空間的狼少年

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プレリュード

いつのまにか、ファイは黒鋼の部屋にごく自然に馴染んでいた。
単調で飾り気がなく、必要なものを使いやすい位置に置いた、生活のためだけの部屋だったのが、ファイが黒鋼のもとを訪れるようになってからはずいぶん華やかになった。
だから馴染まされたのは部屋の方なのかもしれないが、黒鋼にしてみればどっちでも変わらないことだった。
控えめなレースのついたクリーム色のテーブルクロスとか、赤い花の絵の魔法瓶とか、ベッド脇のサイドテーブルのペン立てに刺さったひまわりの造花とか。
台所にはどんな料理道具があるのかなんてもう黒鋼は把握していない。
それらは黒鋼にはぜんぜん必要のないものだけれど、こういった人を飾り立てるものの中にいるファイを見るのはそれなりに気に入っていた。
黒鋼はファイの人となりを少し苦手に感じていたが、1年前の7月の深緑の下、あたたかな陽光に抱かれ振り向いて手招きをするファイの姿を見たときに、
このきれいな宝石を手元でずっと見ていられたらと思った。
そう思ったことには驚いたが、否定するにはあまりにももったいない感動だった。
そしてその感動は今でも黒鋼の心の奥できらめき続けている。
黒鋼がはじめてファイと出会ったのは、黒鋼が新しい職場である堀鍔学園に最初に赴いたときのことだった。
堀鍔学園で働くより以前、黒鋼は都会の公立高校に勤めていた。
どこでもいいから早く勤務先を見つけて両親を安心させてやろうと焦って、ろくに職場のことを調べなかったために、都会のごちゃごちゃした街の中にある高校は自分には
合わないということに気づけなかった。
都会人は冷たくて非人道的だと時折耳にするが、実際は批判されるほどのことでもなかったし、黒鋼は田舎の人間であるけども深い人付き合いを好まないので、電子辞書の
読み上げ機能みたいな声で喋る人間も不快には感じなかった。
しかし田舎で育った黒鋼には、やけにスカートの短い生徒や狭い校庭、道路に囲まれていること、生徒も教師も電車で通勤するのが普通なこと、勤めて3年でそれらのことに
耐えられなくなった。
そんなとき、はかったかのように堀鍔学園への転任の話を持ちかけられた。
そこは学園都市と呼ばれるひとつの街だった。
何だっていい、ここから出られるのなら、どこでも天国だ。
そう思って黒鋼はやはりこのときもろくに調べなかったが、後悔を繰り返すようなことにはならなかった。
結果としては、黒鋼は堀鍔学園で働き生活することを気に入っていた。
理事長が少々問題のある人間であるのが面倒なところだが、慣れてしまえば楽しむ方法を見つける余裕もできた。
穏やかに、たまに平和を乱されながら、緩やかに。
しかし同じ時間が、線路を走る電車のように続くことはあり得ない。
太陽の光をいっぱいに受けて反射する金髪と、海よりは淡く空よりも透明な瞳を持つあの男へ抱いた感動が、しだいに黒鋼の本能的な欲望を覆う錆を削ぎ落としていった。
ファイへの第一印象はとてもまっとうなもので、その容姿に反して英語の教師ではなく化学の教師であるという意外性への驚きだった。
日本語の発音も日本人と全く同じで、教師にしてはやけに整った顔立ちだと、その程度の印象だった。
体育教師である黒鋼にはそう関わりのない人間だろうと思っていたのだが、なんと職員寮の部屋が隣同士であったために、よく朝から顔を合わせることになった。
堀鍔学園への赴任と同時に剣道部の顧問も受け持った黒鋼は朝練のある日以外は玄関を出たところか、そうでないなら寮のエントランス付近で必ずと言って良いほど
ファイと出くわした。
ファイは黙っていれば知的でおとなしい好青年のように見えるのに、口を開けば余計なことばかりを喋った。
黒鋼に妙なあだ名を付け、愉快なことが大好きな理事長の侑子と一緒になって黒鋼をからかった。
侑子だって女優のようなスタイルで、それらしい顔をしていればどんな男も彼女に従わなければならない気にさせるカリスマ性を持っているのに、いきなり窓から現れたり
訳のわからないイベントを開いたり、とても教育者とは思えない振る舞いだった。
本当はファイと侑子がとても思慮深く繊細な心の持ち主であることは黒鋼も知っているが、こうも毎日のようにおもちゃにされたのではたまらない。
最初は遠慮して自分は冗談の通じない人間だということをそれとなく分からせようとしたのだが、ファイは一向に黒鋼をからかうことを止めず、エスカレートしていくばかりだった。
そのうち同じ教師という立場も忘れて怒鳴り散らすようになったが、ファイは嬉しそうな声を上げて逃げるだけだった。
もともとファイは黒鋼に対して敬語はいらないと言っていた。
その理由をファイは「オレはガイジンだから」と述べた。
ファイが黒鋼をターゲットにしたきっかけは、部屋が隣同士だからということではなかった。
黒鋼が新しい職場で働くようになって1ヶ月経った5月のころ、放課後に職員室で数人の職員と雑談していたときのことだった。
男のひとり暮らしは食事が悲しいものになりますよね、とひとりの独身男性教員が黒鋼に話しかけ、そこで結婚したばかりだと言う社会教師の有栖川が妻の
料理の自慢をし出し、そこに侑子が男も料理ができないとダメな時代よと加わり、黒鋼のデスクの周りには人が集まり始めた。
黒鋼先生は夕食はどんな感じですか、と聞かれ、インスタントのラーメンが多い、と答えたとき、近くでがたんと大きな音がした。
振り向くと、ファイがひとクラス分のノートを入り口近くの長机に置いて何とも切なげな表情で黒鋼を見て言った。

