空間的狼少年

http://acceso.namidaame.com/

Main


※日本国永住
※ファイ×女性、男性×ファイ表現あり
	
不貞

居間に続くふすまを開けて、あぁまたか、と黒鋼は深いため息をついた。
今日、天照から瑠璃の茶碗を届ける者がうちに来ると聞いたときから予想はできていたが、いざそのとおりになると辟易する。
黒鋼に気づいたファイは一瞬、何も知らない幼子のような顔をしたのち、すぐに笑顔を作った。
居間の真ん中の布団の上で若い女を組み敷いたまま。

「おかえり。早かったね」

ファイが声をかけたことでようやく黒鋼に気づいた女が真っ青な顔でファイを押しのけて飛び起きた。
女は長い髪で顔を隠しながら慌てて乱れた衣服を直し、両手で自分の体を抱きしめ、目を見開いてがたがたと歯を鳴らして震えた。
この展開にも慣れたものだ。
黒鋼はふすまを開けたまま居間に入り、ファイの胸倉をつかんで引っ張りあげた。

「ここでそういうことをするな。何度言えばわかる」

咎めるつもりで言ったのにファイは悪びれる様子もなくへらへらと笑うだけだった。
そして今にも死んでしまいそうなほど青ざめた女の髪を優しくなでて、大丈夫と声をかけた。
愛おしそうに、慈しむように、模範的に。

「大丈夫。黒様は君を罰することもないし、誰かに告げ口することもないよ。
 だからこのことは、君が黙ってさえいれば誰にも知られない」

このセリフももう何度聞いたことか。
この次は、過呼吸気味になっている女はファイの穏やかな声に安心して落ち着きを取り戻すものの、次の言葉でまた凍りつくことになるのだ。

「ま、君が誰かに話したところで、君が大変な目に遭うだけなんだけどね」

くすくすと笑ってファイは女の両手を取って彼女を起き上がらせ、エスコートするように部屋を出ようとする。
そのとき初めて女は黒鋼に顔を向けた。
死刑が執行される直前の、冤罪でつかまった死刑囚のような目をしていた。
ファイに手を引かれて黒鋼の視界から消える直前、女は強い力でファイの手を振り切った。

