空間的狼少年

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ラヴァーズコンチェルト
 

寄り道しようよ、と誘えば断られるはずもなかった。
このひとは優しいから。
学校を出て宿舎に帰るのに寄り道も何もないのだけど、どこか出かけようよ、と言うよりは気が楽なのだ。
彼の手を引いて寄り道と言っておきながらわざわざ電車に乗って少しだけ遠出する。
サラリーマンも学生も主婦も犬も、出会う人はみんな帰り道を歩いている。
その流れに歯向かうように逆流してどこかへ向かう。
適当なところで降りた場所はあまり来ることのない、よく知らない場所だった。
もうすっかり日は暮れて湿った6月の風がゆったりとただよっている。

「ね、黒様。どこまで行こうか」

尋ねても彼は何も言わない。だけど隣を歩いてくれる。
どこまででも行けるしどこへも行けないことくらい二人ともわかっている。
街灯のある明るい道ばかり進んでいたら広い公園を見つけた。
遊具は少ないが好きなだけ走り回ることができる広さだ。
中央のベンチの向こうには小さな池もあり、飛び石がいくつか設置されていた。
公園の中には誰もいなかったので入って滑り台のはしごを上ろうとすると、襟を引っ張られて止められてしまった。
少し悲しい気持ちになったけど、それは彼に向けられたものではなかった。
それから中央のベンチに並んで座って今日あったできごとを話した。
誰かと話をするのは好きだ。内容は何だっていい。
生徒のことでも、家庭のことでも、政治のことでも、宇宙のことでもいい。
話せばそれだけその人のことを知ることができる。
そうしたらその人が喜んでくれるためにはどうすればいいかがわかる。

「もうすぐテスト期間に入るから、部活できなくなるね」

「早く帰れるって生徒は喜んでるけどな」

「あはは、それは黒たん先生が厳しいからだよ」

この体育教師は無愛想で体が大きいうえに声も大きいから、生徒から怖がられている。
彼の授業で叱られて泣き出した生徒の数は両手の指では足りないくらいだ。
まだまだ反抗期が終わらない生徒もたくさんいるから、怒鳴られて反抗する生徒もいるけど、やっぱり最終的には涙を浮かべている。
体育教官室や体育館の外の廊下から怒鳴り声が聞こえてくることは珍しくないことだ。
無愛想で、他人にあまり興味を示さない人だけれど彼は全ての生徒に真摯に向き合う。
だから怖がれてはいても、嫌われてはいない。
いわゆる飴と鞭のやり方で、生徒を解放する前には必ずその子の長所を挙げて、お前はこんなにもすばらしい人間なのだから、と言っているらしい。
すばらしいのは君だよ、といつも思う。

「3年生もそろそろ引退だから、寂しくなるねー」

「そうだな」

「そしたら次は今の2年生が卒業して、その次は今の1年生が卒業して……」

昼の雲は白くて可愛らしいのに夜の雲は黒くて恐ろしい。
たった数時間でこんなにも変わってしまい、そしてその時間はどこにも存在しなくなる。
誰もが時間と共に進み止まることも戻ることもできない。

「黒様は、ずっと堀鐔学園にいるの?」

「まぁ、希望としては、そのつもりだが」

おまえは違うのか、と聞かれたので首を振る。

「オレもここにいたい。ここで、生徒が大人になっていくのを見ていたい」

生徒は毎年入れ替わるが、私立ということもあって教員はほとんど異動がない。
定年を迎えるか、女性なら結婚するかでもなければ滅多にこの学園を去る教員はいない。
それだけ居心地のいい学園だということだろう。
実際に、この学園の制度について文句を言う人はいないのだから。

「それからね、君のことも見てたいんだ」

そう言うと彼は怪訝な顔をする。
こんな時間のこんな場所にいると言いたくないことばかりが頭のなかで渦巻いて、仕舞いきれなくなって口から飛び出してしまう。
言葉にさえしなければこの世界には存在しないはずのものなのに。

「君がいつか結婚したら、結婚式で司会をしてあげる。君にいつか子供ができたら、奥さんと3人の写真を撮ってあげる。
君がいつか死んでしまったら、君の孫に君の話をしてあげる」

それくらいは許してくれる?と笑うと、おもしろいくらい苦々しい顔をされた。
この人は言葉より表情に感情が表れるみたい。
あんなことを言えば彼が嫌な思いをすることくらいわかっているのに、皮肉と不安で作られたマイナスの感情はもうオレの体には押さえ込めないくらいに肥大してしまった。
だから、もしかしたら、このことが言いたくてこうしてこんな場所に彼を連れて来たのかもしれない。
いつもの安寧の場所を汚したくなくて、逃げ出してきたのだろう。
部屋が隣同士なこともあって、オレは彼の部屋を頻繁に訪れているから、もう本人よりも部屋の中のことについては詳しいかもしれない。
彼の部屋で過ごす時間が大好きだった。
玄関の棚に引っ掛けた傘も、クローゼットの端っこで出番を待っている厚手のコートも、清潔なベッドの柔らかさも、ぜんぶ大好きだった。