「もー! こんな時間に黒たん先生がラーメンとか言うから、ラーメン食べたくなってきたー!」

そしてその晩、黒鋼はファイと共にラーメン屋を訪れることになった。
俺のせいじゃないだろうとか、黒たん先生って何だとか、いろいろ言いたいことがあったのに、侑子がおいしいラーメン屋を知っているとファイに教え、せっかくだから
黒鋼と一緒に行けばいいと提案し、黒鋼が何も意見できないままに夜の予定を決められてしまった。
あまり他の教員と個人的な付き合いはしたくないと思っていたから乗り気ではなかったのだけれども、侑子のすすめた店のラーメンは本当においしくて、嫌な気分も消えていった。
ファイは始終上機嫌でしょうゆラーメンを食べビールを飲んだ。
飲食街の片隅にあるこの店は狭くて煙たくて床もべたついていたが、そんな庶民らしさも黒鋼は快く思った。
ファイは楽しそうによく喋り、黒鋼が相槌を打つ暇もなく次々に新しい話題を持ち出した。
感想を求められることもなく聞いているだけなのは楽だったし、何よりファイは話上手だった。
話されることは学園のことや教師や生徒のことばかりで、ファイは自分のことを話すこともなければ黒鋼を詮索することもなかった。
気を遣っているのだろうかと黒鋼がファイのプライベートに関する質問をしてみると、ファイは一瞬戸惑った顔をして、すぐに笑顔で当たり障りのない返答をした。
年齢を聞けば「1億歳くらい」と答え、だったらおまえ人間の祖先じゃねぇかと言うと盛大に笑った。
出身地を聞けば「寒いところ」と答え、それ以上の地名は言わなかった。
勤務年数を聞くと2年と答えたが、それまではどうしていたんだと聞くと「地底人として海で暮らしていた」と大真面目な顔で言った。
そんな問答を繰り返す内に黒鋼はだんだん苛々してきて、何でもいいから真実を引きずりだしてやろうと躍起になっていた。
黒鋼が自分の情報を与えても同じようにうっすらとした反応を示すだけで、もっとわかりやすい、目の前の料理の味や学校の問題児の話に移し変えようとした。
どうしてそんなに互いを知ろうとすることを避けるのかわからなかった。
しかしわからないでは済ませられないほど、黒鋼はファイに苛立ちを感じていた。
楽しそうにしていたが、実のところは彼も侑子に逆らえなかっただけで黒鋼と食事になど来たくなかったのではないか、彼も黒鋼と関わりたくなどなく、そのために自分たち以外を
対象にした話題ばかりを選んでいるのではないか。
濁った疑念は黒鋼の中で渦巻き、良くも悪くも感じていなかったファイへの印象がだんだん悪い方へと傾きだしていた。
黒鋼は嘘をつく人間が嫌いだった。
他人を騙して目的を得ようとする卑怯さが、嫌いだった。
黒鋼が不機嫌になっていくのをファイも感じ取ったらしく、ぺらぺらと喋るのを止め、そろそろ出ようかと言って目を伏せた。
これ以上は関わりたくない。
そのとき黒鋼は強くそう感じたはずなのに、今ではファイが自分の部屋にいることが当然の風景になっている。
ふたりでラーメン屋に出かけた翌日に、ファイが昨日のお詫びだと言って黒鋼に料理を振舞った。
黒鋼は断ったのだが、もうふたり分作ったからと強引に部屋に引き込まれた。
アンティーク調の掠れた色をしたダイニングテーブルには見事な料理が並べられていた。
真ん中にピンクのエビで彩られたサラダがあり、から揚げとポテトは揚げたてらしいにおいで、少量のグラタンと、あたたかな野菜スープとライスとワイングラスがふたり分置かれていた。
これをひとりで作ったのかと感嘆すると、ファイは照れ臭そうに微笑んだ。
食事会は昨晩とは打って変わって静かなものになった。
昨日のようにファイはうるさく喋らず、テレビを観ながらゆっくりとワインを飲み進めた。
