空間的狼少年

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桜花の狂気 

舞い落ちる桜の花びらに懐かしさを感じないわけではなかったが、故郷で毎年見ていたあの桜と、この国の桜はどこか違っていた。
こんな色じゃなかった、こんなにおいじゃなかった、こんな形じゃなかった。
世界が違うのだから仕方がないが、黒鋼はどこか裏切られたような気持ちになっていた。
けれど桜を初めて見るというファイはこの桜をきれいだと言った。
サクラちゃんと同じ名前だね、とどこか誇らしささえ感じるような話し方で。

「桜は、けっこう不気味なもんだぞ」

「え? そうなの?」

喫茶店で使うものの買出しに付き合わされた帰り道、桜並木の下を通った。
きれいだ、きれいだとやたら褒めるファイの言葉に反論するように言うと、意外そうな顔をされた。
杖をつき足をひきずるファイに代わって黒鋼は大きな袋を1つ提げ、2つ抱えている。
ファイも1つ軽い袋を持っているが、黒鋼は最初、それも持とうとした。

「悪いことが起きるんだ。桜の下を通ると幻覚が見えて気が狂って、そのまま誰かを殺したり」

「わぁ、怖いねぇー」

風が吹いて花びらが散った。
平べったいだけの花びらをきれいだなんて全く感じなかった。
日本国の桜はもっと幻想的で、香りも鮮やかで、荘厳な雰囲気に包まれた神木だ。
趣深く人に静かで激しい感動を与える完璧な美の形なのだ。
しかし、2つを見比べて、どこがどう違うのかと説明を求められてもはっきりとは答えられない。
ただの対抗心で、日本国の桜を知らないファイの、この国の桜への評価を下げようとしているだけだった。

「じゃあさぁ、黒様も幻覚見ちゃったりするかな?」

「さぁな」

「突然オレが鬼児に見えて、斬りかかったりするかも?」

「……しねぇだろ。おまえと鬼児は気配が違う」

並木道にはちらほら人がいたが、誰も狂ってはいなかった。
ただ歩いている人も、ベンチに腰掛けている人も、桜を絵に描いている人も、どれもただの風景にしか思えなかった。
そもそも狂うなんてのはただの言い伝えで、本当に桜にそのような力があるなんて黒鋼は思っていない。
前例は確かにあるが他に狂う要因があったとしか考えられないものばかりだった。

「でも、それは悪いことじゃないのかもね」

それ、というのが何を指しているのかわからなかった。
幻覚を見ることか、ファイが鬼児に見えることか、ファイに斬りかかることか。
もともとの言語が違うせいだろう、翻訳されていてもファイが何のことを言っているのかわからないことがよくある。
ファイがわからなくさせようとしていることも多くあるが、そうではなく意図せず理解しがたい言い回しをしていることがあるのだ。

「ねぇ、今のオレは何に見える?」

日本国でも曖昧な言い回しを多用していたが、黒鋼はそれらをわずらわしく思っていた。
特に貴族たちが使う、自分たちを高貴だと見せ付けるような言い回しが。
ファイの話し方はそれとはまた違っていたけれど、黒鋼はやはり面倒な喋り方だと感じていた。
言いたいことがあればはっきり言えばいいものを。
ファイの問いには答えず先を急ぐと、少しだけ笑ったファイが黒鋼の後に続いた。

「オレはもう、幻影しか見ていないよ」

そんなことは言わなくていい。
どうせ身の内を明かすつもりなどないくせに。
黒鋼はただ日本国の桜の方がいいと言いたかっただけだ、と考えて、結局自分も曖昧なことしか言っていなかったと気付いた。

「そうだ。新しいお茶をメニューに加えようと思うんだけど、黒たん、帰ったら試飲してねー」

桜並木は、とても穏やかな香りに満たされている。



夕食のあとはファイが宣言したとおり数種類の飲み物を並べ、黒鋼と子供たちに振舞った。
苦味のある茶から、甘い紅茶、少量の酒の入ったものもあった。
モコナはそれをカルーアミルクみたいだと喜んだが、黒鋼には聞き覚えのない名称だった。
好みの差はあれどみんなどれもおいしいと評し、いくつかをメニューに加えることになった。
そのあとは完全に酒が回る前に子供らを部屋に押し込んで、先日の騒ぎの二の舞を未然に防いだ。
黒鋼はまだ寝るには早い時間だったので残りの酒をファイと分け合い、ファイの勝手に喋る話を適当に聞いた。
先の二日酔いで飲みすぎには懲りただろうし足も怪我しているしとファイにも飲みたいだけ酒を与えていたが、
ファイがソファに座る黒鋼の膝に乗り上がってきたところで、もっと早くに寝かせるべきだったと後悔した。

