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化学教師とデート
いつもの駅の改札を出たところで、サクラはまぶしい太陽の光と人々の楽しそうな声に気圧され立ち止まった。
まだ梅雨は明けていないけど今日は雲ひとつ無い快晴で、絶好のお出かけ日和だ。
みんな誰かと笑い合いながらそれぞれの目的地へと歩いている。
そんな中サクラはひとり、むっとした顔で赤いチェックのフレアスカートを両手でまっすぐに伸ばしバッグを持ち直した。
ほんとうは、今日は小狼とデートのはずだったのだ。
だけど急に小狼が熱を出してしまい電話の向こうで、がらがらの声で今日は行けないと言われ、何度も謝られた。
小狼が悪いのではないけれどサクラは今日をすごく楽しみにしていたのだ。
先週、一緒に帰る途中、商店街においしいホットケーキのお店があるから、今度行こうという話になった。
あまくてふっくらしたホットケーキを思い浮かべると、それだけで口の中にあたたかい、ふわふわした食感とシロップのたっぷりしみ込んだ味が広がり、とても週末を待っていられなかった。
それなのに、あんなに楽しみにしていたのに。
誰も憎めず恨み言も言えず、サクラは家にとじこもっているのも悲しくて、ひとりで外に出てきた。
もちろん楽しみにしていたのはホットケーキだけではない。
晴れて良かったねとか、暑くなりそうだねとか、そろそろテストが近いねとか、そんないつでも話すことのできるどうでもいい話をしたかった。
それから、贅沢を言うなら、今日のために買った新しいバレッタに気付いてくれたらいいと思っていた。
ひまわりと知世と雑貨店で買った花の形のバレッタで、右耳の上につけている。
学校にはつけて行けないからこうして休日に会うときにしか見せられないのに。
来週絶対行こうと小狼は言ってくれたけど、サクラは今日、小狼と会いたかったのに。
親子連れやカップルのあいだをすり抜けてずんずん歩いて商店街へ入る。
商店街は大きなデパートができてから人気が減ったが、それなりに多くの人が行き来している。
小さなまっしろの犬を連れたおばさんとすれ違いざまに腕がぶつかり、よろけたサクラは後ろを歩いていた人に邪魔な障害物を扱うみたいに押しのけられ道の脇へ追いやられた。
こんなこと、小狼と一緒にいたら起こらないことなのに。
シャッターの閉まった店の前でサクラは誰にでもいいからそう主張したくなった。
わたしはほんとうは今日ひとりでこんなところへ来る予定はなかった、とってもすてきな人と一緒のはずだった、と。
そしてその反面、ひとりだとこんなに惨めな自分に苛立ちを感じていた。
やっぱり家でおとなしくしていれば良かった。
ぎゅっと肩にかけた鞄のひもを握り締め、駅へと足を踏み出そうとしたとき、聞きなれた声が落ちてきた。
「誰かと待ち合わせ?」
その声の主を見たとき、サクラは一瞬その人が誰だかわからなかった。
「ファイ先生……」
いつもの白衣に見慣れすぎていたため、スーツ姿のファイは全く知らない人に見えた。
それでもあのきらきらと輝くようなきれいな金髪と澄んだ水色の瞳は紛れもなくファイのものであった。
スーツ姿に驚いているサクラに苦笑したファイが、似合わないよね、と言った。
「大学に用事があって行って来たんだー。だからこんな格好」
ただ見慣れていないというだけで似合ってないわけではないのだろうけど、サクラからしてみればファイにスーツなんて全く似合っていない。
かっちりと、まるで規則にうるさい正しいだけの人間みたいな服装なんて、自由奔放なファイに似合うはずがない。
「サクラちゃんは遊びに来たの?」
そう聞かれて、サクラはなんだか恥ずかしくなって目線をそらせた。
用事もなくひとりでいることが、いたたまれなくなった。
「違うんです。ひとりで、来たんです」
友達を待っているんですと言うことは簡単なことだったが、ファイに嘘をついたところでむなしいだけだ。
それにファイに嘘をつくなんてサクラにできるはずもない。
いや、サクラだけでなく、誰もファイの前で真実を隠すことはできないだろう。
「そっかー。お昼もう食べた?」
学校にいるときよりもいくらか自然な笑顔でファイが尋ねる。
サクラが首をふると、じゃあ一緒に食べようかとファイは向かいのオムライスの店を指差し、考える間も与えられず道を横断していくので、サクラは慌てて後を追った。
地下に下りる階段の隣に置かれたメニューの看板をファイは嬉しそうにあれもこれもおいしそうだと眺めた。
「あの、わたし、ほんとは今日、小狼君と一緒のはずだったんです」
ファイの隣に立って言い訳のように訴えた。
そうしなければならないような罪悪感があった。
「だけど小狼君が熱を出したから、わたし、ひとりなんです」
不注意で物を壊してしまったときのような言い訳だった。
事実を告げているだけなのに、言えば言うほど自分が悪者になっていくような。
「あ、そうなんだ……じゃあオレと一緒は嫌だよね」
