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恋人は変人
はて、自分の感覚とは、他人と大きく異なるものだっただろうか?
目の前の光景に黒鋼は呆然としながら首をかしげた。
他人がおいしく食べるものをとても口にできないほど不味く感じたり、自分が心惹かれるものは他人が毛嫌いして忌避するものであったり、そのようなことは今までにあっただろうか?
いいや、なかったはずだ。
甘いものが苦手というのはもしかすると少数派かもしれないが、しかし数にして見れば決して少数などという規模ではないだろう。
一般的な家庭に理想的な両親の一人息子として生まれ、学校も毎日通い、いじめもなく平穏に進学し、大学を卒業後は教師として生活している。こんなありふれた人生のいったいどこに異常性を発見できるだろうか。
確かにこの堀鍔学園はちょっとおかしな理事長のせいでおかしなことがよく起こるが、だからと言ってそれが自分が異常であることと同義にはなるまい。
好みだってそうだ。
酒と緑茶が好物であるということに異常性を調べる必要性なんて皆無だ。
食べ物に限らず、好む芸術とか、趣味だって堂々と人に打ち明けられる、面白みのないものだ。
それなのになぜ、自分は億を超える人類の中から、わざわざこんなおかしな人間を選んでしまったのか。
黒鋼は自分の部屋のドアを開けたとき、玄関の靴を見てファイが来ていることを知った。
それはいつものことだし、来るなと言っても来るのが毎夜のことだった。
けれど今日はいつもと違って玄関から見えるどこにも明かりが灯っていなかったのだ。
いつもなら黒鋼の帰宅を犬のように飛びついて喜び、猫のように離れて食事をすすめてくるのに。
いくらファイが非常識だと言っても、わざわざ来ておいて部屋の主の帰宅前に人のベッドで休息するなんてことはしないだろうし、と不審に思いながらリビングの扉を開けると、まさに奇々怪々、部屋を間違えたのではないかと疑うほどの光景が目に飛び込んできた。
部屋は暗かった。
それだけではなかった。
何もかもが黒かった。
壁一面に黒幕が張られ、床にも黒い布が敷かれていて、その真ん中にろうそくを一本立てた正面にいる人物も真っ黒なローブを頭からすっぽり被っていて、さらには黒の手袋と靴下まで装着していた。
部屋を間違えましたと謝罪の言葉が喉まで出掛かったところで、フードの隙間からちらりと覗いた金髪に、ようやく黒鋼はこの黒装束の人物がファイであることに気づいた。
この異常な状況に言葉を失いつつも、何とか声を出そうとした瞬間に、黒い床の上に禍々しい模様の魔方陣らしきものが描かれているのを見て、完全に茫然自失してしまった。
異世界だと思った。
扉を開けたらそこは異世界でした、なんてのは案外身近に起こり得ることなのか、否定しきれない事柄は全て肯定するしかないのか。
ならば玄関に入るところからやり直せば、きっと元通りになっているはずだ、と半ば夢を見ているような心境で踵を返そうとしたとき、魔方陣を覗き込んでいたファイが顔を上げて場違いな明るい声を出した。
「あー、黒様先生おかえりー!!」
ぱぁっと輝いた表情はろうそくの灯りで影がゆらめき、不気味な雰囲気を醸し出していた。
長いローブを引きずって黒鋼に飛びついて来たのを受け止め、フードをめくると見慣れた笑顔があって、少し安心した。
「聞きたくはないが、何やってんだ」
本当は怒鳴って殴ってやりたいところだが、そんな気力も無い。
それを知ってか知らずかファイは得意げに腰に手を当てて魔方陣らしきものを指差した。
「オレの前世って、魔術師だったんだって! だから何か召喚とかできると思ったんだー!」
だめだ。これはもうだめだ、手遅れだ。
「……前世って、何でわかったんだ」
「ネットの占いだよー。生年月日でわかるんだ。
そしたらオレ、中世ヨーロッパで魔術を使って王様の政権を支配してて、魔女狩りの時に殺された人だったんだよー」
「おまえ、よくそんなもんを真に受けられるな」
「ちなみに黒たん先生の前世はブラックバスだったよー。黒りんはいつの時代も黒いんだねぇ」