「邪魔だ」

うんざりしたようにため息混じりに告げると、ファイはふわふわした表情で頬を黒鋼の胸にこすりつけた。

「眠くなっちゃったにゃー」

「だったら自分の部屋に戻れ!」

「んー、ここで寝るー」

もぞもぞ動いて黒鋼の膝を枕にして丸まった。
ファイの体温は意外にも高くて、これが冬ならいい掛け布団だ、なんてのん気なイメージが浮かんだ。
目を閉じたファイはおとなしくなったかのように思えたが、すぐに仰向けになって手を伸ばし黒鋼にちょっかいを出し始めた。
うっとうしい。

「眠いなら寝ろよ」

「黒たん、黒りん。おっきいわんこ、わんわん、黒わんわん」

「寝ろ!」

「だってー、膝高いし硬いし首痛くて寝心地悪いんだもんー」

「おまえなぁ……」

だったら、と言いかけてやめた。
ファイが身を起こし、黒鋼に向き合うようにして膝に座った。
蒼い瞳が細められ抗う間もなく唇を合わせられる。
触れただけで離れた薄い唇は、それだけで性的な魅力を持っているようだった。

「オレとしてみない?」

甘やかな囁きと共に長い指が黒鋼の耳のあたりをくすぐった。
見上げたファイは笑っていて、首筋から全身に電気が走った。
黒鋼の性欲はいたって普通で例えば胸の大きさとか腰のくびれとか顔の造形とか、そういったわかりやすいものにしか刺激されないものだった。
それにもかかわらず黒鋼は目の前のただの男に欲情している。
ファイは体も細く中性的だが、正面から見て女に見間違うことはあり得ない。

「おまえは今、俺が何に見える?」

酒を遠ざけてファイの腰に手を回す。
ファイが挑発的に微笑み、やさしい両手で黒鋼の頬を包んだ。

「幻影だよ。今だけじゃない、ずっと、君は幻影だ」

それなら俺もそう見ようか、とぼんやりした思考でファイの後頭部に手を回し、引き寄せて口を合わせた。
酒の味が強くて、お互いかなり酔っているんだろうなあと思わずにはいられなかった。
幻影としての自分と、幻影として認識したファイならば、別に何をしたって構わないだろう。

「桜見て狂ったか?」

「違うよ。最初からだから」

「最初?」

「オレも同じだよ。周りを狂わせるんだ。だから君も今、おかしくなってるでしょ? 
 それはオレのせいだよ。覚えてて。オレに近づくとどうなるかってことを、よく覚えててね」

確かに、脳髄のどこかがおかしくなっている気がした。
でもそれは桜のせいでもなければファイのせいでもないし、ましてや酒のせいでもない。
異常な状況であることには間違いないのに互いに邪魔な服を脱いでしまえばもう止まれなかった。
何をしているのかさっぱりわからない。
昼間のように意地になっているだけなのだろうか、そうであればまだいいが、残念ながらたぶんそうではない。
どうしてか少し悲しい気分になった。
今まで恋とか愛とか、そんなものについて考えたことはなかったが、果たしてそれのない性交は成立するだろうか。
恋しがっているのではないだろうか、自分も、ファイも。
小狼とサクラがあまりにもお互いを大事に想っているものだから、それを見て、どうして自分はそんな相手がいないんだろうと、
寂しくなったのではないだろうか。
そうしてファイが見つけた相手が黒鋼で、これ以上求めないための予防線としてこんなことをしているのではないだろうか。
熱い吐息が鼓膜をつつくたびに人としての理性が崩されていく。
限界だ、と思い切り手を伸ばしたのは性器を勃たせたファイが瞳を潤ませて弱々しくしがみついて来たときだった。
狂気は常に自分の背後にあった。
他の何かからのものではなく、自らの狂気に飲まれて人は狂うのだろう。
桜はきっかけにはなるかもしれないが、それ自体にはなんらの狂気もはらんでいない。
ならばファイを狂わせるきっかけは何だったのだろう、と考えた。
最初からだと言っていたが、最初とは何の最初だったのだろうか。
しかし正常を捨て去った今となってはそのような理論的なことなど聞けるはずもなかった。
覆いかぶさって激しく舌を絡ませて、熱を共有して、言葉もなく吐息と時々漏れる喘ぎだけを聞くしかなかった。
ファイはたやすく黒鋼を受け入れたかのように見せようとしたが、痛みと圧迫に耐える苦痛の表情では無理な話だった。
汗をにじませる額に口をつけて落ち着かせ、綿毛をなでる繊細さで髪に手を入れた。
足りないものが満たされていく充足感に相手が男であることも忘れファイを犯した。
それでもぜんぜん足りなくて、もうだめだと掠れた声で訴えるファイの奥深くに何度も精を流し込んだ。
何を求めているのかさっぱりわからない。
ようやく満足してファイを解放した頃はもう辺りは薄明るくなっていて、自分のしたことの重大さに青ざめたが、誘ったのはファイなのだから
文句は言えまいと言い訳を盾にした。
ぐったりと動かないファイを急いで浴室に連れて行って洗ってやったが、ひどい有様はなおらなかった。
あんな桜並木、通るべきじゃなかった。
誤らせるためのきっかけをわざわざ自分から作り上げたのだ。
しかしきっかけは桜だとしても、対象は紛れもなくファイであった。
おぼろげな意識で大丈夫だと言うファイを担いで部屋に運びベッドに寝かせ、水を飲ませた。
謝罪する気は全くなかったが、申し訳ない気は少なからずあった。
外から雀の声と新聞屋の自転車の音がした。
まさかこんなことを自分がしでかすなんて、と唸ったところでファイが目を開けた。

