Main
痛みの敗北
がん、という何かがぶつかる音と情けない悲鳴を聞いて顔を上げると、ファイがうずくまって足を押さえていた。
タンスに手をついて体を支え、うめき声まで聞こえてくる。
ソファで漫画を読んでいた黒鋼は声をかけるべきかと迷ったが、子供たちがすぐに駆け寄ってどうしたんですかと聞いたから、
黙って様子を見ることにした。
子供たちの心配の声を受けて、ファイは悶絶しながら弱々しくタンスを指差す。
「タンスで……足の小指……打った……」
「あー……」
小狼は安心したように少し微笑み、サクラは大丈夫ですかとファイの腕に手をやった。
「ファイ、ドジっ子だー!」
モコナが跳ねて痛いの飛んでけーと擦り寄る。
ファイは顔を歪めながらもなんとか笑いかけようと努力していた。
あの魔術師がうずくまっているものだから、何事かと一瞬驚いたが、くだらない話に過ぎなかったようだ。
再び漫画に目を落とすと、子供らに囲まれたファイから不満そうな声が上がった。
「ちょっとー、黒りんも心配してよーぅ」
「たいしたことねぇんだろ」
「たいしたことあるよ! すっごく痛い! 折れたかも!」
「その程度で折れるか。大げさなんだよ」
目も合わさずあしらうと、さらに不満げな文句を投げられる。
全く耳を傾けず適当な返事だけしていると、とうとうひどいと罵られた。
そのくらい放っておけばすぐに痛みは引くし、心配のしようもない程度だ。
しかしファイは気に入らないらしい。
「黒さまは人の痛みがわかんない人なんだー」
嘘くさい泣き真似までしだしたから、ため息をついて完全無視を決めた。
それだけ喋れたらもう痛み引いてるだろと言いたかったが面倒なので黙っておいた。
「モコナはファイの痛みわかるよ。モコナも侑子のおうちで小指打ったとき、すっごく痛かったもん」
「モコナ……! ありがと……ってモコナ小指ないじゃん!!」
その国は人の少ない、静かな村だった。
風はあたたかくて心地よく、時折強い風が吹く。
丘の方ではその風を利用した立派な風車がいくつも回っていた。
旅人はめったに来ないらしいが、拒まれることなく気持ちよく受け入れてもらえた。
さらに広い宿まで紹介してもらったので、そこに住まい、一行はこの近辺にあるはずの羽根を探している。
宿は一軒屋をまるまる貸してもらっており、空き家を宿にしてしまったということだった。
ひとりひとつずつの部屋が与えられ、宿泊料も安く、文句の付け所がないすばらしい宿であった。
今回の世界がここで良かったと黒鋼は安心していた。
ひとつ前の世界は治安が悪く、気を抜けば身包みを剥がれるような恐ろしいところだった。
空気も悪いし、疫病も流行っていた。
常に気を張ってなんとか羽根を見つけ移動してきたのが2日前。
180度変わった環境にみんな安堵していたが、その変化で疲れを出した者がいた。
その日の夜、黒鋼が水を飲もうと台所へ入ると、シンクに手をついてファイが頭を押さえてうなだれていた。
夕飯のしたくはもう終わっているらしく、香辛料の香りが胃を刺激した。
「どうした」
声をかけるとファイの肩が大きく跳ね上がった。
悪事を見られたような顔で黒鋼を振り返り、そしてすぐに何でもないと笑った。
「頭痛いのか」
「ううん、目が疲れてただけ。さ、ご飯食べよ。黒さま、運ぶの手伝ってー」
問い詰めるべきか迷ったが、皿をぐいぐいと押し付けてくるのでしかたなく料理を運び、子供らを呼んだ。
食事中もファイはいっさい調子の悪さを見せず、普段どおりの笑顔でくだらないことを喋った。
だから黒鋼も半信半疑ながらさっきのことには触れずにいたのだが、それが間違いであったと気付いたのは翌日の昼のことだった。
いつもなら朝は一番早いファイが昼近くになっても起きてこなかった。
今日は昼から羽根の探索に行く予定だった。
よく寝てるね、と最初子供らはあまり不審には思っていなかったが、昨夜のこともあり黒鋼は様子を見に行くべきかとずっと迷っていた。