「お許し、くださ、い……」

崩れるようにして女は黒鋼の前で膝をついて、額を畳にこすりつけた。

「お許しください……どうか、どうかお許し、ください……」

蚊の鳴くような声で女は鼻をすすりながらぼたぼたと涙をこぼした。
毎回ではなかったが、こうなるのも初めてのことではない。
ひれ伏す女の後ろでファイが困ったように柱にもたれかかった。
黒鋼は女に顔を上げろと告げた。
恐る恐る黒鋼を見上げた女は、この世の終わりでも見ているようだった。
歪んだ女の顔は見るに耐えないものであったが、それなりの気品は感じられたし、何より眉がきれいだったから、黒鋼は女を許すことにした。
いつもこうやって何らかの理由をつけて許してやっている。
ただで許してやれるほど黒鋼は慈悲深くはない。
ファイに目配せすると、ファイは嘲笑うかのように黒鋼を見やり、そっと女の肩を抱いて出て行った。
ふたりが出て行くと彼らが使用していた布団がやけに目につき、黒鋼は諦めたようにそれを片付け、ようやく自室へ戻ることができた。
こんなはずではなかった。
日本国に連れてきたばかりの頃のファイはよく笑い、はしゃいでなんにでも感動しては黒鋼にくっついてまわった。
それがある日を境にこうなった。
ある如月の日、昔と同じように城を守る忍者となった黒鋼に付いてファイは城へ参上した。
言葉とある程度の習慣を学んだファイは、自分の持つ強大な魔力でこの国に仇なす者を倒すべく黒鋼と共に魔物討伐に向かいたいと志願したが、
日本国の者たちはその申し出に反対した。
よそ者にわけのわからない力で魔物を倒されてはこの国の均衡が乱れると、それが反対する者たちの言い分だった。
ファイのような強大な魔力があれば自分たちの職が失われてしまうと、彼らは危惧したのだろう。
それに均衡が乱れるというのも間違った指摘ではなかった。
この国は魔物が人間を襲い、そして人間が魔物を倒すことで保たれている。
人々はファイが魔物を排除することなど求めてなどいなかった。
日本国はもともとそう「在る」のだから、均衡が崩されては日本国までもが崩壊することになる。
彼らの言い分はもっともだったので黒鋼もファイも反論できなかったが、しかし彼らは少し暴言を吐きすぎた。
ファイだって何も均衡を崩すために魔物すべてを駆逐しようとしているわけではないのに、彼らはファイの強大な魔力をわざとらしく大げさな言葉で気味悪がり、
揶揄し、あれこそが本当の魔物ではないかとまで口走る輩までいた。
飛び交う罵詈雑言をファイは黙って聞いていた。
黒鋼の制止の声もかき消されるほどの暴言の嵐だった。
何事かと駆けつけた天照が一喝するまでファイへの批判は止まらなかった。
心配する天照や知世姫には笑って平気ですと答えたファイだったが、その日からファイはすっかり変わってしまった。
毎日のように黒鋼にくっついて遊びに来ていた城へも、ファイはあの日以来一度も顔を出していない。
あんなに文字や絵や炊事や習慣を嬉しげに教わっていたのに、もういいと言ってファイは黒鋼と共に住む屋敷からは必要以上には出ることがなくなった。
ファイは屋敷で家事を完璧にこなし、暇になれば絵を描き、歌をうたい、庭の小さな畑の世話にいそしんだ。
だから黒鋼は、ファイは心配しなくてもちゃんとこうやって生きていけるのだと安心した。
その安心を今ではひどく後悔している。
あれだけの拒絶を真っ向から受けておいて平気な人間がいるはずがないのだ、ましてやファイは人一倍、他人との関係を気にするというのに。
黒鋼は自分が仕事に行っているあいだもファイは楽しく過ごしているのだと思っていた。
それはあながち間違いではなかった。
ファイは城下へ赴き、町娘に甘い言葉をささやいては屋敷へ連れ込むようになった。
それも黒鋼が屋敷へ戻る頃を狙って。
今日もそうだ、はっきりと帰る時間を告げていたからこそ、ファイはあの女を連れ込んだのだろう。
ファイ本人はたいした権威を持っていないが、黒鋼の連れてきた人間ということで町の人々はファイに畏敬の念を抱いていた。
だからどの女も、黒鋼に見つかったときに異常なほどの恐怖を感じるのだ。
たとえファイからの誘いであっても、天照と知世姫からもっとも信頼を置かれている日本国最強の忍者が何よりも大事にするファイと交われば、
言うまでもなく立場が悪くなるのは女の方になる。
黒鋼にはファイの考えることがわからなかった。
わからなかったが、本当を言えば、わかっているのかもしれなかった。
理解したところで解決できないからわからないふりをしているような気もした。
それすら黒鋼は明確にしなかった。
解決の結果が喪失につながることを恐れて、どうしようもない現状と知りつつも、ファイを軽く叱るだけで何の制限も言い渡すことができなかった。
その束縛をファイが嫌がれば、ファイは逃げていってしまうと思ったからだ。
が、その無言のすれ違いはある霜月の寒い日に終結した。



「いい加減にしろ」

人を殺せる声だ、と自分でも感じた。
隣の少女の体が強張ったのがわかったが、あっちへ行っていろと言えるほどの余裕もなかった。
汚らしく狭い家屋だ、所々が欠けた菩薩人形が薄汚い屏風の脇に転がっている。
とうとうファイは女だけでなく男にまで手を伸ばした。
湿った畳にファイは菩薩人形と同じように仰向けに寝転がっている。
そしてファイの体の上では黒鋼よりも年上の、頬のこけた男が戸惑ったように息を乱している。

「あれー。なんで黒様がいるのかなー?」

不満そうにファイは男の下で口をとがらせた。
男はといえば、黒鋼と黒鋼の隣で目を見開き震えている少女を見て絶句してしまっている。

「どうして……おとうさま、どうして……?」

か細い声で少女が男の、父親の醜い姿を見て涙をこぼした。
息をのんだ男がファイの上から退いて弁解しようとしたが、かなわなかった。
黒鋼が男のわき腹を思い切り蹴り飛ばしたからだ。

「暴力はだめだよ。優しくしてあげて、黒わんこ」

他人事のようにファイがそんな風にからかうものだから、黒鋼はファイの寝転がるそばまでいくと、ぎりぎり頬に触れない位置に刀を突き刺した。
畳は腐っているらしく、じわりと汚れた水が染み出た。

「言ってもわからねぇなら、嫌でもわかるようにしてやろうか」

「くろさま、こわいよ」

「来い」

腕をつかんで無理やり起き上がらせ、少女がいる土間の方へ押しやった。
黒鋼は松の屏風と一緒に倒れている男のもとへ行くと、刀の切っ先を男の喉下へ突きつけた。
男はわき腹を押さえて目を閉じてうなるばかりで黒鋼には気づいていないらしい。
このまま喉をかっさいてやろうかと思ったが、それは背後からの悲鳴によって阻止された。

