空間的狼少年

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月の人形劇

特急の電車が通過すると共に、強い風が駅のホームを通り抜けた。
夜のこの時間帯、駅にはあまり人がいない。
三番ホームで電車を待つのは、黒鋼の他には大きなキャリーバッグを二台持っている化粧の濃い女と、鶏のとさかみたいな変な帽子をかぶった中年の男性が二人いるだけだった。
ホームは地下にある。地上では夜も遅いのにたくさんの人が家に帰らず歩き回っている。
蟻のように、わらわらと。
みんな早く、天敵に蹴散らされて、一目散に巣に帰ればいいのにと思う。
やがて各停の電車がやって来て、扉が開いた。
車内を照らす人工的な明かりはやけに現実離れしている。
黒鋼の乗る上りの電車は下りと比べればすいている方だ。
適当なところに腰を下ろして、膝の上に鞄を抱えた。
愛用の黒い鞄にはまっしろなうさぎが一匹、くっついている。

「これ、プレゼント。付けといてあげるね」

今日の帰り際に、黒鋼の鞄にキーホルダーが付けられた。許可もしていないのに、勝手に。

「仲良くするんだよー」

そう言ってファイはとってもかわいいうさぎのキーホルダーを鞄の金具に付けた。
やめろと止めたのに聞きやしない。

「この子の名前はうしゃぎさんだよ」

「うさぎ?」

「うしゃぎ」

自分の鞄に付けろと言おうとしたが、うさぎの名づけ親はすでに鞄にも携帯にも鍵にも、いっぱいキーホルダーを付けていたので言えなかった。
それに、うさぎの名前に疑問を持った時点で、黒鋼はすでにこのキーホルダーを容認していた。
つぶらな瞳のうさぎは背中に羽を生やし、花を一輪持ってる。
こんなもの付けていたらとても外を歩けない。
黒鋼は長身で体格も良く、まるで鍛えられた軍人のような容貌をしている。
他人の目を意識してオドオドするタイプの人間とはかけ離れているが、それでも体裁というものは誰にだってあるし、似合わないものはつまり、みっともないということだ。
恥さらしなのだ。
恥だとはわかっている。
しかし黒鋼はファイがプレゼントだと言ってつけたうさぎを鞄につけたまま、たくさんの人の間を通って駅までやって来た。
実際のところは、他人の目が黒鋼の鞄などに向けられることはほとんどない。
歩幅が広く歩くのが早いためというのもあるが、こんな会社帰りの大人の持つデザイン性のない鞄なんて誰も興味を示さないのだ。
けれど、だから外さなかったというのは、誤りであると黒鋼は知っている。
電車の窓の外は暗く、外灯の少ない川のそばを走っている。
窓に映るのは眉間に皺を寄せた強面の自分の顔だけで、外の様子はよく見えなかった。
明るい電車の中から見る暗い風景は宇宙のようにも深海のようにも思えた。
隕石に乗ったイルカが銀河の隙間の間欠泉の上で遊んでいる、そんな光景だってあり得てしまうだろう。
電車を降りると無人の駅を出て帰途につく。
静かな帰り道、誰かとすれ違うことは一度もない。
もしかしたらこの道は異次元なのではと疑うほどに、誰とも会わない。
こんなことは今まで経験したことがなかった。ファイと出会うまでは。
多くの民家は明かりがついているのに物音は全くしない。
車も走らなければ自転車も走らない。
犬の声だってしないし、虫の一匹も飛ばない。
確かに黒鋼は人込みが嫌いだし、人間を蟻に見立てるほどに人間の群集に苛立ちを感じていた。
けれどなにも、みんなしていなくならなくたって。
自宅のマンションまであと百メートル程度。
耳鳴りがしそうなほど静かな夜道で、誰かが笑う声が聞こえた。
幼い少女のあどけない笑い声のようであったが、周りに人はいないし、この夜道で人の声がしたことなんて、あの会社に勤務するようになってからは、一度もないのに。
くすくすと押し殺したよう無邪気な笑い声だ。
黒鋼は気味悪く感じて舌打ちすると、声はさらに楽しげなものに変わった。
いったいどこからする声だ、まさか幻聴ではあるまい、とよく耳をすますと、声は自分のすぐ隣から聞こえていて背筋がぞくりとした。
うさぎだ、キーホルダーのうさぎが笑っているのだ。
そのことに気づくと笑い声はピタリと止まった。
おまえが笑ってたのか?
そう心のなかでうさぎに問いかけると、うさぎはこっくりとうなずいた、ような気がした。
黒鋼はすっかり自分の頭がおかしくなったに違いないと思った。
仕事はそんなに過酷じゃない。
黒鋼の仕事は勤めている会社の警備だ。
頭がおかしくなるような仕事では決してないはずだし、黒鋼の精神はそう簡単に蝕まれるほど脆弱じゃない。
マンションのエントランスに入ると、ようやく雑音が聞こえるようになった。
どこかの部屋がガスを使っている音、階段をのぼる音、靴のすれる音、鍵を取り出すときの金属音。
ようやく正常になった。うさぎもただのキーホルダーに戻っている。
三階にある自分の部屋に入り、ほっと息をつく。
真っ暗な部屋の電気をつけてすぐに着替え、キーホルダーのうさぎを観察した。
音を出したり、動いたりする機能もない、ただのキーホルダーだ。
黒鋼はうさぎを鞄から取り外した。
実を言うと、外すのを忘れていたとか何とか言って明日もこのまま会社に持っていくつもりだったが、どうにも気味が悪い。
しかし捨てるのも、なんだか恐ろしい。
日本的な慣習のあらわれであろうが、やはり人形を、それも笑う人形をゴミとして捨ててしまうのはためらわれた。
このキーホルダーはいったい何なのか。
いたずら好きのファイが仕組んだ仕掛けなのだろうか。
明日、問いただす必要があるようだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「あぁ、あれ? 本棚に飾ってあったやつだけど、どうかしたー?」