太陽が真上に来た頃になって、さすがに心配になったサクラがちょっと声をかけてきますとファイの部屋に向かうので、それにかこつけて
黒鋼も後ろを着いていった。
「ファイさん? 起きてますか?」
薄い木製の扉をサクラがノックするが、返事はない。
「入りますよ?」
そっとドアノブをつかんで、控えめに少しずつ扉を開いていく。
カーテンも開けていないらしく、薄暗い部屋の奥で、ファイはベッドに伏していた。
幾度か声をかけるも返事がない。
サクラがファイのそばに寄り、肩をゆすると、ファイが苦しげに眉を寄せて目を開けた。
「ファイさん!? たいへん、すごく熱い!」
ファイの額に手を当ててサクラが黒鋼を振り返った。
助けを求めるような視線に、黒鋼もファイに近寄り同じように額に手を当てる。
病気のことは詳しくないが高熱であることくらいは黒鋼にもわかる。
「ごめん……でも大丈夫、だから……」
枯れた声でファイが切れ切れにそう言う。
「大丈夫じゃないです! えっと、わたしお水持ってきます!」
サクラが階下に下りていくのを確認して、黒鋼はため息をついた。
やはり昨夜、放っておくべきではなかったのだ。
そのため息を悪く勘違いしたファイが、気まずそうにごめんとつぶやいた。
違うと言うのは簡単だが、黒鋼にはそれができなかった。
「何で昨日、言わなかったんだ」
ファイは枕に顔を埋めて黙した。
答える元気がないからではないことは黒鋼にもわかっていたが、問い詰めることはできなかった。
それよりも病人を前にしているのだから気遣う言葉とか、労わる行動が必要なはずなのに、黒鋼にはできない。
ファイに対して、黒鋼はできないことが多すぎる。
サクラが水を、小狼が氷の入った桶と手ぬぐいを持って来るまで沈黙は続いた。
「大丈夫かなぁ」
何か食べやすいものを作ると言って小狼とサクラは台所へ行ってしまった。
居間に残された黒鋼とモコナは、苦い空気に呑まれていた。
サクラと小狼がいなくなってしまえば、ファイの部屋に留まる理由はなかった。
心配していないわけではないがどうにも居づらくて仕方なかった。
先日ファイが言ったとおり、自分は他人の痛みがわからない人間なのかもしれない。
率先して看病をするのは子供たちで、年上の自分は優しい言葉のひとつもなく椅子に座っているだけ。
情けないと思わなければならないはずなのに逃避して言い訳を考える自分は、やはり情けない。
「できました」
小狼が粥を持って居間に入ってきた。
そのままファイの部屋に行くのかと思ったら、黒鋼の前に来て粥の乗った盆を差し出す。
「持っていってあげてください」
遅れてやってきたサクラがスプーンと小皿を盆に乗せる。
「おまえが持っていけ」
「いいえ。黒鋼さんが行ってあげてください」
「俺が行ってもしかたねぇだろ」
「いいえ」
頑なに小狼は譲らず、サクラもそれがいいという顔で黒鋼を見つめている。
何も役に立っていない黒鋼への怒りであればまだいいのに、そうではない。
戸惑うばかりの黒鋼にモコナが早くとせかす。
「きっと喜ぶよ。ファイが喜べば、黒鋼も嬉しいでしょ?」
同意なんてできるはずもないのにモコナはそんなことを言う。
どうしたって拒否できない状況に、黒鋼は乱暴なしぐさで盆を受け取った。
こいつらは子供のくせに意志が強くて本当に困る。
見送りの言葉を背にファイの部屋の前まで来ると、少し緊張した。
入るぞと一応声をかけて部屋に入ると、ファイが緩慢に動いてこちらに顔を向ける。
湯気を立てる粥をぼんやりと見つめている。
「小僧と姫が作った。食えるか」
それを聞くとファイは病人のくせにがばりと勢いよく起きた。
その拍子に額に乗せていた手ぬぐいが落ちる。
「小狼君とサクラちゃんが?」
「そうだ」
「オレのため、に……?」
なんでそんなに驚いた顔をしているんだ。
どれほどあの子たちが心配したのか、まさか予想できないのか。
「そっかー……迷惑かけちゃったなー」
なぜそんなに申し訳ない顔をするのか。
本当にあの子らが迷惑に感じていると、そう思っているのか?