「どうしておまえは、そうやって自分を苦しめるんだ」

咎めるように言われるが一度吐き出された言葉は止まらない。

「君の子供って、どんなのかな。黒りん、きっといいお父さんになるよ。奥さんにも子供にも愛されて、しあわせな家族になれるよ」

「俺は……」

「願わせてよ。君と、君のそばにいる人たちにしあわせになって欲しいんだ」

彼は何か言おうとしたけれど、公園の入り口に犬を連れた人がいるのを見てやめた。
中型犬くらいの犬はしきりに嬉しそうに飼い主にまとわりついている。
そのまましばらく二人とも黙ったままでいた。
もう遅くなるし帰ろうかな、と思ったところで急に肩を抱かれ引き寄せられた。

「俺は、お前以外の誰かを選ぶ気はない」

彼の大きな手は暖かくてとても強い。

「うそ」

「嘘じゃねぇよ」

「じゃあ君さ、おじさんになったオレにキスできる?」

「んなもん、しなくたって生きていけるだろ」

「できない?」

「……できる」

意地っ張りの子供みたいな顔で言うものだからつい笑ってしまい、彼はとたんに不機嫌になった。
謝っても眉間の皴は深く刻まれたままだ。

「どうなるかわからん先のことなんて考えてもしょうがないだろ。もっと楽にしてろ」

「でもある程度の想定をしてれば上手に対処できるでしょー?」

「おまえの言う上手な対処ってのは、本音隠して笑ってることだろうが」

そう言われてしまうと何も反論できない。

「黒ぽんは素直だよねぇ」

「おまえが人のことを気にしすぎなんだ」

そうかな、と首をかしげると腕を引かれて立たされた。
帰るぞと強く腕をつかんだまま歩き出したのでおとなしく従う。
彼はわがままな人間だ。
と言っても、自分の理想を築くために他人を虐げたりはせず、自分の努力でそれを叶える。
どうやって育てばこんなによく出来た人間になれるか不思議でたまらない。
公園を出たところで腕が痛いと訴えると、一瞬不満そうな顔をしたがすぐに離された。
オレはいつもどこかへ行きたがるのに、帰りたがるのはいつもこの人だ。
オレが自分の手が届かないところへ行ってしまわないようにちゃんとオレを連れて帰る。
だったらいっそ首輪でもつけてくれればいいのにと思うのに、彼はオレに自由を与えた。
人形にでもなれたら、なんて考えながら改札を抜ける。

「飯、食って帰るか」

ごぉっと強い風が吹いて電車が到着した。

「そうだねー。何食べようかなー」

ほとんど人の乗っていない電車に二人で座る。
そして二人で食事をして、二人で帰る。
二人で、同じ場所に帰る。
いつか別々のところへ帰るようになったとしても、なんて考えて、恥ずかしくなる。
そうなったらもう彼はオレを邪魔者としか思わないはずなのに。
理想はこの世界にはない。
現実的な問題ばかりが行く手を阻み、常識とか普遍性とかが回れ右を強要する。
でも彼の手は強い。
個々の幸福がただ一人では成り立たないことを知っているから、彼は強く在れる。
その反対側を恐れるオレを導いてくれる。

「明日、雨降るんだって」

電車を降りてレストランを探す。
駅前なので飲食店はたくさんあるからどこに入るか迷う。
いつか今日の日のことを思い出したとき、自分が笑っているのか泣いているのかはわからない。
誰かを非難しているか、それとも誰かに感謝しているか。
憎んで悲しんで今日乗ったあの電車に飛び込んでしまうほど絶望しているかもしれない。
未来はいくらでも考えれらるけど、考えた通りになったことは一度もない。
だから最悪の未来を考える。
これ以上ないってくらいの、歴史上これほどの悲劇は存在しないってくらいの、最悪の未来。
神様はいじわるだから人間の予想通りには未来を与えない。
だから最悪の未来を考える。
本当の願いを神様に見つけられないように箱の中にしまい込んで、素知らぬ顔で歌をうたう。
存在するかもしれない全ての不幸をオレの中で終わらせてしまう。
彼のしあわせを願うなんて言いながら、結局は自分のことしか考えていないのだ。

「雨降ったら、ひとつの傘で一緒に学校行って、一緒に帰ろうよ」

「雨が降らないことを祈るしかないな」

そう言うと思った、と告げると、だったらそんな提案するなと返される。

「そうだね、晴れればいいね」

レストランの階段を上って見下ろすと彼は無表情でこちらを見ている。

「雨なんて降らないで天気が良くて黒様にくっついていられないくらい暑くなればいいなぁ」

歌うように言うと、さっさと店に入れと頭を小突かれた。
明日晴れればいいなぁ。
もう一度こっそりそう呟いて、大きな背中を追った。

End