空間的狼少年

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非存在の夏休み 1話


7月20日、終業式も終わり世間は夏休みモードだというのに黒鋼はアスファルトも焼けるほど暑い中、難しい顔で学校へ向かっていた。
うるさい蝉の鳴き声を聞きながら、額に汗を浮かべ自転車をこぐ。
高校3年生の夏、受験生である黒鋼は学校で行われる課外授業に出るため夏休みだからと浮かれることもなく、参考書の詰まった鞄をかごに入れて緩やかな長い坂を上っていた。
途中から急な勾配になるこの坂は生徒たちにとっての憎むべき敵だ。
高2以下の生徒に課外授業はないが、部活動のために学校へ行く生徒は多かった。
だから黒鋼の通う高校は、夏休みに入ったというのに多くの生徒が登校する。
入道雲を背にぐんぐん周りの生徒を追い抜かしてようやく校門が見えたと思ったとき、黒鋼はふと首筋にひやりとした冷気のようなものを感じ急ブレーキをかけた。
高い音を出して自転車は止まり、ばっと首に手を当て後ろを振り返ってみたが、首には何もないし後ろには誰もいない。
気のせいかと汗をぬぐって再び自転車のペダルに力を入れる。
それが彼の人生の大きな機転となる奇妙な夏休みの始まりの合図だとも知らずに。

「はい、じゃあ今日はこれで終わりだけど、勉強したい人は5時まで自習室が開いてるから使いなさい。ただし静かにね」

夏休みの課外授業は午前中だけだ。
担任がHRを終えると掃除当番以外の者は学食を食べに行ったり、持参した弁当を広げだしたりした。
黒鋼は今日は残るつもりはないので教材を鞄に詰めて帰り支度を整える。

「黒鋼は残らないのですか?」

隣の席の蘇摩が窓を開けながら黒鋼に尋ねた。
教室のクーラーは授業終了と共に全て止まるようになっている。
もちろん事務室に頼めばつけてくれるが。

「あぁ。今日は見舞いの日だからな」

「そうでしたか。早く退院できるといいですね」

黒鋼の母は生まれつき病弱で、子どもの頃から入退院を繰り返していた。
今も調子を悪くしていて、今年の春前から入院している。
あなたの受験のサポートをしたかったのに、と悲しそうに言う母の姿を見て、黒鋼は今まで以上に勉強に力を入れるようになった。
外資系の企業で働く父は仕事が忙しいため家にいることが少なかった。
そんなこともあり、黒鋼は物心ついたときからずっと母を守るのは自分だと思っていた。
母の入院する病院は黒鋼の家からそう遠くないところにある。
一度家に帰り着替え、スーパーで母の好きないちごのヨーグルトや桃のゼリーなんかを買って病院に向かう。
じりじりと照りつける太陽をものともせず黒鋼は自転車をこぎ続ける。
そして歩道橋の前で一度自転車を降りたとき、今朝首すじに感じたあの冷たさがふっと腕に巻きついたのを感じた。
冷凍庫を開けたときのような重たい冷気。
ぞくりとしてその何かを振り払おうとしたが、やはり腕にはなにもないし、周りに人はいない。
今日はそういう風の吹き方なのだろうか?
黒鋼は首を傾げながらも特に気にすることなく歩道橋を渡った。
病院は大きくはないが建物は新しくきれいだ。
程よく冷房の効いた病院は、どこか甘いような薬品の匂いと死期の近い患者のマイナスの匂いで満ちていて、黒鋼は無意識のうちに口で呼吸していた。
黒鋼の母の病室は6人部屋で、他にはどこが悪いのか分からないほど元気な少女や、気難しそうなひげの男性が入院していた。
黒鋼が病室に入り一番奥のベッドの前に立つと、本を読んでいた母が顔を上げ黒鋼を見て優しく微笑んだ。
家にいたころよりも痩せている。

「来てくれたのね」

ベッドの隣の椅子を引き寄せ座り、先ほど買った見舞いの品を渡すと母は嬉しそうな声をあげた。

「私の好きなものばかりね。ありがとう」

「具合は?」

「あなたが今日来てくれるって聞いてから、ずっと調子が良いの」

真っ黒な長い髪をひとつに束ねた母が口元に手を当てて笑う。
母がとても清楚で上品な人だと会う人みんなに言われるのが黒鋼は誇らしかった。
閉め切られた窓からは水色の空と小高い山が見え、その上を鳶が旋回している。