それはそう思わなければならないという義務感によるものではないのか?
しかしその義務はこの旅の中で最も必要のないものだ。
そんなものは早く捨ててしまえばいい、なんせ黒鋼ですら持っていないような価値のないものなのだから。
「おまえは、しょうもないことでは騒ぐくせに、なんでこんなときだけそんななんだ」
「しょうもないことってー?」
「小指打ったとき」
「あれはほんとに痛かったんだよー!」
「今だって本当に調子悪いんじゃないのか」
言葉に詰まったファイが目をそらす。
だから、どうして黙るんだ。
「……俺は何も教えてやらねぇからな。自分で気付けよ」
「ん? なんの話?」
「こっちの話だ。さっさとこれ食え」
テーブルはベッドから少し遠いので、受け取ってもらうまで盆から手を離せない。
しかしファイはじっと粥を見つめるばかりで一向に手を出さない。
しびれを切らす寸前に、ファイがにこりと笑った。面倒な予感がする。
「食べさせて?」
こいつ、いつの間にかずいぶん回復してやがる。
「黒たんが食べさせてくれないと、オレ自分じゃ食べられないなー」
「てめぇ……」
「せっかく小狼君とサクラちゃんが作ってくれたのに、食べられないなんてやだよー」
無理しているのを誤魔化そうとわざと言っているのかと疑ったが、顔色も良くなっている。
呼吸も正常だし、熱はまだ下がっていないだろうが、ましにはなったらしい。
「ね、病人には優しくしなくちゃ! オレ、しんどくてひとりじゃ食べれないよー。重病人なんだよぅ」
「そんだけ喋ってなにが重病人だ」
「ほんとほんとー。内臓とかもたぶん腐ってるしー」
「死ぬぞ、それ」
「もー、じゃあいいよ」
いかにも仕方ないという形で、ファイはすんなりと身を引いた。
そこでようやくファイの思惑に気がついた。
「無理言ってごめんね、自分で食べるよ。
持ってきてくれてありがと、風邪うつっちゃうから、もう出て行ったほうがいいよー」
「……だから、なんで、おまえは」
そこで言葉を切った。
頼られていないことに苛立っているのか、信用されていないことが悲しいのか。
わざわざ黒鋼を怒らせて出て行かせようとするやり方が気に入らない。
距離がわからない。遠いはずなのに、よくよく見ればすぐそこにいる気もする。
黒鋼はニスの光る椅子をベッドの隣まで引き寄せるとそこに座った。
粥を2,3度かき回して、適量をスプーンに盛って、驚いてぽかんとしているファイの口に入れてやる。
思い通りにならなかったことに戸惑いながらもファイは黒鋼のやり方に従った。
「わー、おいしい!」
卵とネギと、きのこが少量入った粥は本当においしそうだと黒鋼も思っていた。
飲み込むとファイが口を開いて次を欲しがる。
小さな口に粥を入れると口が閉じられ、スプーンを引き抜く。
「なんかに似てるな、これ」
幾度か繰り返していると粥も半分ほど減っていた。
側面の米粒をかき集めて、口を開けて待機しているファイのまぬけな顔を見る。
「ひな鳥にエサやってるみてぇだな」
「え、エサー!?」
ショックを受けたファイが何か言う前に多めにスプーンに粥を乗せて口に突き入れてやった。
言葉を封じられて恨めしそうにもぐもぐと口を動かしていたが、全て飲み込むと拗ねた顔で文句を言おうとする。
「ちょっと、一口が多い……んぐっ」
口が開いた隙にまた多めの粥を放り込んだ。
