空間的狼少年

http://acceso.namidaame.com/

Main

	
※小サク、黒ファイ前提

みずたま 

なんてくだらないことをする人たちだろう。靴箱の前でサクラはため息をついた。
靴箱の中には今朝履いてきた黒のローファーの代わりに、くずごみが散らかっている。
思い当たる顔ぶれを頭に描いて、あぁなんてくだらない人たちだろうと、もう一度ため息をついた。
いじめ、と言うには大げさすぎる嫌がらせがここ最近続いていた。
原因はわかっている。サクラが小狼と付き合いだしたことだ。
小狼は誰が見ても好印象しか抱かない誠実な少年で、同世代の女の子たちが好意を抱かないはずがなかった。
硬い鳶色の髪に力強い琥珀の瞳、みんなに平等に優しくてまじめで、熱心に部活に取り組む姿は教師でさえ見惚れていた。
クラスや学年の枠を超えて小狼は人気者になり、小狼に恋心を寄せる者は少なくなかった。
サクラもまたその中の一人ではあったけれど、サクラが小狼をはじめて見たときに抱いた感情は、恋心ではなかった。
待っていた。ずっと待っていた。
叫びたくなるほど懐かしい愛おしさがサクラの中に溢れ、その夜ベッドの中で声を殺して泣いた。
運命だなんて使い回された言葉で表したくない。
生まれる前から小狼と出会うことが決められていたとしても、それはずっと遠い昔の自分が勝ち取ったものだ。
自分が何もしないで起こることは、ぜんぶ他人のものだから。
サクラはその日からもう、小狼がいなくては生きていけないと思った。
感情ではなく心の奥深くにある記憶がサクラをゆすぶり、早く、手遅れになる前に、彼のところへ行きたいと切望した。
そうしてサクラは他の女の子たちを出し抜いて、バレンタインの日に小狼と付き合うこととなった。
友人のひまわりや四月一日、特にモコナたちからは盛大に祝福されたけれど、それを良く思わない人は多かった。
サクラ自身も男の子たちから人気のある生徒だったこともあり、クラスの女子から妬みを受けた。
でもサクラはあまり苦に思っていない。
小狼には何の被害もないようだし、相手にすれば悪化するのは目に見えているから放っておこうと決めていた。
休み時間に席を離れ戻ってくると机の上のものが床に落とされているとか、体育でバレーをしたとき自分にだけボールを回してくれないとか、班を作って机を合わせるとき隙間を開けて机同士をくっつけないようにするとか、そんな些細なものばかりだった。
だからサクラも気丈に振る舞い、なんでもないと明るくしていたのだけれど、サクラがあんまりにも相手にしなかったからレベルが上がってしまったようだ。
ひとまずサクラは靴箱の中のゴミを掃除して、靴を探すことにした。
今日は小狼は部活の試合でお休みしている。
それを狙ってのことだろうけど、小狼がいなくて良かったとサクラは安心した。
絶対に知られてはいけないことだった。
こんな女同士の醜い争いに、小狼を巻き込んではいけない。
今日は夕方から雨になると兄が言っていた。
高校に入学したときに兄が買ってくれた水色の傘を持ってきていたのだが、サクラの嫌な予感は当たり、傘立てには黒と透明のものしかなかった。
靴と傘、どこかに隠されていればまだいいのだけど、捨てられていたらどうしよう。
帰りのホームルームが終わってもう30分以上経っている。
真っ黒な雲が空を覆って辺りは暗くなってきた。
ひどい雨になるらしいから、外で活動する運動部の人たちはみんな帰ったらしい。
いつもはグラウンドやテニスコートから聞こえる元気のよい声は今日は聞こえず、音楽室から頼りなさそうなクラリネットの音だけが響いていた。
サクラの家は学校からそう遠くないから、走って帰れば雨が降る前に家にたどり着けるかもしれない。
でも肝心の靴がなければ帰ることも出来ない。
いっそ上履きのままで帰ろうかとも思うが、兄が見たら詳しく問い詰められてしまうだろう。
サクラは幼いころ近所の男の子にいじめられることがよくあり、そのときはいつも兄の桃矢が蹴散らしてくれていた。
けれど高校生になったサクラはいつまでも兄を頼るわけにはいかないと、誰にも言わないで解決するつもりだった。
靴を探そう。
少しくらいならいいだろうと上履きのまま外に出て、玄関の裏や自転車置き場を歩いてみる。
しかし黒のローファーはどこにも見当たらず諦めかけたとき、花壇に植えられたパンジーに紛れて黒いものが見えた。
急いで手を伸ばしてパンジーの中から靴を取り出すと、円になった花壇の中心のスプリンクラーが稼動していないにも関わらず、靴はびしょぬれだった。
わざわざこんなことまでしていることにサクラは怒る気も起きず呆れてうなだれた。
あとは傘だけど、探し回る気力はもはやなかった。
靴箱に戻って上履きを片付け再び外に出ると、曇天の空からはぽつぽつと雨が落ち始めていた。
これじゃあ、急いで走っても家につく頃には服のままプールに飛び込んだのと同じようになっているだろう。
もういいや、帰ろう。帰って、温かい紅茶を飲んで、夜には小狼に電話をしよう。
このあとの楽しいことだけを考えて歩き出したサクラの肩を、誰かが叩いた。
瞬時にひまわりかと考えたが、彼女は習い事で先に帰ったのだと思い出して振り向くと白衣ときれいな金髪。