「お父さんは忙しそう?」

母は袋からひとつゼリーを取り出し食べ始めた。
あなたもどう? とすすめられるのをやんわりと断る。

「毎日帰りが遅いし、朝も早い。けど、来月の初め頃には見舞いに来れるらしい」

そう言うと母はゼリーを食べる手を止め、目を細めてどこか異空間を見るような目をした。
それから黒鋼は学校や成績のこと、最近のできごと、友人のあれこれを話した。
口下手で要領を得ない話し方ではあるが母は息子の話ならなんでも楽しそうに聞いた。

「あら、もうこんな時間。ごめんなさいね、勉強しなきゃならないのに」

時計を見るともう4時を回っていた。
毎日家にいれば自分のことはほとんど話さない黒鋼だが、離れて暮らしているとどうしても話し込んでしまう。
それに母が自分のことを話すと喜んでくれるのを知っているから、黒鋼も貴重な勉強時間を母との対話に当てることを苦に思わなかった。
親らしい口調で体には十分気をつけるようにというようなことを何度も注意されながら黒鋼が席を立つと、母が突然不思議そうにそっと黒鋼の腕をなでた。

「……なにか、あった?」

心配そうな母の顔を見て、黒鋼は昼間感じたあの冷気を思い出した。
母は昔から他人には感じられないものを言い当てることができるのだと言っていた。
けれど母はそれを頑なにただの勘の良い体質だとして、決して霊的な現象などには結び付けようとしなかった。
あとで父から聞いたのだが、黒鋼がおかしなものを信じ込まないようにするためだったらしい。
母の感じることに間違いはなく、例えば出かけた先で嫌な感じがすると言えば通り雨にやられたり、朝の目覚めが良いと言えばちょうどお歳暮が届いたり。
そんな「異様に勘がはたらく」というようなことはしょっちゅうあったので、黒鋼は母の卓越した感覚に疑問を抱くこともなくなっていた。

「悪い感じか?」

「いいえ、そうじゃないんだけど、こんなのは私も初めて。
でも悪いものではないわ。きっと、あなたに良いことを運んできてくれる」

病院を出ると道路からの熱気が体にまとわりついた。
片手でもう片方の腕をなでてみても黒鋼は母のように「何か」を感じることはできないが、母がああ言ったからには必ず何かが起こるのだろう。
悪いものではないのなら問題はないと楽観視して黒鋼は自転車のペダルを強く踏んだ。


その夜、父から今日は帰れないという電話を受けて黒鋼はひとりで夕食をとっていた。
母が入院している間は、黒鋼も父も料理ができないので食事もかなり簡単なものになる。
たらこのソースをかけたパスタと、醤油で焼いただけの鳥の胸肉、それからわかめしか入っていないみそ汁。
それが今日の夕食だった。
料理上手の母の食事を恋しく思うが、母は病院の味気のない料理を食べているのだと思うと我慢せざるを得ない。
食べ盛りの黒鋼には物足りなくても作れないものは作れない。
やかましいだけのバラエティ番組を見ながら簡素なみそ汁をすすっていると、押入れの方から何かが落ちる軽い音が聞こえた。
押入れを見れば少しだけ戸が開いていた。
何が落ちたのかと気になり立ち上がって戸に手をかけると、奥の方で青白い光が見えた。
あんなもの、この家にはなかったはずだ。
がらりと大きく戸を開けると、救急箱や母の化粧品、懐中電灯、ドライヤーなどに隠れるようにして、青白い人間の手がゆらゆらと揺れていた。

「何だこりゃ、気色悪ぃ」

「えっ!?」

黒鋼のそっけない言葉に反応して手が声を出した。
そして慌てたように指をぱたぱた動かすと、こちらに向かって猛獣の手のような形をして見せた。

「全然怖くねぇよ」

黒鋼は幽霊を見たことはないが、そういう類のものは怖がってはいけないと聞いたことがあった。
生きた人間こそが最も優位であると思い知らせてやるのが一番なのだと。
透き通るほど白く細い手は確かに霊的なもののように見えるが、黒鋼からしてみれば手だけが押入れの天井から生えている光景など、恐れる価値もないものだ。
これ以上はどう対処してよいものか分からないので、食事を再開するため押入れを閉めようとすると、白い手がぐわっと黒鋼に向かってきた。
それすら無視して戸を閉めてしまうといつもの日常が戻ってきた。
しかし、明日の話の種にでもするかと黒鋼がテーブルに向かおうとすると

