、黒鋼から遠ざかっている。
代わりに何か、重たく首筋に巻きつくような感覚がじわりじわりと背後から近づいてきていた。
振り返ってはいけない。
何かいる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
廊下に出してあった長机の下から奇声をあげて突然飛び出して来た男を不審者だと判断して首根っこをつかみ、相手の腕をひねってうつぶせに机に押し付けると、聞き慣れた悲鳴が男から上がった。
「わー、ごめんごめん! オレです! 黒様、オレ!」
よくよく見ると金髪のその男は、いつも余計なことしかしない企画部のあの男であった。
身をよじって黒鋼を振り返り、苦しそうに笑いかける。
「ちょっと驚かそうとしただけなんだよー。許してー」
痛いと訴えるので力をゆるめると、ファイは体の力を抜いて机にへばりついた。
「あぁもう、こっちがびっくりしたよぅ」
「おまえが悪い」
「そうなんだけどー。殺されるかと思ったよー」
ファイは楽しげに笑って肩を揺らした。
お化け屋敷でお化けに驚かされたような気分ででもいるのだろう。
真剣に仕事として警備をしているこちらとしては迷惑きわまりない話だ。完全にファイを解放するとファイは机から体を離した。
「こんな時間までわざわざ残って、驚かそうとしたのか?」
「んー。残業しててね、帰る前に今日は黒りんが深夜警備って聞いて、それで驚かそうと思ってー」
まるで子供みたいな発想だ。企画部の人間としては有能なのかもしれないが、さぞ生き辛いことだろう。
ひとまずファイを宿着室に案内すると、すぐに鞄からおやつを取りだ出しテーブルに広げた。
隣のコンビニで買い込んだのだと言う。
「お酒も買おうかと思ったんだけど、黒ぴーはお仕事中だから我慢したよー」
「菓子はいいのかよ」
黒鋼の呟きを無視してファイはチョコをかじった。
そして珍しそうに部屋の中を見渡し、思ったより狭いとか畳の部屋じゃないんだとか、感じた通りの感想を述べていたが、黒鋼の鞄を見つけると、あっと指差した。
「うしゃぎさん、つけてくれたの?」
何のことだと思って黒鋼が指差された方を見ると、自宅の寝室のサイドテーブルに置いてきたはずのうさぎが、ちゃっかりと黒鋼の黒い鞄にくっついていた。
他人の鞄なんじゃないかとも思ったが、どう見ても自分のものだった。
いつもの微笑を浮かべたうさぎがこちらを見ている。
家を出たときの気配は、こいつだったのか。
「……いや」
「あはは、あれつけて会社まで来たの? 絶対つけてくれないと思ったのに」
違う、と言いたいのに、違わないから言うことができない。
行っていない行いが実行されているなんて、どうしてありえるのか。
「黒たんのおうちはどう? 住み心地はいかが?」
片手で黒鋼の鞄を引き寄せたファイがうさぎに話しかける。
やめろ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
それを人間のように扱うのはやめろ、それはただのキーホルダーで、言語コミュニケーションなんて取れるはずがない。
おまえの言葉を理解しない、ただの、布と綿のかたまりだ。
「そっかー、 黒さま、あんまり相手にしてくれないんだ」
いきなり、うさぎの小さな頭を人差し指でなでたファイが残念そうに言ったから、黒鋼はぎょっとしてファイを見つめた。
「そうだね、この人は人形に興味がないから仕方がないよ。こっちに帰りたいなら帰って来てもいいんだよ?
みんな心配してるし……え? もう少し黒ぽんと一緒にいたいの?
いいよ、きっと好きになってもらえるから、がんばって」
つばを飲み込むと、口の中がひどく乾燥してることに気がついて、異様な光景から目をそらすために冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出した。
ファイはまだうさぎを会話をしている。聞く価値もない。
子供が人形遊びをするのと同じだ、脳内で勝手にうさぎの言葉を自分で作って会話をしている気になっているだけだ。
しかし、ひとつだけ気なるところがあった。
「おい、みんなって、何だ」
パックのジュースにストローを突き刺したファイの向かいに座ると、ファイはまたうさぎの頭を愛しそうになでた。
「他にもいっぱい人形とかぬいぐるみ、持ってるんだ。その人形たちが、うしゃぎさんは大丈夫かなって、心配してるの」
「心配? 捨てたり乱暴に扱ったりはしねぇぞ」
「それはわかってるよ。そんなことする人には人形あげたりしないし。
でも、オレは毎日人形に話しかけたり、一緒に寝たりするから、人形たちはそうされることが当然だって思ってるんだよねー。
だから、うしゃぎさん、黒りんに相手にしてもらえなくて寂しいってさー」
ファイはへにゃりと笑ってストローをくわえた。
「人形とそんなことしてんのか、おまえ」
「やっぱり引く? だよねぇ、大の男が人形遊びなんて、おかしいよね」
ストローをかじってファイは目を伏せた。
おかしいとまでは思っていなけれど、意外だと思った。
ファイはあまり物に執着しない人間だと思っていた。
期待されないために期待しない、そういう類の。
「でも、ひとりぼっちで部屋にいるのは、寂しくて、耐えられなくて」
「人間じゃだめなのか? 誰か、弟でも誰でも……」