必死に咀嚼しているあいだに次を用意して、飲み込んだと同時にすかさずスプーンを口に突っ込む。
それを繰り返しているとすぐに皿の中は空になった。
「今ので全部だ」
「なんでオレ、ご飯食べて疲れてるの……?」
「その方がよく寝れるだろ、良かったな」
休む暇もなく強制的に食事をさせられてファイは疲れた表情をしている。
しかし水を一気に飲み干すと、ファイはベッドから降りようとする。
「もう平気だよ。それ洗ってくるから貸して」
黒鋼の手から盆を取ろうとするのを椅子から立ち上がることで阻止した。
寝てろと言うと大丈夫だからと笑う。
たぶん今の距離はひどく遠いのだろう、さっきは近くにいたと思ったのに。
「んなことさせたら俺が怒られるだろが」
「でも、ほんとにもう治ったよ?」
「内臓腐ってるのにか?」
「え、なにそれ風邪で内臓腐るわけないじゃん、何言ってんの?」
真顔で返されてさすがにイラっとしたが病人相手だと思い直し我慢した。
「いいから、おまえはおとなしくしてろ」
ファイはそれでもベッドから出ようとしたが、甲高い声によってその動きは止まった。
「あー! ファイ、寝てなきゃだめでしょー!」
いつの間にかやって来ていたモコナがファイの胸にダイブして、その勢いでファイはベッドに倒れこむ。
モコナの後から小狼とサクラもやってきて、調子はどうですかと尋ねた。
「さっきよりは熱も下がってるが、まだ寝てた方がいいだろうな」
「なんで黒ぴーが答えるのー」
仰向けに倒れモコナを乗っけたままのファイが黒鋼の服を引っ張った。
「そうだ小狼君にサクラちゃん、お粥おいしかったよ、ありがとー」
モコナを抱いて起き上がるとファイはベッドに座りなおした。
少しだけ居心地悪そうにしているのに黒鋼は気付いている。
「でもごめんねー。今日、羽根を探さなきゃいけなかったのにー」
へにゃと申し訳なさそうに笑うファイに、小狼もサクラもぶんぶん首をふる。
「ファイさんの体調が一番ですから」
それは彼らの本心であるのにファイはそれをそのまま受け取ることができない。
どうしてだろうと黒鋼はいつも疑問に思っている。
線引きをしているのはファイなのに、彼はその線を越えられたらと思っているのだ。
距離を測りかねているのは黒鋼ではなくファイの方なのだろう。
だから黒鋼もファイとの距離がわからなくなるのだ。
「ねぇファイ、モコナ言ったでしょ? モコナはファイの痛みがわかるよって。
だから、隠したってだめだよ、モコナにはわかるから。
どんなに上手に隠したって、みんな、わかっちゃうから、ね?」
ファイは優しくモコナの頭をなでる。
どうせファイは、ならもっと上手に隠さなきゃ、とでも考えているのだろう。
それでもいつかきっと気付くだろう、いや彼はもう気付いているはずだ。
けれどそれを認めることをファイは許さない。
でも、それも時間の問題なのだろうと、黒鋼はまるで勝者になったような気分になる。
あとはファイが敗北を認めるだけの許しを手にすればいい。
そのとき、自分はファイからどんな言葉を聞くことになるだろうかと考えると、どうにも気恥ずかしい気持ちになる。
これはきっと、うぬぼれというやつに違いない。
END
リクエストの「黒ファイで体調不良、又は怪我を負ったにも関わらず、自分のことに無頓着なファイと素っ気なくしながらもファイことが心配でしかたがない黒様」でした