「やめて! おとうさまを殺さないで……!」

少女は男のもとへ駆け寄ると泣き濡れた瞳で黒鋼を見上げた。

「おねがいします、おねがいします、おとうさまを殺さないでください……」

ようやく目を開けた男が黒鋼に気づくと、すぐさま少女を抱え込んだ。

「ごめんなさい。怒っているんですよね、ごめんなさい。
 わたしがあやまりますから、わたしが何でもしますから、ゆるしてください……おねがいです……
 何でもしますから、おとうさまを許してください……どうか……後生ですから……」

少女は嗚咽を交えながら男の腕の中で黒鋼に懇願した。
これではどちらが悪者かわからないじゃないか、黒鋼は気分を害してしまい、刀を鞘におさめた。
ぼろぼろとひっきりなしに涙をこぼす少女に何か労わりの言葉をかけるべきなのだろう思ったが、黒鋼がそんなことをしてやれる人間なら、
ファイはこの男に組み敷かれることはなかっただろう。
きびすを返して黒鋼はファイのいる土間へと向かった。
少女の礼を背に受けて、さらに気分は悪くなるばかりだった。



今日の夕方、黒鋼が屋敷に帰るとファイの姿がなかった。
どうせ今日も女を連れこんでいると予想していたのだが、黒鋼は予想が外れたことに不吉な風を感じた
この時間にファイが出かけることは今まで一度もなかったから殊更不審に思い、町に出たのだ。
きょろきょろ辺りを見回しながら夕方のあかい町を歩いていると、幼い少女に声をかけられた。

「黒鋼様、こんにちは。ファイ様を探していらっしゃるんでしょう?」

少女は豆腐屋の娘だった。
さっきファイが豆腐を買いに店に来て、父にお茶でもどうかと家に招かれているのを見たばかりなのだと少女は黒鋼に話した。
何もお出しするものがないから甘栗を買って来いと父に頼まれ、その帰りなのだと。
そうして黒鋼の不吉な予感は的中することになった。
お家に案内しますと少女に導かれ着いた先で黒鋼の冷静さは一瞬で激昂に支配された。
男はファイに誘われてあの状態になったのだとすぐにわかった。
男が最初からそのつもりでファイを家にあげたのなら、少女をもっと遠くまで買出しに行かせているはずだ。

「おまえは俺といるのが嫌なのか」

屋敷に帰る前にファイを路地のずっと奥に引き込んで行き止まりに追い詰めて問うた。
日は落ちてファイの頬にはかげりができている。
つめたい風が足元でうねり、足首を冷やした。

「ううん。オレは黒様とずっと一緒にいたいよ」

「なら、なんでだ」

「さみしいんだもの。だからこの国でオレのこと好きでいてくれる人を探してるんだ」

「結果的に嫌われるようなやり方でか?」

もう一歩詰め寄るとファイが窮屈そうに身をよじった。

「……どうでもいいでしょ。黒たんの言うとおり、屋敷じゃない場所だったんだから、怒らないでよ」

ふてくされて視線をそらすファイのあごをつかみ、しっかり自分の方を向かせる。
猫が嫌がるみたいにして逃れようとするのを、自分の体で押さえ付け、壁との間に挟み込んだ。
必死に顔をそらしながら迷惑そうにファイは歯軋りした。

「ほかの誰かに好いてもらわないと駄目なのか」

「……だって、みんなオレのこと嫌いだなんて、そんなの」

「俺がいる」

顎をつかんでいた手を離し、柔らかい髪と頭を抱きこんだ。
そうすればファイが抵抗をやめることは、もうずっと前から知っていた。

「誰に嫌われたってかまわねぇだろ。おまえには俺がいる。それじゃ足りないのか」

それから背中をなでて、うなじをくすぐってやれば、すぐに力を抜いてもたれかかってくることも、ずっとずっと前から知っていた。
きっとほかの誰も知らない。
ここまで来るまでどれほど苦労したことか、たった一晩体をあわせたくらいの女連中に知られてたまるものか。

「黒りん、はっきり言うようになったよね、そういうこと」

「おまえは直接言わないとすぐ悪い方へ考えるからな」

「だったらもっと早く言ってよ」

「あぁ、そうすりゃ良かった」

くつくつとファイが黒鋼の肩に額を押し付けて笑った。
だめだね、と自嘲を交えて。

「みんなに嫌われたオレを、黒たんも嫌いになるんじゃないかって、怖くて」

「とんだ杞憂だな」

「女の子には好かれてますよってこと、見せてあげようと思ったんだけど。
 みんな黒ぴーを見て泣き出しちゃうし。黒ぽんの顔が怖いから」

「うるせぇ。どう考えても方法間違ってるだろが」

急にぶるりと肩を震わせたファイが黒鋼の腕にしがみつき、寒いと言った。
ファイのその言い分だと、もしかすると、あのまま放っておけば男だけでなく子供にまで手を出していた可能性も考えられて、黒鋼も寒さとは違った理由で身震いした。
それを夜になって冷えたためと勘違いしたファイがもう帰ろうと黒鋼の服を引っ張った。
路地を出ると遮られていた風がふたりに吹きつけ、急ぎ足で屋敷を目指した。

