空間的狼少年

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非存在の夏休み 2話

いつまでもテーブルに押さえつけたままでは可哀想なのでファイを解放してやると、ファイは黒鋼と距離を取ってテーブルの向こう側に移動した。
どうやら警戒しているらしいが、黒鋼もまた勝手に人の精気を吸う謎の存在を警戒している。
お互いに牽制しつつ見つめ合い、緊迫した空気が流れる。

「オレに触れた人間は、君が初めてだよ」

黒鋼に腕を掴まれたことに相当ショックを受けているらしく、ファイは腕をさすりながら険しい顔をする。
これならファイを追い返せるのではないかと黒鋼は考えていたが、対抗できる手段を得られたと言ってもファイは人の精気を吸う存在だ。
危険性は計り知れない。

「君がオレの初めての人だよ」

「その言い方はやめろ」

危険性は計り知れないが、ファイを吸血鬼のようなものかと捉えていた黒鋼は、それを否定しだんだん蚊のようなものかと油断し始めていた。
これが黒鋼よりも大きくいかつい人間の姿であったり、ホラー映画に出てくるような化け物の姿をしていればファイに脅威を感じていただろう。
しかしファイはやせっぽっちで柔和な顔立ちで、喋る内容もどこか常識はずれだ。
これではちょっと厄介な虫が入り込んできた、くらいの危機感にしかならない。

「うーん、なんか怖いなぁー。怖いからオレ今日は帰るねー」

しょんぼりしたファイが両手をだらんと伸ばして壁に向かう。

「あ、そうだ。君、名前なんていうの?」

一瞬答えて良いものか迷ったが、あまり有害でもなさそうだと判断する。

「黒鋼だ」

「わかったー。黒たんねー」

教えた名前と全く違う名前を呼びながらファイは壁をすり抜けて出て行った。
有害ではないが、厄介なものには変わりないようだ。


翌日、朝起きて黒鋼が居間へ下りると父が帰っていた。
仮眠を取って昼になればまた仕事に行くと言う。
今日は日曜日なので黒鋼はゆっくりと朝食を食べるつもりだが、父は急いで紅茶を飲むと寝室にこもった。
よく体を壊さないものだと感心する。
幼い頃は自分以外の誰に対しても絶対的な力を持っていると思っていた父であったが、最近では父が社会に使われ、人並みに苦悩する、ただの人間であることが分かってきた。
それでも黒鋼にとって父は最も尊敬すべき人間であり、これほどの人格者はなかなかいないだろうと確信していた。
生まれたときから黒鋼は父親に瓜二つだと言われ続けてきた。
反抗期にはそれが恥ずかしく感じることもあったが、今ではどうすれば父親のようになれるのかと模索するようになった。
父は人の上に立つことのできる人種だった。
他人をわかりやすく思いやることのできない黒鋼は父に対して尊敬する反面、コンプレックスを抱いていた。
父が母に接するときの優しい仕草、言葉や労りを父から学ぶことができないでいた。
父のように他人に優しくするということが、どうしてもできない。
たとえば学校で筆箱の中身を床にばら撒いてしまった女子生徒のボールペンを拾って渡したとき、ひとつ笑いかけてでもやれたらよいものを、無骨な態度で突き出すことしかできなかった。
長身で恰幅の良い黒鋼にそのように見下ろされた女子生徒は反射的に身を縮め、人食いの猛獣と対面しているかのような怯え方でペンを受け取り礼を言った。
少女は機嫌を害したために牙を向かれる小動物のようだった。
黒鋼の学校での評判は良い意味でも悪い意味でも「怖い」であった。
いじめや嫌がらせを受けたことは一度も無いが、他の子どもたちのように叩き合ってふざけて遊ぶということも無かった。
もともと黒鋼は力が強く、取っ組み合いの喧嘩ではいつも相手を泣かせていた。
そのせいで友達の母親から「あの子とはあまり遊ばない方がいい」という噂を流され、友達からは一線を引かれ、知らぬところで危険人物だと仕立て上げられていった。
母は、喧嘩になれば考えるよりも先に手が出てしまうのは父と同じだと笑ってくれた。
父は、その強い力で大事なものを守ればいいんだと頭をなでてくれた。
けれど黒鋼はそのようにまだ見えない将来を達観することはできず、みんなと一緒に同じ枠組みの中で遊びたかった。
父母からは気にしなくていいと言われたが黒鋼は自分が他人と一線を画した場所にいることがどうしようもなく悲しくて、しだいに他人との深い関わりを避けるようになった。
どうせ理解されないのだから、こちらも理解する努力などしない。
いや、自分が他人を理解できないから、他人に理解してもらえないのだ。
そのことに気付いてから黒鋼は「怖い」に加えて「人嫌い」のレッテルまで張られることになったが、その方が好都合だと弁解することはなかった。
朝食の後、家の周りを軽くジョギングしてシャワーを浴びると黒鋼は勉強に取り掛かる。
これは部活を辞めたあとに始めた習慣だ。
扇風機を回して窓を全開にして、数学のチャートを取り出して問題を解き始める。
数学は最も苦手な科目で、今の成績のままでは志望校に届かない。
要するに黒鋼は人間に対して論理的に物事を考えることができない、本能的な、言い換えれば動物らしい人間だということだ。
だから黒鋼は人間であることに固執してヒトらしさから離れていく人間があまり好きではなかった。
それから3時間ほど経つと父に仕事に行くと声をかけられ、もう昼なのだと気付いた。
ぐっと体を伸ばし食べるものは何かあったかと台所に下り冷蔵庫を開けたところで、そういえば今の今まで忘れていた昨日のあれは何だったのかと思い出した。
母が言っていた、それが何かはわからないが「良いことを運んできてくれる」もの。
幽霊のようでも幽霊ではなく、人の顔をしているのに人ではない。
そのせいなのか黒鋼を恐れず真っ向から訳のわからないことを話す訳のわからない存在。
しかしそれは今になって考えれば、ずっと憧れていた気が置けない、素のままで接することのできる友人のようなものではなかっただろうか。
だがあんな非現実的なものは、もしかしたら深層心理における欲望の表れで、勉強疲れによる幻だったかとしれないと記憶も曖昧になってきた。
が、その記憶は拍子抜けするような現実的な声によって紛れも無く事実であったと強く刻印されることとなった。