「ぶわぁー!!」

しぶとい手が戸を突き抜けて現れ、そのままずるりと手から腕、腕から肩、そして首、顔と続きなんと人ひとりが押入れから飛び出してきた。
手と同様に青白く透き通った肌の金髪の男だった。
足は無く絵に描いたようなお化けのようにくるんと白く丸まっている。

「びっくりしたー!?」

「……まぁ、少しは」

「だったらもっと悲鳴あげるとかしてよーぅ!」

黒鋼よりも年はもう少し上であろう、西洋人らしい整った顔立ちの男は不満そうにふわふわと空中に浮いたまま黒鋼の周りを巻きつくように飛び回る。

「おまえ、幽霊か何かか?」

「ざんねーん! もっと単純で厄介で不可解で恐ろしい何かでーす!」

恐ろしいと言うわりには明るいなと黒鋼はその男を観察するが、いわゆる幽霊のようなものにしか見えない。
白いシャツを着ただけの姿もまた死人を連想させた。

「オレはファイ。存在と非存在の間の何か。君がびっくりしてくれないからこっちがびっくりしてるよー」

「いや、驚いてはいるが……」

あり得ないものが目の前にいるのだから、そりゃあ驚く。
だが黒鋼は驚いて、それだけだった。

「まぁ、わかったからそろそろ帰ってくれるか?」

「えー!? オレのこと気にならないの!? この何だかわからないオレに興味持たないの!?」

「別に」

「これだから最近の人間は!」

嘆かわしいとでも言うようにファイと名乗った男はわざとらしく首を振った。
黒鋼は勝手に人の家の押入れに入り込む謎の男になど興味を持ちたくもないし、一切関わりたくもなかった。
思い切り驚かすのが目的であったなら、失敗に終わったのだからさっさと次のターゲットに移って欲しい。

「オレね、君になら見つけてもらえると思ってたんだよー。君ってさ、お父さんかお母さんに不思議な力があるでしょ?
君にはあまり遺伝してないみたいだけど、全く遺伝してないわけじゃないんだよ。
だからこうしてやって来たんだけど、ちょっと人が話してるときにテレビなんてみないでよー!」

「うるせぇ。おまえみたいなのに構ってる暇はねぇんだよ」

こんな不思議体験に感動している暇は黒鋼にはなく、早く食事を済ませて勉強に取り掛からなければならない。
今日の授業の復習と次の授業の予習でこのあとの予定は埋まっているのだ。

「ねぇねぇ。ちょっとだけでいいから聞いて?
オレね、幽霊とかじゃなくて、この状態で生まれたの。幽霊は人が死んでなるものでしょ?
でもオレは人間だったことはないし、これから人間に生まれ変わることもないの」

くるくると黒鋼の周りを浮遊しながらファイはうるさく喋り続ける。

「オレのことを人間がなんて呼ぶのかは知らないけど、たぶん人間はオレを幽霊に分類するだろうね。
呼称はなんでもいいんだー。 けどオレは人間とは全く違う存在なの。あるいは存在すらしていない。
で、なんで君のところに来たかと言うとなんだけど、ねぇ、ちょっとさぁ、今から大事なこと言うんだからこっち向いてよー!」