「今帰りなの? ひとり?」

化学教師のファイだった。
とてもフレンドリーで、ある特定の教師を怒らせることばかりしている人だ。

「はい、今日はひまわりちゃんが先に帰ってしまったので」

ファイはどんなときでも笑顔を絶やさず学園内で好き勝手行動しているので、愉快なことが大好きな理事長のいちばんのお気に入りだった。
授業はわかりやすいし仕事もちゃんとこなしているから、ある特定の教師を除いてはたいていの生徒と教師がファイのことを好いていた。
笑いかけられるだけで嫌なことも全部忘れられそうな、優しいひと。
サクラもファイのことが大好きだった。

「傘はどうしたの? 朝は持ってたよね?」

雨の降り出した空を仰ぎながらファイが言う。

「家の遠い友達に貸したんです。わたしはまだ家が近いから」

これは桃矢に問いただされたときに使おうと考えていた嘘だ。
ファイは意味深に笑みを浮かべながらサクラの足元を指差した。

「まだ雨降り出したばっかりなのに、靴が濡れてるね」

「さっき、お茶をこぼして」

「靴下は濡れてないようだけど?」

にこりと笑って指摘され、サクラは困ってしまう。
ファイはのんきな性格のわりに他人の変化にすぐに気付く。
調子が悪いこととか、怪我をしていることとか、何か悩んでいることとか。
気付いてくれるのはありがたいことだけど、今は見て見ぬふりをして欲しかった。

「ごめんね。向こうの廊下から、サクラちゃんが上履きのまま花壇を探ってるのが見えたんだ」

「あの、できれば、秘密にしておいてもらえませんか」

おずおずと告げると、ファイはうーんと首をひねる。

「教師として、こういうことに黙っているわけにはいかないんだけど」

「ぜったいに自分で何とかしますから。それでもだめなら、ちゃんと相談します」

必死で訴えるとファイは相談するならとうなずいてくれた。
サクラはほっとしてお礼を言う。

「雨、強くなりそうだねぇ。サクラちゃんは家までどれくらいかかるの?」

「急げば20分くらいです」

「そっか。じゃあ、ちょっとここで待ってて」

言うと共にファイは校舎に入っていった。
用のない生徒は雨が降る前にさっさと帰ってしまっているので、外には誰もいない。
音楽室の頼りない音はもう聞こえず、たくさんの楽器が自由にがちゃがちゃと音を鳴らしていて、本格的に降り出した雨の音も混ざり大合奏になった。
濡れたコンクリートのにおいが鼻を突く。
つめたい雨に濡れないよう、かばんをしっかりと抱いて灰色の空気を眺めていた。

「あれ!? 何で屋根のあるとこにいないの!?」

戻ってきたファイが雨の中に立ち尽くすサクラを見て驚いて声を上げた。
どうせ濡れて帰るのだから待っててと言われた場所で待っていたのだけど、ファイが傘を持っているのに気付いて、あぁそういうことだったのかとサクラは納得した。

「オレ、外に用事があるからついでに家まで送ってあげる」

「え?」

てっきりサクラは傘を貸してもらえるのだと思っていた。
いくらか持ち主のいない傘が倉庫にあったはずだから、それを持ってきたのだと。
よく見れば、ファイの持っている傘はファイがいつも使っている藍色の大きなものだった。

