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非存在の夏休み 3話
「30分経ったわ。もうみんな解き終えたわね?」
月曜の1時限目は古典の授業だった。
黒鋼のクラスの担任であり古典教師である壱原侑子の声で生徒たちはペンを置いた。
20分で解けと配られた古文の過去問は、それなりに難しいものだった。
国語は黒鋼の苦手分野ではないが、どうしても解くのに時間がかかってしまい、後の問題は読むこともできないまま時間が足りずに終わってしまうことがよくある。
ひとつ疑問を覚えてしまえばなかなか次の文章に移ることができないのだ。
「それじゃ、先に答えだけ言うから採点しなさい」
マーク式の問題は5分の1の確率で正解するはずなのに、黒鋼の解答は間違いばかりだった。
苦手ではないはずなのにどうしてこんなに間違いばかりなのかと侑子の解説もそっちのけで考えると、昨日のあれの存在が頭から離れないせいだという結論にたどり着いた。
昨日、黒鋼がこのままいてもいいと受け入れたファイは、近辺を散歩してくると言ったまま帰ってこなかった。
あんなに容認されたことを喜んでいたくせに朝になっても姿を現さず、肩透かしをくらわされた黒鋼はいらいらした気分のまま登校することになった。
散歩にしては長すぎるんじゃないかという不満は誰にもぶつけることができず心の中に蓄積される。
黒鋼が隣の席の蘇摩に対してあの妙な男の存在を打ち明けたとしても、精神異常者でも見るような労りの目で休息を促されるだろう。
いくら蘇摩が物分かりの良い、他人を人一倍気遣うことのできる人間であっても自分の目に見えない何かを信じることは不可能だ。
それに黒鋼がファイのことを誰にも言わないでおこうと決めたのは、信じてもらえないという理由だけではない。
自分がファイに選ばれたことに、少なからずの優越感を感じていたのだ。
お前たちが散々恐れ見下し陰口を叩いていた俺は、人間を超越したあの男に選ばれたのだ、これはお前たちにはない何か素晴らしいものを俺が持っているという歴然たる証拠ではないか。
黒鋼の劣等感は、ファイの存在を見て、声を聞き、そして彼ができるはずがないと言った、彼に触れるということを成し遂げたことによって、からからに干からびたプールに水が与えられるかのように満たされていった。
「君になら見つけてもらえると思った」と言ったファイの言葉が、他でもない自分こそが彼にとって最も必要な人物であると示しているのだ。
黒鋼は家族以外の誰からも頼られることがなかった。
頼みごとをすれば怖い目で睨まれるからだとかで、誰も黒鋼に手伝いを要求するようなことはなかった。
すぐ近くにいて、黒鋼しか教室にいないという状況でもみんな隣のクラスへもっと親しみやすい人を探しに行った。
原因が恐れであっても、これでは信頼されていないということと同じことになる。
黒鋼が頼まれれば必ずその通りに動くつもりでも他者からの要求がなければ自分が信頼されるに足る人間であることを主張することはできない。
特別に他人から信頼されたいとは思わないが、まるで不誠実な人物として扱われているようで納得がいかなかった。
しかしそんな胸を占める行き場のない澱んだ憤りも、ファイによっていくらか解消されていたのだ。
不当な扱いを受けていたからこそ、ファイというたった1人の謎の存在に求められることでも黒鋼は得も言われぬ喜びを感じることができた。
そしてそれがどれほど大事にしなければならないことか、この機会を失ってはもう自分は二度と他の誰にも必要とされない、黙して嘆くだけの人間に成り果ててしまうのではないかと、火の付いた線香花火を持って移動するかのごとき慎重さでファイと接するつもりでいた。
