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主よ、人の望みの喜びよ 今回降り立った世界は、以前に訪れた山荘のある世界だった。 あの時は確か天候が優れず、暖炉に火を焚いてまったりとしていた。 途中でモコナが怖い話をしようと提案したけれど、結局誰からも震えあがるほどの怖い話は聞けなかった。 そして今日もまた天気が崩れてきて、すっかり太陽は雲に隠されてしまった。 「暗くなってきたねぇ」 「雷ゴロゴロ?」 「鳴るかもね」 ファイとモコナが窓から顔を出して空を眺めている。 真っ黒な雲が一面に広がっていて、すぐにでも雨になりそうだ。 あの時と同じ山荘を借りたのは、思い出に浸ろうとかそんな考えからではなくて、ちょうど誰も利用していなかったからという理由に 過ぎない。 あの頃と同じように旅はしているけども、思い出を追いかけているだけではないから。 小狼が暖炉に薪をくべている最中に扉の開く音がして顔を上げると、ちょうど黒鋼が大きな袋を持って入ってきたところだった。 この山荘には家具以外は何もないから黒鋼が食料を買いに行っていたのだ。 駆け寄ったファイが袋を受け取ろうとするのを断ってキッチンへと運ぶ。 その様子を見た小狼が思わず笑みをこぼすと、黒鋼に何がおかしいんだと睨まれてしまった。 何でもないと首を振れば腑に落ちない表情をしながらも簡単に許してくれた。 何がおかしいって、そんなの、わかりきってることじゃないか。 小狼はもう一人の自分を通して黒鋼とファイと出会ったときから、ずっと彼らは優しいひとだと思っていた。 けれど黒鋼の優しさは幼さの混じったプライドに覆われていて、ファイの優しさは悲しいほどに自己犠牲的だった。 そしてそのときのファイは小狼にとって警戒すべき人間で、東京で実際に会ってからは少し距離を取っていた。 それでも彼のさくらに対する労わりは嘘ではないだろうと感じ得たのだけれども。 もう一人の自分を通して見ていた彼らは、ふざけあう友人同士のようにも見えたが、実のところは彼らの間には深い溝と厚い壁が あり、運命が互いに近づくことを許さなかった。 しかし彼らは谷よりも深い溝を飛び越え、山よりも高い壁を壊して手を取り合った。 その一部始終を見ていた小狼は絶望的な必然が希望へと塗り替えられた瞬間に、声も出ないほどの羨望と対抗心を抱いた。 自分も彼らのようになれるだろうか、と。 全てが不明瞭だったあの頃と比べて、彼らはずいぶん明快に親密になった。 さっきだってそうだ。 買い物に行くと最初に言ったのはファイだった。 すでに買い物袋と換金して得たこの国の貨幣を手に持っていたのに、黒鋼がおまえじゃ時間がかかり過ぎると言って財布を奪い 取ってさっさと出て行ったのだ。 普段はファイがどれほど時間をかけて買い物をしてきても文句なんて言わないくせに、こんなときだけ。 たぶん、ファイが買い物に行っていたなら雨が降る前までには帰って来れなかっただろう。 小狼が一緒に行こうとする間も与えられず、黒鋼は大股で出て行った。 お父さん男前! とモコナがからかうのにも無反応だったところを見ると、もしかしたらそんな役割を与えられていることも、満更では ないのかもしれない。 モコナが旅の仲間に家族的なポジションを与えたのはピッフル国にいた頃だった。 あの時、黒鋼はお父さんと言われるたびに怖い顔で怒鳴っていたものだが、今じゃどうだ、認めるどころか、心地良ささえ感じて いるのではないか? ファイにしたってそうだ。 彼は自分の仕事を他人が代わりに行うことをひどく嫌っていた。 口では感謝の気持ちを述べていても、心は自己本位な罪悪感に苛まれていた。 手伝いを要求するときですら小狼やさくら、モコナを想ってのことだった。 モコナに母親呼ばわりされるのにも態度には出していなかったが、本当はやめて欲しいというような表情をほんの一瞬だけ見せる ときがあった。 そのことを、もう一人の自分が気づいていたかどうかは知らないが。 もともとファイは戦闘や力仕事など、自分にできないことはできないものとして進んで行おうとはしなかった。 それは怠惰ではなくて、できないことで余計に迷惑をかけることを避けるためだった。 だから得意分野の料理や細かい作業は無理してでも遂行しようとしていた。 喜んで仲間のために料理を振る舞い、細やかな気遣いをするファイの姿を小狼はまるで贖罪のために身を削る罪びとのようだと 思っていた。 それが今ではごく自然に黒鋼に料理の手伝いをさせたり、小狼にゴミ出しを頼んだり、モコナを一緒に寝るために寝室に連れ込ん だりすることがある。 そんな風に自分の願望のために人に何かを要求できるようになったファイを、黒鋼はいつも安心したようなやわらかい表情で見ていた。 そしてまたそんなふたりを見て、小狼も笑わずにはいられなかった。 運命に勝利を見せ付けるように、たまにふたりを揶揄するように。 「あー、雨降ってきた」 ばらばらと叩きつけるような雨音に、ファイが急いで窓を閉めた。 真っ暗になって、昼間なのに電気を付ている状況が小狼は好きだった。 ぴかりと外が光ったかと思うと、とたんに空を割るほどの轟音が響いてモコナが楽しそうな悲鳴をあげて小狼の胸に飛びついた。 怖い怖いと愉快そうに歌う。 「ご飯まで時間あるし、また怖い話でもする?」 