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12.そんなこと言わないで
生臭い夜、と言うのが適切な表現だと思った。
海に近いこの宿は夜になると波の音がよく聞こえる。
それから、宿の裏に住まう虫たちの声と、海の上で渦巻く風の音と、隣で眠る男の寝息。
この世界に来てもう一週間になる。
部屋の割り振りは当然のように子供と大人で分割された。
モコナは一日おきに部屋を行き来している。
窓を開けていれば十も数えないうちに潮のにおいが充満して、黒鋼はもうこれ以上滞在するのにはうんざりしていた。
何度風呂に入っても体中べたつくのも理由のひとつだった。
湿っぽいシーツから逃れて外へ出ると案外寒くて、それにもやっぱりうんざりした。
宿の裏から山道へ続く階段を上り、白い手すりに沿ってまっくらな道を進んでいく。
案内板を無視して険しい方を目指し垂れかかる木の葉を分けながら歩いた。
それほどの時間をかけずに黒鋼が行き着いたのは見晴らしの良い断崖絶壁であった。
そして黒鋼はそこでこちらを向いているひとりの人間を見つけた。
「やっぱり。ここに来ると思ったんだー」
その人間は黒鋼に気づくと、にこりと笑ってみせた。
月光の下で彼は鮮やかにインディゴブルーの背景と同化している。
「なんでおまえがいるんだ」
「こんな時間に黒たんが出て行くから、どこ行くのかなって」
波が崖にぶつかりはじけた。
黒鋼の立つ位置からはよく見えないが、たぶん下には危険きわまりない光景があることだろう。
「あっちにも階段あるんだ、知らなかったでしょ? そっちから来るよりもっと簡単にここに来られるよ」
彼は黒鋼とそう離れた場所にはいないにもかかわらず、とてつもない距離を示している。
背を向けた彼は崖の先へ歩み、大きく下を覗き込んだ。
落ちる、と思った。
そのまま落ちるのだと、思った。
「うわぁ、怖いなぁー」
けれど彼は愉快そうな声でそう言っただけだった。
「あんまり覗き込むな」
「落ちないよぅ」
「いいから、こっち来い」
自殺志願者を引き止めるようなせりふだと、黒鋼は選んだ言葉に後悔した。
来い、と言っても彼は振り向きもしなかったから、そんな言葉は届かなかったのかもしれないけれど。
「こんな光景見てるとさ、なんだか」
崖の下に向かって彼はつぶやく。
「心中、したくなるよね」
「誰とだよ」
「ふふ、すごい、あんなの、落ちたら絶対死んじゃう」
「……わかったから。もうこっちに来い」
彼の白い服のすそが風に揺れて、今にもふっと落ちていきそうな気がした。
気がしただけで絶対にそうはならないのはわかっているが、黒鋼はもう一度呼びかけてもこっちに来ないようなら、引っ張ってでも崖から遠ざけるつもりでいた。
「でもね、オレ、ひとりじゃ決心がつかないから、黒様、背中押してね」
覗き込むのをやめて彼は背筋を伸ばして振り向いた。
細くからまる髪に指を通して、彼はまるで恋をしているかのように瞳を憧れに染めた。
黒鋼の足元で虫が鳴きだした。
断続的な、幻想のような音が響いた。
「断る。なんで俺がそんなことしなきゃならねぇ」
「今じゃなくてもいいから。お願い。ね、ちょっと押すだけでいいんだ」
「嫌だっつってんだろ」
「そんなこと言わないでよー」
それはこっちのせりふだ、というのは、虫の声がやんだために声にならなかった。
さぁ言えと促されているようで意地がそれを許さなかった。
だからたぶん、こんなくだらない理由で、いつか選択を誤ってしまうのだろう。
そうなったときのために選択の失敗を修正する覚悟を今からしておかなければならない。
この男にはどんなにしたって自分の希望は届かない。
手段はぜんぶ、苦肉の策だ。
うんざりする。
End