それなのにファイは黒鋼の気など知らず、のんきに散歩へなど行ったのだ。
帰宅した頃にはファイは帰っているだろうか。
朝起きてファイの姿が無いことを確認してからそればかりを考えている。
このまま彼が帰ってこなければ、黒鋼はただ自分の欲望から出た幻に騙されていることにも気付かず歓喜し優越感に浸っていた、哀れで滑稽な男になってしまう。
わずかにこみ上げてくる羞恥を、まだ早いと押さえつけ、頭の奥の方から全身に流れ出る不安と期待に耐え続けた。
全ての授業が終わり、終礼が終わると黒鋼は鞄を引っつかんで早足で教室を出て全力で自転車をこいで帰った。
今日は曇っているが気温にそう変化はない。
家につくと汗が顎を伝って落ちた。
自転車を止めて、いつもと同じシンと静まり返った家の鍵を開ける。
蒸された空気でいっぱいの居間には誰もおらず、誰かがいた気配も無い。
やはりあれは幻だったのか、と目の奥が暗くなるのを感じていると、頭上から声が降ってきた。
「あ、黒たんだー。おかえりー」
見上げると、天井の電気の隣から上半身だけ表したファイがコウモリのような格好でぶら下がっていた。
「……ずいぶん長い散歩だったな」
嫌味をこめたつもりだったが、ファイはにっこり笑って黒鋼の隣に下りてきた。
「途中で猫見つけて、追いかけてたら迷子になっちゃったんだよねー。やっと帰ってこれたよー」
良かったと笑うファイに、黒鋼は一気に疲労感に見舞われた。
何も不安になることなどなかった、ファイはもうこの家を帰る場所だと決めているのだ。
脱力して、昼飯を買ってくると告げて再び玄関へ向かった。
帰りに買ってくれば良かったのに、と言うファイの言葉には何も返せなかった。
昼食後、黒鋼は自室で勉強に取り掛かったが、後ろでふよふよと浮いて暇を持て余しているファイが気になって、どうにも集中できなかった。
ファイはぼんやりと窓の外を眺めたり壁を見つめていたりで、何もしない。
おとなしくしていろと言ったのは黒鋼だったが、こうまでおとなしいと逆に気が散ってしまう。
「おい」
「んー?」
「おまえ、ひとりでいた頃はいつも何してたんだ?」
振り返って尋ねてみると、ファイは嬉しそうな顔をした。
「そうだねぇ、旅行みたいな感じかなぁ。色んなとこ見てまわったり。ずっと昔は、ヨーロッパにいたんだー。日本に来たのは100年くらい前でね。
太平洋の真ん中で迷子になったときはもうダメだと思ったよー」
太平洋の真ん中での迷子は超人でも精神に異常をきたすような恐ろしさだが、ファイは全くその恐怖を表現する気もなく楽しそうに話した。
黒鋼に構ってもらえるのが嬉しいらしく、どんな話でもしてあげるよとでも言いたげな顔だ。
「ずっとひとりだったのか?」
「ううん。たまに君みたいにオレと一緒にいてくれる人がいたんだ。前の人は50年くらい前に会って、その前は……もう忘れちゃった」
笑顔のままだが、ファイは寂しさを隠しきれていなかった。
ファイは誰かと一緒にいて、話をするのが好きなのだろう。
しかしそれも叶わずひとり放浪し、楽しさを伝える相手もおらず、海の真ん中で孤独に陸を探す寂しさは黒鋼には想像すらできない。
正しく認識されない気持ちは黒鋼にもわかると思っていたが、その程度の理解では到底及ばない。
「前の人はね、結構長く一緒にいてくれたんだー。でも結婚するって決まってね、一緒にいられなくなった」
ファイは目を伏せ睫毛を震わせた。
何と声をかければよいものかと黒鋼が思案していると、ファイはいつもの笑顔で顔を上げ、黒鋼の机のそばに来た。
胡散臭い笑顔だ、と思った。
「ところで、黒様は受験生なんだよね?」
「あぁ……ってだからその妙なあだ名はやめろ!」
「えー。じゃあ黒様もオレのことファイ様って呼んでいいよ?」
「……格差できてねぇか、それ」