「ね、黒様。嫌な気持ちになったでしょ?」

横になったままファイが黒鋼の袴をつかむ。

「もうわかったよね? だからもう、オレのこと気にしちゃだめだよ」

その言葉に黒鋼は強い羞恥を感じた。
彼はちゃんと行為に目的を持っていた。
布団をかけて今日は休めと告げるがファイは首を振った。

「平気だよー。少し寝たら回復するから、黒ぴーも早く休みなよ」

ひらひら手を振ってファイは笑った。

「……俺は」

「んー?」

「後悔もしてないし、反省もしてねぇ」

「学習能力がないのはだめだよー?」

「てめぇの言うことなんざ聞く気もねぇ。どうするかは俺が決める」

ファイは苦笑して、忠告してるのにと泣きそうな声で呟いた。
そろそろ強い眠気を感じていたので部屋を出るためにファイに背を向けた。

「忘れないでね。オレは君を、こうやって蝕んでいくんだ」

木造の床は歩くたびにぎしぎし音を立てた。

「そのことをよく考えて。君はオレのために自分を変えちゃいけない」

黒鋼は自己嫌悪を忌避するほど弱い人間ではない。
自室のベッドに寝転んで今頃隣の部屋で体中の痛みに耐えているであろう男のことを考える。
考えるうちに、行為の最中にはわからなかったことが今になって明瞭になってきた。
予防線は全く意味を成さなかった。
よみがえる記憶は幻影でもなんでもなく、これまで旅を共にして、これからも共に旅をするファイ本人だった。
目の前に映像があるかのように鮮明な記憶は、黒鋼がファイを求めた証拠となった。
黒鋼は狂いもせず、ファイをファイだと認めて襲い掛かったのだ。
ただし、それは周りから見れば狂気であると指摘されるかもしれないが。
ファイに近づいたことへの後悔は微塵もなく、むしろ勝利を得ることへの期待に胸が騒いだ。
あれは弱い男だ。
だから殻は頑丈でも、中身が脆い。
引きずり出してやりたいと思った。
あの充足感をもう一度味わえるのなら、何度でも近づいてみたかった。
これがファイが蝕むと表現したことなのだろうが、黒鋼にとってはただの欲望だった。
目の前にご馳走があれば欲しいと思う、それのどこが悪い感情だろうか。
無作法に食い散らかしたことには羞恥と反省があるが、求めたことに後悔はない。
寝返りを打ってカーテンの隙間から外を覗くと、白い光が散っていた。
しばらくして部屋の外からサクラと小狼の話し声が聞こえてきた。
ファイはどんな顔で起きてくるだろうか。
どんな食べ物だって一番おいしい部分は苦労しなければ食べられないものだ。
思い知ればいい。
黒鋼を幻影だとして透明の隔たりを作り上げたことを、あの男は後悔すればいい。
そうして、無色の殻を破壊して丸裸になったところに食らい付いてやる。

「おまえに近づいた俺がどう変わるかを、身をもって思い知ればいい」

決しておまえの思う通りにはならない。

End