「あー、黒様おはよー」

ひらひらと手を振って、昨日と全く同じ姿で金髪の男が後ろのコンロの下から現れた。
上半身だけをコンロから出している。
もぐら叩きのようだ、と思うと黒鋼はコンロの火を最大火力で点火した。
すると素っ頓狂な悲鳴を上げてファイが飛び出した。

「なんてことするのー! 別に火傷はしないけど、今のは人間のすることじゃないよ!」

この悪魔! と叫ぶファイの頭を掴むと黒鋼は居間の方へファイを全力で投げた。
下半身は煙ということもあって軽々とファイは投げ飛ばされた。

「何しに来た」

自分でも物騒だと思うほどの低音で尋ねるとファイはひゅるんと体勢を持ち直し、向かってくる黒鋼と距離を保ちながら両手で静止を促した。

「待って待って。吸わないから!」

黒鋼が足を止めるとファイも止まり、話を聞いてくれと訴える。
無理やり追い出したところで、壁をすり抜けるファイはまたいくらでも勝手に入り込んでくるだろう。
ため息をついて、話せと言うとファイは安心したように体の力を抜いた。

「あのね、人間がオレに触れるなんて絶対にあり得ないことなんだー。でも黒りんはそれをやってのけた。
なんでかなって一晩中考えてたんだけど、わかんなくて、もう1回確かめに来ましたー」

ファイはへらりと笑って黒鋼のそばへやって来た。
さっき投げ飛ばされたばかりだというのに全く恐れる様子も無い。
そして黒鋼に手を伸ばし何度も触れようと試みるが、ファイの手は黒鋼の胸から背中へと突き抜るだけだった。
やっぱりとファイはうなずいて、首をかしげる。

「ね、ちょっとオレに触ってみて?」

言われるままにファイの肩に手を置くと、冷たい温度と固い骨の感触が手のひらに伝わった。
ファイはさらに首をかしげる。

「なんでオレからは触れないのに、黒るーはオレに触れるのかなー」

問いかけるように言われても、そんなこと黒鋼にもわからない。
そもそもファイの存在自体が謎なのだから、わかるはずもない。
肩に置いた手を金色の髪に移動させ、そっと梳いてみると高級な糸のようにさらさらと指の間を流れた。
わけのわからない存在ではあるが、これはきれいだ、と黒鋼は感心した。