「そんなことないよー。で、何の勉強してるのー?」
机に向かう黒鋼の腕の間にずいと入ってきたファイが教科書を眺める。
ファイと重なる箇所はやはり触れることなく通り抜け、ひんやりと冷気だけが伝わる。
冷気を感じるのは精気を吸うときだけではないらしい、もしかしたら夏の季節には案外便利かもしれない。
「邪魔だ」
しかしそんなところにいられては何もできない。
通り抜けると言っても、向こうが透けて見えるわけではないのだ。
「英語かぁ。わかんないとこあったら教えてあげるよー」
「いらねぇ」
手で払いのけるようにするとファイは黒鋼の間から移動して背後にやってくる。
わざとなのだろうが背中に冷気が当てられ、ぞくりとする。
それも無視するとファイはつまらなさそうに口を尖らせた。
「I can teach you English」
「いらねぇっつってんだろ」
流暢な英語だが、ファイに勉強を教わるというのにはいささかの抵抗がある。
黒鋼はもともとプライドが高く、人に教えを請うということが苦手だった。
「I’m bored なう」
「知るか」
「あ、そうだ! オレ、化学も得意だよ! その発見と発展の様子をこの目で見てきたんだからね! オレの教えを受ければセンター8割超えも余裕で……」
「生物選択」
「ばかー!」
どうして生物を選択しただけでバカ呼ばわりされなければならないのかわからないが、ファイは叫んだあと、すっかり拗ねてしまって、黒鋼に背を向けてベッドの上で体育座りで浮遊している。
おとなしくしていても、うるさくしても気が散る。
しかしファイの機嫌を損ねてしまえば、黒鋼の家から出て行ってしまう可能性もある。
それだけは避けなければならない、なんせファイは黒鋼にとっての座敷わらしのような存在なのだ。
幸福が運ばれてこない内に出て行かれては困る。
「あー、じゃあ、DVDでも観るか?」
黒鋼の部屋には以前、居間に置いていた少し古いテレビがある。
ほとんど観ないので常に電源を切っているが、まだまだ使えるはずだ。
「うるさくない?」
「耳栓あるから気にすんな」
父の部屋の戸棚の中からいくらかDVDを取ってファイに見せる。
並べられたDVDから彼は天空に城が浮いている話のアニメ映画を選んだ。
テレビを付けてセットしていると、ファイが申し訳なさそうにうつむいた。
「こんなこと、してくれなくてもいいんだよ」
「いいから観てろ」
「勉強の邪魔だから出て行けって、何でそう言わないの?」
「俺にだって都合はあんだよ。同情だけでてめぇをここに置いたわけじゃねぇ」
するとファイは少しだけ安心したように肩をおろした。
「なら、いいんだ。君もオレに対して打算があるなら、いいんだ」
打算と言われ、確かに間違いではないのに黒鋼はその言い方に不満を覚えた。
同情だけではない、しかし打算だけでもないのだ。
だが黒鋼にはそれを上手にわかってもらえるだけの文章を作ることができない。
さっきまでと同じ笑顔でテレビの映像に夢中になるファイに求めるのは、富や権力や名声ではなく、誰もが得られるはずの平凡な幸福だ。
母の病気が良くなって元気でいてくれたらいい、父の仕事が楽になって趣味に使える時間ができればいい、自分の成績が上がって志望校に受かればいい。
ファイに対するこの願いは、神社で賽銭を入れて願う神頼みのようなものだ。
人間でも動物でもない存在であるファイが黒鋼のもとへやって来るというあり得ない事態が起こるのならば、そんな些細な願いくらいは叶うのではないだろうかと、根拠もなく当てにしている。
だから黒鋼の願いは正確にはファイ自身にではなく、ファイを通した、漠然とした神的な存在に対するものである。
「良いことを運んでくる」のは、どこかからという意味であり、ファイ自身が人間に幸福を与える存在ではないことは黒鋼にもわかっている。
