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千変万化
ファイとの奇妙な食事会は、今でも週に2,3回は行われている。
黒鋼も勤務2年目ということで仕事を多く任されるようになり、また部活動にも強く力を入れるようになったので、
互いの帰宅の時間が合わなくなり最初のころのように毎日というわけにはいかなくなった。
だが回数こそだんだん減っていったものの、関係性が希薄になることはなかった。
基本的に金曜と月曜はファイが夕食をつくりに来て、数日分の簡単な作り置きをしていく。
休日はそれぞれ予定があるから滅多に一緒にはならないが、ときどきファイは黒鋼の部屋に酒を持って訪れたりした。
夕食についての相談は主にメールで行っている。
今日は早く帰れそうだから作っておくとか、遅いから作りに来なくていいとか、そんなやりとり。
ただの職場の同僚とするような会話ではない、と黒鋼はいつもファイから送られてくる簡素なメールの文章を見ては苦笑した。
けれど普段誰ともメールをしない携帯にたまっていくファイからのメールを見ていると、無性にファイに会いたくなった。
「黒りん先生がこっち来るの、久々だねー」
その夜はファイが自分の部屋で夕食を作ったので黒鋼は本当に久々にファイの部屋を訪れた。
自分だけ合鍵を持っているのは悪いと言ってファイは自分の部屋の合鍵を黒鋼に渡していたが、使用したことは一度もない。
だからファイの部屋に上がるのは、最初に料理を振舞われた日以来だ。
「ほとんど変わってねぇな」
人の部屋にはいろいろ買い込んで来るくせに、ファイの部屋は物が少なくさっぱりしている。
とは言っても黒鋼と違って最低限必要なものだけを、というような部屋ではなく、棚や机やソファにしても、それなりに選んで買ったものであるようだ。
皿を並べるファイを手伝おうとしたとき、ふとラックの上に飾ってある写真が目に入った。
「これ、おまえが撮ったのか?」
ヨーロッパ風の、海岸沿いのきれいな町並みの写真だった。
海と空の青に挟まれ、山を削って建てられた白い家々が静かに写っている。
「あぁ、それー? うん、オレが撮ったやつだよ」
「どこの町なんだ?」
尋ねると、ファイは白い写真立てのふちをそっと撫でて、ポジターノ、と言った。
「イタリアだよ」
聞き慣れない地名に首を傾げるとファイが笑ってそう補足した。
「16歳のとき、カメラを買ってもらったんだ。よく撮れてるでしょー?」
そう言ってファイはスープを温めるために台所に立った。
16歳のファイ。イタリアのポジターノ。
どちらも黒鋼には全く想像できないものだ。
黒鋼の知らないファイがこの写真のなかにいるのだと思うと、この音のない風景のなかに飛び込んでカメラを手にするファイを見てみたくなった。
しかしそんなことを言って、それ以外のことも何も知らないのだ。
国籍も年齢も血液型も、過去も現在も、ファイの何もかもを黒鋼は知らない。
自分で撮ったと言うイタリアの写真を部屋に飾る心情すらも、知ることはできない。
あたたかいコーンスープを机に置いたファイが椅子を引いて黒鋼を呼ぶ。
尋ねることは簡単だが聞き出すことは不可能だ。
それだけが黒鋼の、ファイについて知るところのものだった。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど」
半分ほど食事を終えたところでファイが改まったように話し出した。
マカロニサラダとハヤシライスとハッシュドポテトは今日もとてもおいしかった。
「黒様先生なら、もし、いじめを見つけたとき、どう対応する?」
いつもは勝手に喋って勝手に話題を変えていくので、こんな風に意見を求められるのはあまりないことだった。
「誰かいじめられてんのか?」
「うーん、よくわからないんだ」
曖昧な返事に黒鋼は眉をひそめる。
堀鐔学園で目立ったいじめの話は聞いたことがなかった。
自由な校風と平和な雰囲気のため、喧嘩やいざこざは当然あるが、陰湿ないじめなどは無いと断言できる。
しかしその状態がずっと継続できるわけではない。
「女の子同士の喧嘩って、いろいろと複雑だしさー。突然仲が悪くなったり仲直りしたり、どう対処すればいいのかなって」
珍しく本気で悩んでいるようで、ファイは食事の手を止めてため息をついた。
「それは俺にもわからねぇな。だがあんまり悪化するようなら口出ししないわけにはいかないだろ」
「そうなんだけどねー。本人が自分で何とかするからって言ってるしー」
「本人? 誰だ?」
ファイは少し言いよどんだが、うつむき加減のまま、サクラちゃんと答えた。