耳元で叫ばれ鬱陶しそうに黒鋼がテレビから視線を外してファイを見る。
満足気にうなずくとファイは腕組みをして偉そうなポーズを取った。

「オレは人間に存在を認められると君たちの世界でも存在できるんだ。
君がオレを認めたから、こうして君の前にいて会話もできる」

「俺はおまえを認めた覚えなんかねぇぞ」

「えー? ほら、朝と昼! ひんやりしたでしょ? あれ、オレなんだー」

あぁ、母が感じた「何か」の正体はこいつか。
合点がいったが母の言葉は良いものを運んできてくれる、だったはずだ。
今の状況では面倒ごとしか運ばれてきていない。

「いやー嬉しかったなー。久々にオレを感じてくれる人間に会ったんだもん。危うくオレ、消えちゃうとこだった」

うんうんと頷きながらファイは水面に浮かぶような体勢で浮遊する。

「オレね、誰にも認められない時間が長く続くと、消えるんだ。死ぬんじゃないよ、消えるの。
消えた先は君たちの死と同じでオレにも知ることはできないけど、やっぱり怖いし、もっと遊びたいし。
けっこう必死でオレを見てくれる人を探してた。で、君がオレに気付いたから、それはもうほら、自己責任でしょー?
猫に餌をやって懐かれたら最後まで面倒見ましょう、みたいなね? ね?
オレの直感によると君は責任感のある人間だから、いいよねー?」

何がいいのかさっぱりだがファイは勝手に話を進めようとする。
母の言葉に反して嫌な予感しかしない黒鋼は早く目の前の男が消えてくれないかと願った。

「人間は食事をするでしょ? オレも同じで養分が欲しいの。だから、ね?」

ふよふよと黒鋼の目の前まで来るとファイは両手を顔の前で合わせた。

「君の精気吸わせて!」

ほらみろ、妙なことを言い出した。
嫌な予感が的中してしまい、黒鋼は冷たく言い放つ。

「断る」
しかしそんな言葉は無視してファイは秘密を打ち明けるように黒鋼の耳に口を寄せた。

「っていうか、朝と昼にちょっと吸った」

「ふざけんな!」

とんでもない事後報告に怒りをあらわにする黒鋼をなだめるようにファイが笑ってひらひらと手を振る。

「大丈夫だよー。なんともないでしょ? 味見程度にしか吸ってないからー」

「味見程度じゃねぇよ! おまえ、精気って吸われたら死ぬんじゃないのか!?」

「死ぬ」

ふざけるなともう一度怒鳴るとファイは楽しそうな声を上げて黒鋼の周りをおちょくるように飛び回る。
捕まえようと黒鋼がファイの足の部分である煙のような部分に手を伸ばすが、それは本当に煙のようで捕らえることはできなかった。

「無理だよー。人間にオレは触れないからー」

あははと笑いながら黒鋼の前で舌を出すファイに今度は腕を掴もうと手を伸ばした。

「だから無理だってー……」

がしっ

「…………」

「…………」

「……何で触れてるの?」

「……触れるじゃねぇか」

ほぼ同時に発せられた言葉がお互いの耳に届くと、ファイは黒鋼の手から逃れようとしたが、黒鋼がファイを引き寄せ首根っこをつかんでうつ伏せにテーブルに押さえつけたのが先だった。

「うそー! なんでー!? やだちょっと離してよ体温気持ち悪い離してー!」

「静かにしろ! 暴れんな!」

じたばたと暴れるファイだが、ファイの足である煙はやはり黒鋼を貫通しているし、ファイが黒鋼を引き離そうと腕を動かしても黒鋼を通り抜けるだけだった。
黒鋼が掴んだ腕と押さえ込んだ首だけが触れ合っている。

「おまえ体温ないのか? 冷たすぎだろ」

「血が通ってないんだから当然でしょー?」

疲れたのか、諦めておとなしくなったファイが不服そうな顔で答える。
黒鋼が触れているファイの腕と首は死人のような冷たさだった。
それは幼い頃、祖父の葬式で触れた遺体と同じ温度で、これだけは恐ろしく感じた。

「で、なんだ、おまえは俺がおまえを認識したから責任とって精気吸わせろなんて訳わかんねぇこと言ってんのか」

「ちゃんと訳わかってるじゃん。その通りだよ」

「わかってねぇよ。何の責任だ、何の」

「認識した責任って言ってるでしょ? 責任なんてそんなものだよ、望まずに発生するんだ。ほら、できちゃった婚とか」

「その例に当てはめんな」
全く悪びれる様子がないので首をいっそう強くテーブルに押さえ込むとファイは苦しそうに顔をゆがめた。
が、それも一瞬のことですぐにちゃっかりとした笑顔で君の精気おいしかったよーなどと言い出した。
深いため息をついて、黒鋼はこの未確認生命体をどう処理するか、と考え、これは生命体ではなかったと訂正を加えた。
こうして、黒鋼とファイの奇妙な夏休みが始まったのであった。

続く