そんなことは本物の神にしかできないだろう。
ファイはその媒介者で、例えば神話に出る神の使いのような役であるのだ。
黒鋼がファイ自身に求めるのは、これまで満たされることのなかった、人間の根本的な欲求だ。
テレビの画面に釘付けになっているファイを横目で見ながら、こんな風に誰かを部屋に上げるのは小学生の頃以来だと思った。
その夜は父がいつもより早めに帰ってきたので、夕食は父と一緒だった。
ファイはそのあいだ、2階で音量を小さくしてテレビを観ていた。
父は母のような特殊な勘はないのでファイを感じることはできないだろうから、黒鋼は父にもファイの存在を隠すことにした。
母がこの場にいれば話しても信じてもらえるかもしれないが、自分の言葉だけではあまりにも説得力がない。
入浴を済ませて自室に戻るとファイはテレビの前でうとうとしていた。
人間のように食事をしないので、てっきりファイは眠らないものだと思っていた黒鋼は珍しく感じそっとファイの顔を覗き込んだ。
足がお化けのようになっているということ以外は、ファイは人間と全く同じだった。
黄金の砂のような髪は触れるとやわらかく高級な毛皮のような触感を与えてくれる。
このまま触って起こすのも悪いので、そのまま黒鋼は静かに机に向かった。
ファイが目を覚ましたのは黒鋼がちょうど眠ろうかと思っていたときで、眠そうな目をこすりながら黒鋼のそばに来た。
「ねむいよぅ」
「さっきまで寝てたじゃねぇか」
「半分起きてた。黒たんがオレの頭なでてくれたときも、ちゃんと起きてたよー」
それを聞いて黒鋼は机を片付けていた手を止めた。
「人間ってすごくあったかいんだねぇ」
慌てて何か上手い言い訳はないかと考えあぐねるが、ファイはその必要性を否定した。
「ねぇ、もっとなでて」
目線のすぐ下にある黄金色の髪と透明感のある蒼い瞳に、黒鋼は突然何か言い知れない興奮に打たれた。
とんでもない芸術作品を目の当たりにしたような、不完全な自分に紛れも無い完全性を突きつけられたような。
本当に自分が触っても良いのかと逡巡するほどの神聖さに黒鋼は瞬きすることさえままならなかった。
しかしファイが早くと急かすので、ためらいつつも手をその頭に乗せそっとなでると、ファイはくすぐったそうに幼い表情で笑った。
この純潔さは危険だ。
ひとしきりなでるとすぐに黒鋼は身を引いた。
「寝るときはどうしてるんだ?」
「このままだよ。浮いて寝るの」
ファイはこんな感じにと言って、ハンモックの上で眠るような体勢を取って見せた。
「ここで寝るか?」
「いいの? オレがいると眠れないんじゃない?」
「いや、別に。電気消すぞ」
真っ暗になった部屋の中で、ファイの体は青白く浮かび上がった。
この状態でこの姿を見れば黒鋼も声を上げて驚いていたかもしれない。
だがファイの容姿は恐怖の対象にするにはあまりにも柔和で、アンバランスな気がした。
「おやすみ、黒りん」
「あぁ」
こうして誰かと同じ部屋で眠るのは、修学旅行を除けば親と一緒に寝ていたとき以来だ。
笑い出したくなるほど生ぬるい湯で心臓を包んでいるような感覚に黒鋼の口は自然に笑みの形を作った。
このまま眠ってしまうのがもったいない、けれど明日も明後日も繰り返す夜だと思えば、眠りたくても眠れなくなってしまう。
ファイが気にしたのは他人の気配が睡眠の妨げになるのではないかということだったが、実際に黒鋼の睡眠を妨げているのはもっと俗的な、子どもらしい高揚だ。
ファイを容認したことに打算があるのは事実だ。
しかし、この感情までもを打算に入れてしまえば、黒鋼は常軌を逸した計算高い崇高な人間だということになってしまうだろう。
カエルの声だけが聞こえる静かな夜に2人分の寝息が穏やかに響いた。
続く