「意外だな」
「うんー、でもやっぱりすごくいい子だから、妬まれちゃうのかなーって」
沈殿したコーンスープを混ぜながらファイは重く息を吐いた。
意外だと思ったのはいじめの対象がサクラであったことの他に、ファイがこんな顔もするのかということもあった。
悩みや困りごととは無縁の笑顔で楽しそうに生きているものだから、そういった深刻な問題にも深入りしないものだと思っていた。
ファイは繊細な人間だ。
それは黒鋼にも見抜くことができた。
けれど、だからこそ自分から苦しみを浴びる愚行などしない賢い人間だと思っていたのだ。
その認識はどうやら違っていたらしい。
ファイはひとりの生徒の苦しみを自分に写し、彼女には悟られぬようその原因を取り払ってやろうとしている。
「まぁ、今は様子見だな」
「んー。大事にならないといいんだけど……」
黒鋼も、それには同感だった。
夕食後にファイはカンパリソーダを飲んだ。
黒鋼にも同じものを出してくれたが、この乱れた胸中ではあまり飲み進められなかった。
先日、サクラに言われたことが黒鋼の平常心を破壊しようとしていた。
ファイの言うようないじめを受けているとはとても思えない明るさで、今日も彼女は小狼やひまわりたちと笑っていた。
迷いのない、まっすぐの素直さで。
ファイは日常的に黒鋼の側にいた。
だからファイに対する感情がこんなにまで膨らんでいたなんて、気づけなかった。
しぼんでいた新品の風船をふと見たらいつの間にか割れそうなくらい膨らんでいたような感覚。
どうしてこんなことなってしまったのか不思議に思う気持ちでいっぱいで、この風船がこうなればいいとか、そんな希望を持つ余裕なんてなかった。
自分が風船を持っていることには気づいていた。
それがだんだん膨らんできているのにも気づいていた。
でも意識したのは、サクラのあのひとことを受けたあとだった。
意識は時に自分の感情までもを支配する。
これまでファイを一度も具体的に意識したことがなかったのは、もしかしたら防衛本能だったのかもしれない。
自ら苦しみを浴びる愚行をしないための。
「そういえばさぁ」
二杯目を注ぎながらソファに座るファイが床に座る黒鋼の襟をひっぱった。
振り向くとわずかに頬を染めたファイがテーブルからレモンを取った。
「あのね、商店街にね、おいしいオムライス屋さんがあってねー」
「オムライス?」
聞き返すとファイは一瞬ためらうような仕草をした。
「ほんとにすっごくおいしくて、感動するくらいおいしくて。だからその、黒たん先生も行ってきたらどうかなーなんて……」
消えていく語尾に、黒鋼が何だそりゃと言うとファイは目線をそらした。
「だからー! おいしかったの! オムライスが!」
「良かったな」
「ちがう! 違うの! 黒ぽん先生も行ってきてって言ってるの!」
「何でだ? 何かあるのか?」
またよからぬことを理事長と企んでいるんじゃないかと疑うと、ファイはうなり声を上げてソファに倒れこんだ。
「もういいよー……」
ファイは顔を赤くしてクッションに顔をうずめてしまい、黒鋼がわき腹をつついても身をよじって嫌がるだけで起きようとしなかった。
訳がわからず、もう眠くなったとぐずるファイにタオルケットをかけてやるとそのまま寝る体勢に入ってしまった。
「そのオムライス屋は商店街のどこにあるんだ?」
帰り支度を整えつつ尋ねると、ファイは拗ねた顔で舌を出した。
「教えてあげない。絶対教えてあげない」
「おまえが行けっつったんだろが」
「……もう帰るの?」
ファイは肘をついてわずかに体を起こした。
その声に、机の上のものを片付けて電気を消そうとしていた黒鋼は、心臓に甘い針を刺されたような痛みを受けた。
これまで、こんなことは幾度かあった。
でもそれは痛みではなく熱い感動で、ファイの新たな一面を見るたびに新作の絵画に見惚れていたようなものだった。
「眠いんだろ。鍵は外からかけといてやるから」
「……うん、じゃあ、また学校でね」
電気を消した暗い部屋で、ファイは小さく手を振った。
このまま眠る彼の隣であの柔らかな髪をなでて、安らかな寝顔を朝まで見ることができなたら、どんなにか幸せなことだろう。
意識性を持った感動は、やがて欲望へと変わっていく。
この風船が割れてしまったとき自分はいったいどのような行動を取るだろうか。
黒鋼はファイの部屋に鍵をかけて、そっと扉に手を当てた。
小春日和のようにやさしくて、氷砂糖のようにあまい、そんな恋をしている。
続く
少々不穏なフラグと(ようやく)黒ファイがくっつきそうなフラグが立ったところで次回は子供たちのお話