空間的狼少年

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非存在の夏休み 4話


朝は、まだ眠いと言ってぼんやりと目をこするファイの見送りを受けて家を出て、昼になって学校から帰ればどこへも行かずおとなしくしていたファイの出迎えを受けた。
母が入院してからは、父は朝が早いのでいつも黒鋼はひとりで家を出てひとりで家に帰ってきていた。
無垢な笑顔でおかえりと言われて、黒鋼は靴紐が絡まってしゃがみ込まざるを得ない振りをしなければならなかった。
まだ慣れない。
真っ白の状態から自分を評価されることへの喜びと不安は、予想以上に黒鋼を翻弄した。
学校の人間ならばお互いに関わりたくないという共通意識で精神的には一歩どころかメートル単位で離れた位置での接触で済むのに、ファイと接する場合はそういうわけにはいかない。
容認してしまった以上、上手に扱い留まらせておかなければならないのだ。

「前に一緒にいた奴ってのは、どんな人間だったんだ?」

購買で安く買ったパンとたこ焼きをテーブルに広げて、ファイに尋ねた。
前例を聞けばファイの扱いに関する何か有益な情報が得られるかもしれないと思ったのだ。
ペットの飼い方でも調べている気分で探りをいれようとしただけだったのに、ファイは構ってもらえることが嬉しいようで、いそいそと黒鋼の隣に座った。

「気になるー?」

「まぁ、おまえみたいな正体のわからん奴をそばに置くような人間がどんな神経してたのかは、気になるな」

その返答はファイが期待したものとは全く違ったらしく彼は不満そうに頬杖をついた。

「どんな神経って、みんな黒たんと同じだよ」

「俺と?」

「そう。みんな寂しい人だった。だから寂しがり屋のオレと一緒にいてくれたの」

自分に限ってそれはない、と否定することはできなかった。
半世紀以上も昔の人間ともなれば現代に生きる自分とは思考もずいぶん変化しているものと思っていたが、どうやら時代の影響を受けない普遍的な感情が存在しているようだ。

「黒様の前に一緒にいたのは、幼い女の子だったよ」

ファイは前髪を梳くしぐさで顔を隠した。
すぐ隣にいるためにぐっと覗き込まなければ表情は見えない。
黒鋼は正面を向いたままファイの凝固した声だけに耳を傾けた。

「春香ちゃんっていう子でね、戦争で両親を亡くしてひとりぼっちだったんだー。そこにつけ込んでオレはその子と一緒に行動するようになったの。
すごくいい子だった。お母さんが秘術っていうのを使う人で、春香ちゃんも十分にその力を受け継いでたから、オレを認識してくれた。
あの子は、どうやって生きればいいのかわからないって、こんな時代にひとりでなんて生きていけないって、毎日泣いてた。
死にたいって、言ってた。でも春香ちゃんに死なれたらまたオレを見つけてくれる人を探さなきゃいけないから、必死で説得したよー。
それで春香ちゃんはできたばっかりの製薬会社に雑用でいいですからってお願いして雇ってもらって、どうにか生きてはいけるようになった。
給料は少ないし家もないし仕事も辛かったはずなのに、いつもオレに笑いかけてくれた。
毎晩、ふたりで河原にダンボールを敷いて寝転んで新しい星座を作るのが楽しみだった。
それから春香ちゃんは頑張りが認められて見事、正式な社員として雇ってもらえるようになったんだー。
そしたら春香ちゃん、すごくかわいいから、すぐに結婚が決まっちゃってねー。相手の人も裕福ではなかったけど、春香ちゃんを大事にしてくれる人だった。
だから、オレは別れた。さすがにいつまでも付きまとうわけにはいかないからねぇ。
行かないでって泣かれちゃったからそのまま逃げたら、いつの間にか50年以上も経ってたよー」

そして顔を上げたときのファイの笑顔に、黒鋼は目を背けたくなるほど気持ちの悪い恐怖を感じた。
差別的とも言える、排他的な恐怖だった。
ファイが人間の顔をしていたって本当は人間ではないのだと強く実感した。
動物が人間にそっくりな顔をしているのを見たときに、人間はそれを恐ろしいと感じる。
人形を気味悪く思うのも同じだ。