「嫌かな?」

「でも、わざわざ送ってもらうなんて」

「ついでだから、ね?」

サクラの隣に立ってファイが強引にサクラを傘に入れる。
それからちらりと校舎の方を見て、にやりと笑った。
サクラも同じ方に視線をやると、窓の向こうでクラスの女子たちがばたばたと廊下を駆けて行ったのが見えた。
あれは、サクラを嫌っているグループの子たちだ。
ファイはわかっていてやったのだろうか、だとしたらどこまでわかっているのだろう。
機嫌の良さそうなファイは何にも言わずに自分のかばんからタオルを出してサクラに渡した。
さっきまで雨の中にいたからそれなりに濡れている。
ありがたく、顔だけでも拭かせてもらおうとタオルを広げてサクラは違和感を抱いた。

「あ、使ってないから大丈夫だよ」

ファイに言われて慌てて首を振る。

「いえ、そうじゃなくて。ファイ先生のタオルにしてはずいぶんシンプルだなって」

渡されたタオルは無地の真っ白なタオルだった。
どこも汚れていないし使い古された感じもしない清潔な、洗剤のふわりとしたにおいのするきれいなタオル。

「あー、それね。うん、オレのじゃないんだ。今日返そうと思って持ってきたんだけど」

なぜかばつが悪そうにファイは頭をかいた。
だったら、このタオルはたぶん、あのひとのかな。

「じゃあこれ、わたしから返しておきますね」

「えっ、や、でも、それ」

「ちゃんと洗って、お礼を言いたいんです」

「あ、うん、そういうことなら、どうぞ」

どうぞ、と言われてサクラは思わず吹き出してしまいそうになった。
いつも笑ってばかりのファイの動揺する姿は、とても珍しいものだ。
嫌な気持ちもすっかり消えてしまったサクラはファイと一緒に校門を出て、ざぁざぁと容赦なく降り続ける雨の中を、そこだけスポットライトが当たったみたいに二人同じ傘で歩いた。
重たい水が傘の上からぼたぼたと落ちてサクラとファイの肩を濡らす。
長身のファイがサクラと差が大きく開いてしまわないように、少しだけ身をかがめていることをサクラは知っていた。
今頃、あの子たちは悔しい顔をしているのかも。

「いくじなし」

サクラは転がる小石を蹴っ飛ばした。

「靴なんかじゃなくて、いっそかばんごと川にでも放り込めばいいのに」

するとファイもサクラを真似て小石を蹴飛ばした。
サクラのよりも遠くへ転がった。

「サクラちゃんは強いね。オレならもう泣いちゃってるよ」

「ファイ先生なら、もう倍返しにしてると思います」

あはは、と笑ってファイが別の石を蹴飛ばす。
サクラも負けじと思い切り石を蹴って遠くへ転がした。
家に着くまで二人の石蹴りは続いた。

「……サクラ?」

家の門を開けると、桃矢がちょうど家から出てきたところだった。

「ただいま。バイト行くの?」

うなずきながら桃矢はサクラの隣の人物を訝しそうに観察してたが、ファイが一歩前に出て自己紹介をすると、安心したように力を抜いた。
兄は過保護だ。

「それじゃ、また明日学校でね」

「はい。ありがとうございました」

にこやかに手を振って別れ、ファイが見えなくなったところで桃矢がわざとらしく息を吐いた。

「お前が別の男を連れて帰るなんてなぁ」

「なにそれっ。あの人は先生だってば」

桃矢は過保護だけどいじわるだ。
まだ何か余計なことを言おうとしていた桃矢だったが、ふと大事なことに気付く。

「自分の傘はどうしたんだ?」

玄関で靴と靴下を脱いでいたサクラに問うと、サクラはにっこり笑った。

「家の遠い友達に貸したの。でも、その子はすごくかわいそうな子だから、そのままあげることにしたの。せっかく買ってもらったのにごめんなさい」

そして意味がよくわからないといった顔の桃矢にバイトがんばってねと言って自室に上がった。
お気に入りの服に着替えて濡れた制服は洗濯機に投げ入れて、台所へ立つ。
これから温かい紅茶を飲んで、おいしいご飯を食べて、それから、夜には小狼と電話をするのだ。
真っ暗な外からは雷が楽しげに響いていた。

End