帰り際に、こんなに料理が上手なら毎日の食事も苦にならないだろうと黒鋼が言うと、ファイは料理は好きだが自分が食べる料理はしないと言った。
話を聞くと、驚くべきことにファイがいちばんよく作る料理は「キャベツご飯」だという。
名前の通り塩で漬けたキャベツを白米に乗せただけの簡単な食事だ。
「自分で食べるだけの料理をするなんて馬鹿らしい」とファイは自嘲気味に笑った。
そのときの表情が、黒鋼が昨晩苛立ちを感じるほどに求めた真実の1つのようで、滑り落ちるように「それなら」と口を開いていた。
それなら、俺の分の食事も作ってはくれないか、と。
どのような言い回しをしたかはもう覚えていないが、そのようなことをファイに告げた。
食費は出すから代わりに作って欲しい、それならお互いちゃんとした食事ができる、と。
ファイはひどく驚いていたが、口に合わないかもしれないけど、と了承した。
それから黒鋼とファイは奇妙な関係を築き上げることになった。
ファイが先に帰るときは渡された合鍵で黒鋼の部屋で料理をする。
黒鋼が先に帰るときは(滅多にないのだが)ファイの帰りを犬のように待つ。
関わりたくないと思ったのはいったい誰だ、と過去の自分に突っ込みたくなるが、利害が一致したのだから不満はこぼせない。
あのような豪華な食事は毎日は作れないが、簡単ながらもファイは様々な料理を振舞った。
けれどファイの態度は最初にラーメン屋を訪れたときと同じものになっていた。
直接ファイや黒鋼に関係する話題は一切出さず、学校のことや芸能人のこと、季節のこと、時には惑星や素粒子なんかについても話題にした。
学校にいるときと同じような妙なあだ名で呼び、安いからかい方をした。
黒鋼はあのときのようにファイに真実は求めなかった。
こんな風に喋るファイの全てが偽りであるわけではないし、真実を得たところで、黒鋼にはいらないものだ。
食事を共にする仲。
初めのころはまるで通い妻だ、という考えがよぎったが、この状況をファイは「ルームシェアみたい」と称したので、黒鋼もそう考えることにした。
ずっと人の手のこもった食事をしていなかったから、それが得られることは黒鋼に大きな価値をもたらした。
食事の見栄えを良くするためと言ってファイはテーブルクロスを買い、その他にも装飾品をときどき買ってきた。
金を払っているのはファイなので好きにさせているが何とも思わないわけではない。
ファイのいないあいだも、部屋にはファイの存在が色濃く残されている。
何とも思わないはずがない。
ある7月の朝、授業開始前に短い会議があることをすっかりを忘れていた黒鋼が急いで寮を飛び出したとき、少し先にファイがいた。
そこでやっと気づいた。
いつもこうして会うような気がしていたのは、自分がファイを気にかけていたからだ。
他にも職員はたくさんいるのに誰にも意識が向けられていない。
だからファイを見つけたときの記憶ばかりが強く刻まれて、いつも会うような気がしていたのだ。
実際はそんなに毎日は見かけていないのかもしれないのに。
深い緑に染まった学校への道を歩いていたファイが不意に振り返った。
そして木漏れ日のなか、黒鋼を見つけて透き通った目を細め、「早く」と手招きをするファイを見たときに、自分の感情が苛立ちを感じたあの日のままでないことを思い知った。
真っ白な白衣に包まれた細い体を、長く器用な白い指を、薄い桃色の爪を、しなやかな脚を、ときどき覗く形のいい耳を、笑ってばかりの唇を、光の輪を作ってきらめく髪を、
限界のない広がりを持つ蒼い瞳を、この腕に収めて、自分のものにできたなら。
ファイとの関係はあの日のままなのに、孵化した気持ちは早くも羽をはばたかせている。
焼け付くような痛みが胸をかすめたのを、無かったことにしたかったのに、黒鋼は今でもその熱に苦しんでいる。

続く
次回は現在の黒ファイ