ファイが悲しそうに微笑むのでサクラはびっくりして必死で否定した。
「えっ、そうじゃなくて、そんな、ファイ先生と一緒が嫌だなんて」
「じゃあいいよね、入ろっかー」
ころりといつもの笑顔に戻ったファイが手招きしながら階段を下りるので、サクラは呆然としたあと、さっきまでの自分がばからしくなってしまった。
ぐっと足に力を入れて、積極性を持って、ファイの背をしっかり見つめた。
オムライスの専門店であるこの店は、中は意外に広くて明るかった。
控えめな音量でボサノバが流れ全体的に時間がゆったりと流れているようだ。
サクラはデミグラスソースのオムライスを、ファイは和風ソースのオムライスとコーヒーを注文した。
「一応、秘密にしてといてね。生徒と個人的に食事って、あんまりよろしくないから」
ファイがおどけたように言うのに対しサクラは大真面目にうなずいた。
教師と生徒が一緒に食事なんて大丈夫なのだろうかとサクラは心配していたのだ。
「それから、小狼君にもねー」
少しだけ申し訳なさそうにするファイに大丈夫ですとサクラは確信を持って答えた。
サクラと小狼のファイに対する感情は全く同じものなのだから。
それでもファイは気にしている様子なので、サクラは何でもない風におしぼりで手を拭いて尋ねた。
「ファイ先生は、そんなつもりでいるんですか?」
するとファイは悪い大人のように笑った。
「まさか」
ふたりの注文は同時に運ばれてきた。
とろとろのたまごに包まれたご飯の中にはきのこや鶏肉やマッシュルームがたくさん入っていて、とてもおいしかった。
オムライスにはトマトのスープもついてきた。
サクラが半分まで食べ終えた頃にはファイはもう3分の2を食べてしまっていた。
待たせるのも悪いと思いスピードを上げようと多めにスプーンにたまごを乗せようとしていると、ふとファイが、それ、と言った。
「それ、かわいいね」
何のことだかわからず首をかしげると、ファイが自分のこめかみの辺りを指でとんとんと軽くたたいた。
そこでサクラは自分がバレッタをつけていたことを思い出した。
もやもやした気持ちのせいですっかり忘れてしまっていた。
「あー、でもごめんね」
ファイがコーヒーのおかわりを注文する。
「オレじゃなくて、小狼君に言って欲しかったよね?」
ぽろりとスプーンに乗っていたきのこが皿に落ちた。
目をぱちくりさせてファイを見つめると、彼は教師の顔をしてサクラを見つめ返した。
今ならスーツ姿も似合っていると思えそうだ。
「ねぇ、今のってさ、サクラちゃんと小狼君だから合理的なものなんだよ」
合理的。サクラは頭の中で反芻する。
ファイはおそらくこのあいだサクラが黒鋼に言った言葉を咎めているのだろう。
どうしてそれをファイが知っているのかと考える前に、侑子先生から聞いたのだと告げられた。
黒鋼だけに聞こえるように言ったはずなのに。
「サクラちゃんと小狼君。恋人同士の人たち。そんな人にしか通用しない」
ファイの口調とその内容はサクラをつまらない授業を受けている気分にさせた。
教科書に書かれた事実を述べているだけの模範的な授業。
それはやっぱりファイには似合わない。
サクラはスプーンを置いて背筋を伸ばして座りなおした。
「わたしはファイ先生のことも、黒鋼先生のことも大好きなんです」
「んー? それは嬉しいけど、何でそこで黒たん先生が出てくるのかなー?」
「大人ってときどき、子ども以上に面倒ですよね」
サクラは黒鋼へのあの発言を後悔などしていない。
黒鋼は何だかよくわからないという表情だったけど、きっとサクラの言葉について考えたはずだ。
そうすれば至る答えはひとつしかなく、いくら黒鋼と言えどもサクラの意図に気付かないはずがない。
そして侑子もまたサクラと同じ気持ちでファイにサクラと黒鋼のやり取りを密告したのだろう。
「オレはサクラちゃんが思ってるよりずっと大人だよ」
「でも、ファイ先生は自分で思っているよりもずっと子どもです」
ファイがいつもするように、にこりと笑いかけるとファイは面食らったように顎を引いた。
若い店員の持ってきた新しいコーヒーは苦くて重い匂いを放っている。
サクラはなるべく優雅に見えるような素振りでトマトのスープを飲んだ。
つまるところ、なんにもわかっていないのは当人たちだけなのだ。
「ここのオムライス、おいしいですね。今度、小狼君を連れてきてあげようかなぁ」
ファイは何か言いたそうにしていたが唇をもごもごさせただけで結局何も言わずにコーヒーにシロップを入れた。
家を出たときの暗い気持ちは錯覚だったかと思うくらいサクラは霧が晴れたような気分になっていた。
サクラはただ、サクラの大好きな人が大好きな人と一緒にいられたらいいと、そう願っているだけなのだ。
「ファイ先生も、いちばん一緒にいたい人を連れて来てあげたいって、そう思いませんか?」
晴れやかな笑顔でサクラがそう言うと、ファイは悪かったよと負けを認めてコーヒーをすすった。
END