「人形なら一方的にさらってこれるでしょ?」
おどけたようにファイは言って、これ以上は話さないとでもいう風にストローを強く噛んだ。
だが黒鋼はまだ聞かなければならないことがあった。
「じゃあ、何で俺にそのキーホルダーを渡したんだ?」
ファイは人形を相当に大切にしているらしい。
ならばなぜそれを手放して、同じように大事にするはずなんてない黒鋼に贈ったのか。
けれどファイはストローから口を離すことはなく、無言を貫いた。
これはファイの、いくら聞いても答えないという姿勢だ。
ファイはよく喋るくせに、秘密主義者なところがある。
そして彼は、ときどき嘘つきだ。
人形なら一方的にさらってこれるなんてのは嘘の理由だ。
それに答えにもなっていない。ファイの考えることは全くわからない。
黒鋼は人の考えなんてどうでもいいと思っているし、絶対に理解できないものだととっくの昔に諦めてしまったのに、嘘をついておきながら穏やかな顔でジュースを飲むファイの心情を暴いてやりたくてしかたがなかった。
うさぎがこっちを見て、何か言いたそうにしている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから一週間。うさぎは大胆に動くようになった。
今までは仕事に行っている長い時間の中でこっそり動いていただけだったのに、今では風呂に入っているときや、トイレに立ったちょっとした時間にまで移動するようになった。
こんなときの対処法を黒鋼は知らない。
インターネットで人形が動くということについて調べてみても、心霊現象だとか前世の霊が乗り移っているとか、先祖の生まれ変わりだとか、全く役に立たない記事しか見つけられなかった。
うさぎは動くだけで他の何かに影響を与えることはしない。
危害はないし、見た目もかわいいうさぎだから不快感もない。
だから黒鋼もそんなに深くこのことについて考えなくなっていた。
しかしやはりおかしいものはおかしい。おかしいものは解決しなければ、どんどん面倒になっていくばかりだ。
昼休みに食堂でファイを見つけ、向かい側に座った。
今日は朝からひどい雨が降っている。
注文したカツ丼に手をつけて黒鋼はファイに尋ねた。
「おまえの家には、人形がたくさんあるんだったな?」
「ん? うん、そうだけど」
ハンバーグ定食の味噌汁をすすってファイは首をかしげた。
「なら、その、なんだ、人形が動いたり、しないか、夜中とかに」
言うと同時にファイが激しくむせて、その拍子に味噌汁がこぼれた。
こうなることは予測できていたから、こんな質問はしたくなかったのに。
「けほっ……待って、何? 今何て言ったの?」
引きつるように笑うファイを腹立たしく思いながらも、人形が動かないかと復唱した。
とうとうファイは首をそらせて盛大に大声で笑った。だから嫌だったんだ。
「あはは、黒みゅうがそんなこと聞くのー? お人形さんが動くのかって?
その顔で? あはは、どうしよ、お腹痛い。ねぇ、もっかい言ってよ」
「くそ、そんなに笑うことねぇだろうが……」
忌々しげに舌打ちすると、ファイが目尻に涙を浮かべてごめんねと謝った。
「人形って生き物の形してるけど、生き物じゃないんだよ?」
「んなこた知ってる」
いつもの黒鋼なら、ここまでバカにされたら軽く殴っているところだろう。
けれど、どうしても聞かなければならない。
あのうさぎの前の持ち主はファイだ。
あのうさぎはファイの家にいた頃もあちこち移動していたのかどうか、はっきりさせなければ。
その黒鋼の真剣さを感じ取ったらしいファイは、さっきまでのおちょくるような笑みをやめて、意味深に目を細めた。
「動くよ」
赤い舌の覗く、形のいい唇が開閉する様子に黒鋼は思わず息を呑んだ。
「人形は、オレの意志で動く」
「あのうさぎも……」
「ファイさん! さっき北都さんが探してましたけど、もう会いましたか?」
黒鋼の言葉を元気な声が遮った。
見ると、ファイと同じ企画部の木崎珠代がパスタをお盆に乗せて立っていた。
「あ、もしかしてさっきのデータ送信、間違えたかな。わかった、ありがとう、すぐ行くー」
珠代に笑いかけ、ファイは急いで残りの昼食を食べだした。
珠代は黒鋼に小さく会釈して、少し離れたところで待っていた友人のもとへ駆け寄った。
ファイは携帯で時間を確認して、黒鋼を見ようともせず食べることに集中してしまったので、それ以上は何も聞き出せなかった。
また今度でもいいか、とも思ったのだが、この機会を逃せば真実には決してたどり着けないのではという不安があった。
食べ終えたファイが立ち上がり盆を持ち上げようとしたその手を、黒鋼が握った。
ファイは驚いてとっさに手を引こうとしたが、強く握っていたのでかなわなかった。
「明日の夜、おまえの家に行ってもいいか」
「え? な、なんで?」
「人形が見たい。それだけだ」
ファイの動揺する瞳をじっと見つめると、すぐにそらされた。
珍しく困っている様子だった。突然家に行くと言われたら当然、誰でも困るだろう。
断られるだろうかと手を引きかけたが、まごつきながらもファイは了承してくれた。
「部屋、あんまりきれいじゃないけど……」
口ごもりながらファイは言うと、じゃあ明日、と笑いかけて食器を返しに行った。
あとになって思うと、よくあんな大胆な行動がとれたものだと自分に感心した。