「ごめんね、迷惑かけて」

屋敷の門を開けたところでファイが立ち止まった。
振り返って黒鋼はひとつだけため息をついた。

「謝るならさっきのガキに謝れ。家庭崩壊の危機だぞ」

「うん……ほんと、悪いことしちゃったなぁ」

遅い夕飯をふたりで食べて、同じ部屋で眠るときファイは布団にうつぶせに倒れこんで枕に顎を乗せた。
ぼんやり何か考えているらしかったが、黒鋼が隣の布団に入ると、かりかりと布団から出した手で畳をひっかいた。

「オレ、浮気したんだ。黒様以外の人と、このお布団で、寝たんだ」

そしてその手を伸ばして黒鋼の背中に抱きついた。
しだいに寒くなる夜には心地の良い温度だったから、目を閉じたままファイを自分の布団に引き入れた。
少し驚いた様子だったが、ファイはもぞもぞと丸まるように姿勢を楽なものにした。

「許してくれる?」

「……許さねぇ」

「あはは、やっぱり? でもオレがいちばん好きなのは黒たんだよ」

「そんな当然のこと言ったくらいじゃ、許さねぇぞ」

ファイはそれを聞いてやけに楽しそうに笑い、その振動が黒鋼にも伝わった。

「じゃあ、どうしたら許してくれる?」

「さぁな。自分で考えろ」

言うとファイはすっと目を細め、黒鋼の服に手を入れて素肌をなでた。
それをまねて黒鋼もファイの太ももをなでると、くすぐったそうに身を硬くした。
正直なところ、ファイが浮気をしたなんて黒鋼にはどうでもいいことだし、許す許さないなんて問題にすらならないことだった。
黒鋼が唯一許さないのはファイが自分のそばを離れて行くことだけだ。
それ以外のことなら何だって、たとえファイが他の人間を選んだとしても許してしまえるのだ。
とは言ってもファイは決して他の人間のところへは行かないだろうから、そんなことはまったく考慮に入れていないのだけれども。
黒鋼が恐れているのはファイが色々なことを独善的に考えた末に、黒鋼のそばを、厳密に言うなればこの次元を出て行くこと、それのみである。
それはファイが他の人間のところへ行く可能性とは違い、あり得ないとは断言できないことなのだ。
やわらかく滑らかな肌を他の誰かに触れられたことに嫉妬しないわけではないが、それだけのことならば過去の自分と同じだ。
あの肉体だけを差し出す、蠱惑的な、まるで絵画のような胡乱な瞳、声、体温。
ファイは確かに交わる人間に対し一時的とはいえ純粋な好意を抱いていたが、きっとファイと交わった男女は冷静な精神に戻ったときにひどい落胆と腹立たしさを感じたことだろう。
その気持ちは痛いほどによくわかる。
しかし自分だけはもう何度も味わったあの焦燥と憤りを感じることはないのだ。
黒鋼はファイに覆いかぶさると、えも言われぬ優越を感じた。
一時は金の色にもなった蒼い眼球が黒鋼を正しくとらえ、また黒鋼が正しくファイをとらえる。
他の誰にもできないことだ。

「贅沢なんて欲しがっちゃいけないんだね。
 オレだけが黒様を好きで、黒様だけがオレを好きでいれば良かったんだ。
 それだけがあれば、いいんだ」

わずかに頬を染めたファイが上半身を少しだけ起こして黒鋼の乾いた唇をなめた。
そして笑う。
諦めとも充足とも見える笑みだった。

「だったらおまえ、もうこの家から出るな。欲しいものがあるなら何でも買ってきてやる」

「わぁ、軟禁だ」

「俺と一緒なら外に出てもいい」

「誰か訪ねて来たときは?」

「誰も来させない。用事は全部俺が聞く」

そしてファイの耳に噛み付くと、軟禁だ軟禁だとはしゃいだ声を上げた。
嫌がられるかと思ったが満更でもないようだ。
ファイが他の人間に体をひらくのは別にかまわないが、それによって何が変わるともわからない。
今日だって危ないところだった。
あの少女の泣き声で、ファイは今も自己嫌悪から抜け出せずにいる。
彼のその罪悪感はやがて必ず逃亡へとつながるのだ。

「でも、知世姫たちには時々でいいから、会いたいなぁ」

少しずつ呼吸を乱し始めたファイがそう呟いた。
許容できてそこまでだな、と黒鋼は肯定した。

END
リクエストの「永住でファイ浮気ネタ」でした