「オレの正体を知っても、怖がらなかった。一緒にいようって言ってくれた。きっと、あのときがいちばん幸せだった」

けれど、そう言って目を閉じたファイは、もう人間のようにしか見えなくなっていた。
姿形の問題ではない、まぶたのやわらかさ、少しだけ上がった口角、対になるように下がった眉。
疑うことすら馬鹿げていると言ってしまえるくらい、ファイからは非人間的な異質さが根こそぎ消え去っていた。
黒鋼は淡々と語られた想像しがたい昔の話を聞いて、ファイが話の中でいくつか嘘をついているに違いないと確信していた。
少女の名前や就職先などの真偽はわからないが、孤独な少女につけ込んだというところや、死なれたら自分が困るから説得したというところは間違いなく嘘であろう。
ファイはまだ出会って4日目の不思議な存在だが、ファイが決して非人道的な存在ではないことを黒鋼は知っていた。
でなければ黒鋼の精気を吸うことを遠慮したりなどしまい。
どうしてわざわざ自分を貶めるような言い回しをしたのかまでは黒鋼に推測することはできないが、そんな風に意図して自分の価値を下げる行動を取るのは、人間だけだ。

「どうしてか、オレを見てくれるのって、いっつも小さい子供だったんだよねー。
だから今までオレと話をした人の中では、黒みーが最年長だよ。案外、メルヘン思考なの?」

「メルヘンな存在なのか、おまえは?」

「……程遠いね」

聞き返すと、ファイは困ったように首をかしげて微笑んだ。

「最初に聞き損ねたが、おまえは何なんだ?」

するとファイはじっと黒鋼を見つめた。
秋晴れの空のような瞳に物寂しさを感じた。

「んー……そうだなぁ。えっと、じゃあ、クイズ形式! オレの正体、当ててみてよー!」

ファイは宙に浮かぶと黒鋼に巻きつくように体を寄せた。
氷が放つ冷気が体を通り抜ける。
身震いしてファイの肩をつかんで引き離し、冷気を遠ざけた。

「正解したら、豪華商品をプレゼントしたりしなかったりしまーす!」

「絶対しないだろ」

「わかんないよー?」

「別に言いたくないなら構わねぇがな。おまえの正体が何だろうと俺には興味もねぇ」

食べ終えた昼食のごみをまとめて立ち上がると、ファイが驚いたように大きな目をぱちくりさせた。

「何なんだって聞いたくせに」

「隠れてるものがあれば気になるだろ。知ったところで何も変わらねぇ」

「君、変だよ。オレは人間じゃないんだよ?」

「地球上には人間以外の生き物の方が多いだろ」

「そういうことじゃなくて……」

その声が今にも泣き出しそうだったので、黒鋼はファイの背に手を当てて、落ち着かせようと2、3度軽く叩いた。
しかしファイはその手から逃れるようにうつむいて黒鋼から離れ、何も言わずに壁をすり抜けて家から出て行ってしまった。
一体どれがファイを悲しませる言葉だったのかさっぱりわからず、ファイがすり抜けた壁を眉をひそめて眺めた。
足もなく、温度もなく、空を飛ぶし壁はすり抜ける。
人間でないことは百も承知だが、ファイの正体が何であるのか、その名称を知ろうとすることには意味を見出せなかった。
犬を見ればそれが人間でないことはすぐわかるが、社会で生きるための知識的な価値以外に犬を犬として知る意味が黒鋼にはわからなかった。
名称は区別のためのものだ。
黒鋼はファイを知るために必要なのはファイ自身だけだと考えていた。
たとえばファイの正体が河童だとしたら、その名称を聞けば持っている知識とイメージでファイを判断してしまう。
ファイは未知の存在だ。
勝手に人間が作り出した伝説的なイメージでファイを知ろうとしてはいけない。
本人以外のところから発せられた批評で評価される苦しみを、黒鋼はよく知っている。
だから正体が何であれ、長く存在した過去がどのようなものであれ、ファイへの評価を先入観やイメージで良くしたり悪くしたりしたくなかった。
それが正しい判断の仕方だと黒鋼は信じていたのに、ファイは一体どうしてあんなに悲しそうな顔をしたのだろうか。



ファイが帰ってきたのは翌日の朝だった。
考え事をしていたら朝になっていたと言う。
どうやらファイは体内時計というものを所持していないようだ。
玄関の姿見の前で制服を整え、じわじわと体温が上がっていく外へ一歩踏み出して、戸を閉める前に屋内のファイに向き直った。

「おまえが何だろうと関係ねぇが、隠されるのも気にいらねぇ。何かヒントよこせ」

ヒントと言われ、ファイは難しそうな声を上げて首をひねった。
それからためらうように視線をさまよわせ、両手の指を組んだり離したりした。

「ヒントになるかどうかはわかんないけどー……」

怯えるように、それなのにどこか嬉しそうに、ファイは口を開いた。

「春香ちゃんはオレを、未来だって言ってくれた」

続く