モコナを指でつつきながらファイが言うと、ポットからお茶を入れた黒鋼が誰も怖がらねぇだろと一蹴してソファに座った。 「えー、そんなこと言って、ほんとは黒様が一番怖がりなんじゃないの?」 「くだらねぇ」 「モコナも黒鋼は怖がりだと思うの。前だって、小狼やサクラの話、すごく怖がってたもん」 「ハッ、あんな話のどこが……」 「ね、そうだよね! 黒たんって人前では強がってるけど布団の中で震えて泣き出すタイプだよね!」 「聞けよ!」 見慣れた光景すら新鮮な気がしたのは、そんなやり取りをしながらもバスケットに入った菓子類をファイがテーブルに置くと、 すぐに黒鋼が手を出したからなのかもしれない。 以前なら、憤慨してそんなものには手を付けなかっただろうに。 「大丈夫だよ、怖いならモコナが一緒に寝てあげるからねっ!」 「そうでなくてもおまえは勝手にベッドに潜り込んで来るだろうが」 少しだけ鬱陶しそうに黒鋼が言うと、ファイがモコナを抱いて正面に座った。 「じゃあオレと一緒がいい?」 ファイは黒鋼に怒鳴られるつもりで軽口を叩いたのだろう。 けれどどうしてか、黒鋼はそれを真面目に受け取ってしまったらしい。 「だからおまえも毎晩俺のベッドで…………いや」 黒鋼が自らの失言に気づいた時にはもう遅く、既にみんなして固まってしまっていた。 モコナでさえからかいの言葉を失いファイの胸に抱かれてぽかんと口を開けていた。 そんな中で一番に正気を取り戻したのはファイだった。 「黒ぽん何言ってんの!? 今のは冗談だよね、ね?」 「お、おう」 「小狼君にモコナ、今のは黒たんの下手な冗談だから気にしないで!」 あたふたと顔を赤らめて慌てるファイに、小狼はふっと笑って暖炉の側を離れた。 「モコナ、今夜はおれと寝ようか」 手を差し出すとモコナはファイの腕から離れ小狼の肩に飛び乗った。 そして口元に手を当てて、意味深な笑顔で黒鋼とファイを見やった。 「今夜だけじゃなくて、ずっと小狼と寝た方がいい?」 「モコナ!」 咎めるようにファイが声を上げると、きゃあと言って小狼の耳の後ろに頭をこすりつけた。 こんな雨では外に出かけることもできないし、このままここに居てはシナモンみたいに甘くてしつこい空気に当てられ てしまいそうだ。 自らの失態を悔やんで頭に手をやっている黒鋼と、苦言をぶつけているファイに背を向けて小狼はモコナを連れて二階の部屋へ と引っ込んだ。 ここではひとり一部屋が与えられている。 さきの黒鋼の言葉によれば、どうやら黒鋼の部屋はふたりで使っているらしいけども。 少し固めのベッドに腰掛けて窓の外を見れば、モコナが肩を下りて小狼の膝の上に移動した。 「小狼、さみしい?」 そう問われて、すぐに否定することができなかった。 あのふたりを見ているとどうしても離れ離れになったさくらのことを思い出してしまう。 もし彼女がここにいたなら、自分もあんな風にするのに、と。 ほんの些細なやり取り、無意識で行われているであろう彼らのやり取りに、あこがれていた。 人ごみで先頭を行く黒鋼がちゃんとファイたちが付いて来ているのか気にして何度も振り向いたりとか、重い荷物は絶対に自分が 持とうとすることとか、 ファイがソファに座ろうとするときは自分の隣に来るようにという意味でクッションを避けたりだとか。 またファイが洗濯の際にいちいち細かい汚れを探して専用の洗剤を用いることとか、黒鋼がまだ完全に義手に慣れていないことを 考慮してコップやスプーンや フォークを取りやすい位置に置くこととか、酒を買うときは必ず黒鋼が好んで飲む種類のものを選ぶことだとか。 そういうことが当たり前に行われていることを、小狼は羨ましく思った。 さくらと離れていた時間は長いし、まだこれからも離れていなければならない。 彼女と再会したときは少しぎこちないかもしれない。 だけど、もう一度さくらと共に時間を過ごすようになったときには、彼らのようになれたらいいと思った。 もちろん、父母のことも尊敬しているしあこがれてもいる。 それとはまた違う意味で小狼は黒鋼とファイをまぶしく感じていた。 「あんなひとたちと一緒にいれば、さみしいなんて思う暇もないな」 そう答えるとモコナは嬉しそうにうなずいた。 ここにさくらがいれば、と思わずにはいられない。 けれどあのひとたちを見ては、今度さくらと会ったときはあんな風に振舞おうと楽しみが増えるのだった。 黒鋼の真似をして強くさくらの肩を抱けば、さくらはどんな顔をするだろう。 ファイの真似をしてさくらの額に優しく口を付ければ、さくらはどんな反応をするだろう。 そう考えれば考えるほど帰る日のことが楽しみで、もしも黒鋼とファイが自分たちの甘いやり取りを真似されていると知ればどん な態度を見せるだろうかと、 いたずら心に笑みが隠せない。 「でもふたりだけであんなだと、なんだかモコナ妬けちゃう」 小狼の膝の上で猫のように丸まったモコナがあくびをしながらそう言った。 やわらかい耳をなでて小狼は扉の向こうの、下の階のひとたちに意識を向けた。 つい口を滑らせてしまったことに拗ねたファイを黒鋼が不器用な手で機嫌を取っている光景が目の前に浮かぶ。 それでも、今夜もやっぱり、彼らは一緒に寝るのだろう。 「おれは、嫉妬するのもバカらしいと思う」 するとモコナはそれもそうだと笑った。 End
題名はバッハより。結婚式の定番曲です