翌日の昼休み、社員食堂であのうさぎはどこで手に入れたのかとファイに尋ねると、彼はそのように答えた。
彼の弟特製のオムライスをスプーンでつつきながら、上機嫌に。

「でも、どうやって手に入れたかは覚えてないなぁー。
 こっちに引っ越してきたときに持って来たんだろうけど、いつから持ってたかな。
 子供のころから持ってたにしてはきれいすぎるし……」

ファイは首をかしげてスプーンを口に突っ込んだ。
食堂はざわざわとうるさくて、全部雑音に聞こえるからこそファイの声は余計に際立って黒鋼の鼓膜に吸い込まれた。

「あれぇー? 何で覚えてないんだろう、昨日、突然現れた気もするなぁ」

「何だそりゃ」

「わかんないや。でも、昨日の朝、本棚にうしゃぎさんがいるの見て、黒たんにプレゼントしなきゃって思ったんだよねー。
 何でかわかんないけどー」

そしてファイは黒鋼の鞄をちらりと見やり、キーホルダーが外されているのを見て少しだけ寂しそうに笑った。
何か言い訳をするべきだと黒鋼は口を開いたが、すぐにファイが別の話を持ち出したのでタイミングを失ってしまった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


やはりこのうさぎは何かおかしい。
帰宅した黒鋼は着替えもせずにうさぎを手に取った。
昨夜眠る前、うさぎはリビングのテーブルの上に置いてあったはずだ。
それなのになぜ今、寝室のサイドテーブルの上にあるのか。
何者かが侵入して、なんてことは考えられない。
何も盗まれた形跡はないし、うさぎだけを移動させる意味のない不審者なんているはずもない。
このうさぎは勝手に動いたに違いない。
たかがキーホルダーのくせに、たかがうさぎのくせに。
人形が動き出す話自体はありふれた話だし、昔からよく聞く怪談話だ。
しかし真実には、人形は勝手に動かない。
人形は生き物ではないし、意志もなければ行動力もない。
動かす脳も動かされる筋肉もないのだ。
奇々怪々。まさか自分の身近なところでこんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
黒鋼はこれまで、とても現実的に生きてきた。
幽霊も怪物も怪奇現象も未確認飛行物体も、何ひとつその片鱗を見せてくれなかった。
それなのに大人になって、これだなんて。 寝室の窓の外は恐ろしいほど静かだ。
きっとあの闇は夜の闇ではなくて、宇宙の闇だ。あの光は銀河の光で、その隙間をいつも黒鋼が乗っている電車がむちゃくちゃに走り回っていて、乗客が悲鳴を上げている。
そんな光景が一瞬のうちに黒鋼の瞳のずっと奥、脳の中心のあたりに描かれたのは、これもやっぱりファイのせいだ。
あの男が何かとんでもない力を持っていて、だから自分もその影響を受けているのだ、そうに違いない。 
無理やりそう思い込んで、黒鋼はうさぎを玄関の靴箱の引き出しの中にしまいこんだ。
気味が悪い、不気味なうさぎは引き出しが閉じられる間際までずっとかわいらしく、かわいい花を黒鋼に見せ付けていた。

続く