「ところで、黒りんは今からお昼ご飯?」

棚の上のカップラーメンをファイが指差す。

「そうだ」

「そっかー。オレもお腹すいたなー」

ちらりと横目で視線を送ってくるのを無視して鍋に水を入れて火にかける。
その間もファイはゆらゆらと黒鋼の周りをわざとらしく飛び回る。
昨日は勝手に精気を吸ったと言ったくせにどうして今は許可を求めているのだろうか。
疑問に思ったが関わりたくないので聞かないことにした。
が、ファイは聞いてもいないのに勝手に語りだした。

「オレ、あんまり人に害を及ぼしたくないんだー。だからほんとは精気なんて吸いたくない。
人に認識されないと消えちゃうってシステムも嫌い。
誰かに迷惑をかけないと存在していられないのが、すごく、悲しい」

その言葉は黒鋼の心に深く響いた。
悲しいと言うファイの声が、幼い頃の自分の声と重なった。

「オレが消えたところで何の問題もないけど、今はまだダメなんだ。
オレはやらなくちゃいけないことがあるから、どうしても消えたくない。でも、無理かなぁ
。 自然科学が発展してからみんなオレをなかなか認めてくれなくてねー。オレをオレとして見てくれないの。
たまに見てくれる人がいても悪霊だとか言われたりしてさー……
昨日はごめんね。君がオレを怖がらなかったのが嬉しくて、ついはしゃいじゃった。
確かめたいっていうのもあったけど今日は謝りたくて来たんだ、ごめんなさい」

昨日の口調とは正反対の、何もかもを諦めているような口調に黒鋼は意表を突かれた。
絶望しないだけのぎりぎりの希望を持って、拒絶される前に拒絶するその臆病さにわずかながらの苛立ちを感じた。
昨日と同じような図々しさでいてくれたら遠慮なく叩き出せたのに。
黒鋼は勝ち取れるはずのものを、苦慮して手を出さずにいる人間を何よりも嫌っていた。
それはおそらく同属嫌悪であるのだろう。
悩んで苦しむばかりでは、欲しいものは手に入らないのに。

「吸えばいいだろ」

「……え?」

うつむいていたファイが驚いて顔を上げた。
黒鋼は沸騰しだした鍋の中身に視線を固定する。
夏の暑さに湯気の暑さまでもが加わり、額に浮かんだ汗を拭った。

「やらなきゃならねぇことがあるなら、吸えばいいだろうが」

「でも、嫌でしょー?」

「おまえが気にすることじゃねぇだろ。人間だって肉食うときにいちいち許可なんざ取ってねぇよ」

ファイは困ったように笑って、でも、と言うので黒鋼はファイの目の前に腕を差し出した。

「さっさと吸え」

「でも」

「早くしろ!」

「は、はいっ!」

おずおずとファイは黒鋼の腕に口を近づけると、すぅっと息を吸った。
夏の台所には似合わぬ冷気が黒鋼の腕を取り巻きファイが肩を震わせ、黒鋼を見上げて泣きそうな顔でありがとうと言った。
そんな顔で礼を言われても全然嬉しくないのに、黒鋼はどうして自分に礼を言う奴らはそろってこうも怯えているのかと憤りを感じた。
それが自分に原因があるのだとわかってはいるものの、いつもこうなってしまう。

「ごめんね。もう吸わないから、ごめんね」

申し訳なさそうに謝り続けるファイに黒鋼は苦笑する。

「昨日の威勢の良さはどこ行ったんだ」

「昨日は、断られるってわかってたから、あんな風に言えたんだ」

矛盾している。
黒鋼はファイを自分と似たところがあると思ったが、どうやら根底は全く別の色をしているようだ。

「それで、どれくらい吸えば、そのやらなきゃらなねぇこととやらを完遂できるんだ」

「ううん、もういらない」

ファイは首を振って黒鋼の目線よりも高く浮き上がった。
天井に頭が付きそうだが、黒鋼も背が高いので少し見上げる程度だった。

「責任取れとか言ったのはおまえだろう」

「それも、断られるってわかってから言えたんだよ」

「また別の人間を探すのか」

ファイは黒鋼の視線から逃れるように流し台の上の窓の外を眺めた。
その姿は厭世的で、黒鋼には到底たどり着けない境地の神像のようだった。

「実はオレ、人間とこんな風に話すのって30年ぶりなんだー」

沸騰した火を止めてカップラーメンの蓋を開け、熱い湯を注ぎファイに向き直る。

「嬉しかったし、楽しかった。だからもういいよ。
君に認識されたことと、精気を吸ったことでもう3年はこっちにいられるから、大丈夫。ごめんね、迷惑かけて」

寂しそうに笑うファイの手を引いて引き寄せるとファイは体を強張らせた。
天井を通り抜けようとしていたファイが黒鋼の目線の下まで風船のように下ろされる。

「見下ろされるのは好きじゃねぇんだ」

「ご、ごめん……」

「それから、昨日今日で言うこと変えんな。最初に言ったことを貫徹しろ」

「……え?」

「協力してやるって言ってんだ」

そう言うとファイは大きな蒼い目を見開いてまばたきした。

「どうして? 君にメリットはないよ?」

「あるかもしれねぇだろ」

黒鋼は占いや風水に興味はないが、良いことを運んで来てくれると言った母の言葉は信じるに値するものだと思っていた。
あの母が、間違ったことを言うはずがない。
今はまだ面倒なだけでも、きっと母の言葉通りに何かしら「良いこと」が起こるはずだ。

「で、昨日言ってた責任ってのはどういう意味なんだ。俺に何をしてもらう気でいた」

落ち着かない様子のままファイはしどろもどろに説明する。

「えっと、その、オレを認識して、見てくれてるだけでいいんだ。
そしたら何ていうのかな、君たちの言葉で言うなら、生命力とか霊力とか、そういうのが溜まっていく。
それをオレは溜めなきゃならなくて、精気吸うのは、吸えば吸っただけ力も増えていくからで、それが尽きたらオレは消えちゃって……」

ファイは両手の指を絡めながら黒鋼の強い視線に耐える。
食器乾燥機の中から箸を取り出した黒鋼がファイに背を向けカップラーメンを手にリビングへ移動する。
その後をファイがふよふよと追う。

「わかった」

「え……あの……」

「見てるだけでいいんだろ。勉強の邪魔しねぇなら、その霊力とやらが溜まるまでここにいろ」

できたての熱い麺をすすり言うと、ファイが息を呑むのが感じ取れた。

「ほんとに、いいの?」

「そう言ってるんだ」

「じゃあ、えっとね、夏の間だけでいいから、ここにいてもいい?」

上目遣いで控えめに尋ねるファイに黒鋼が頷くと、ファイはぱぁっと顔を輝かせた。

「やったー! 今日からここがオレん家だー!」

「いや、おまえん家ではねぇよ!」

ばんざいの格好であちこち飛び回って喜びを表現するファイを見ながら黒鋼は犬猫でも拾った気になっていた。
入り込んできた虫、というには愛着がわきすぎた。
それに母の言葉が本当なら、もしかしたら母の病気が良くなるとか、父の仕事が少しでも楽になるとか、成績が上がるとか、志望校に受かるとか、そんなことがあるかもしれないじゃないか。
ファイはいわゆる座敷わらしのようなもので、ただそこにいるだけで何かしらの幸福が呼び寄せられてくるのかもしれない。
ファイを容認するには、同情心だけでは足りなくて、そういった打算がなければ未知の存在であるファイをここに置く気にはなれなかった。
それに何よりも、ファイを拒絶することは母の言葉までもを拒絶するようで、昨日からずっとファイを否定することに罪悪感を抱いていた。
歓声を上げて黒鋼の周りを飛び回るファイを見れば、誰であるということもない、超越した何者かに許されたような気がしてほっと息をついた。

「優しいね、黒様! ありがとう!」

ようやくうろちょろ飛び回るのをやめたファイが黒鋼の隣にやって来た。
こんなに眩しい笑顔で優しいなんて言われたのは初めてで、怯えもせず心から礼を言われるのも初めてで、黒鋼はどこかむず痒い気分になった。

「よろしくねー 黒たん!」

夏はまだまだこれからだ、高校生活最後の夏休みはさぞ騒がしくなるのだろう。
差し出された手を取り黒鋼はふっと笑って、ずっと胸にわだかまっていた言葉を吐き出した。

「その黒たんってのやめろ!」

「ちょ、痛い! 手痛い痛いー!」

学年ナンバーワンの強さを誇る握力でファイの手を握り締めてやると、ファイはばたばたと暴れながら悲鳴を上げた。
ずっと、こんな関係を望んでいたのではなかったかと、許しを下した何者かがささやきかけた。

続く