「ブラックバスはそんな黒くねぇだろ……ってそこはどうでもいい! 人の部屋で何やってんだ!」
話を理解すると徐々に怒りがこみ上げてきた。
声を荒げてもファイは恐れる様子も無くにこにことしているが。
「だってー、黒ぴょん先生の部屋の方が邪悪そうだしー?」
反射的に拳を頭に振り下ろすと、ぎゃっと悲鳴を上げた。
「ひっどーい! オレ、ちゃんと手順通りやってたのに! この魔方陣、よく描けてるでしょー!?」
「だから何だ! 召喚なんぞできるわけねぇだろうが!」
「やる前からできないって決め付けるのって、教師のすることじゃないと思うなー」
「つーかそもそも、政権を支配してた奴の真似すんなら予言とかするもんじゃねぇのか! 何で黒魔術師なんだよ!」
そう怒鳴ると、ファイはハッとして固まった。
そして殴られた頭を押さえていた手を下ろして首の前のボタンを外し、黒のローブを脱ぎ捨てた。
「そっか、本当だ、オレは間違ってたよ。勝手に前世の人が召喚や呪術をする人だと思い込んでた」
ファイは照明を付けてろうそくの火を消し、黒幕を引っ張り強引に取り去って、あっさりとごっこ遊びの片づけを始めた。
まさかこんなにも簡単に説得できるとはといささか面食らったものの、反省している者に向かってしつこく怒鳴り散らすこともないだろうと、黒鋼が片づけを手伝ってやるべく黒幕に手をかけたところで、ファイがどこか遠くを見るように言った。
「オレは……白魔術師だ……」
あ、やっぱりだめだ。
「何か召喚できたら、黒むーのお仕事手伝ってもらおうと思ったんだけど。最近忙しいみたいだし」
その言葉はちょっとだけ嬉しかったが、悪魔だか何だかに己の仕事を任せたくはない。
それからしばらくは仕事が忙しいこともあってファイはおとなしく過ごしていた。
おとなしくと言っても、黒鋼への懐きようは変わらなかったが。
しかしある休日の朝、前日の夜から黒鋼の部屋に泊まっていたファイは急に「買い物に行ってくる!」とまだ朝食も済ませていない黒鋼を置いて出て行った。
いつもなら休日の朝はうだうだとベッドの中で黒鋼に引っ付いて寝言めいたことをむにゃむにゃ言ってるくせに。
また何かやらかす気だ、と黒鋼はベッドでため息をついた。
そして、あんな人間を相手に欲情した昨晩の自分にも、ため息をついた。
しかたがないものはしかたがないんだ、という開き直りのため息。
昼前にファイは意気揚々と帰宅した。
牛丼を作ると言ってスーパーの袋から材料を出しながら料理をしたが、食料品だけを買いに外出したわけではあるまい。
何とも絶妙な味わいのタレのかかった牛丼を食べながら何を買いに行ったのかと聞くと、きらきらした笑顔で「紙粘土と絵の具!」と言った。
昼食後、ファイはその買ってきたという紙粘土を新聞紙の上に取り出して、真剣に何かを作り始めた。
ファイは絵が上手いから、今度は立体に興味を持ったのだろうかと、心配していたよりもずっと平和な光景に安堵した。
しかし、面白くはなかった。
話しかけると、うるさいとこちらも見ずに冷たくあしらわれたので、少々気分の優れないまま雑誌を読んだりテレビを観たり散らかっていた寝室の片づけをしたりして時間を過ごしていたところ、夕方になってファイができたと叫んだ。
「できたー! 乾かして色を塗ったら完成だよー!」
ボウルに水を入れて手を濡らしながら紙粘土をこねていたファイが顔に白い汚れを付着させて、新聞紙ごとソファの横に移し置いた。
それからすぐに手を洗って夕食の準備に取り掛かったので、そっと作品を見に行ってみると、何とも懐かしいようなにおいを放つそれらは、黒鋼には何だかよくわからないものばかりだった。
いくらか動物のようなものがあるのはわかるが、それ以外はただの球体や平べったい四角形など、正確にこれと言い当てることができないものだった。
色を塗って完成らしいから、今の段階ではまだわからなくて当然なのだろうか。
どうでもいいものだが正解は気になった。
そうしてそれらの作品が完成したのは、夕食後、黒鋼が風呂から上がったときだった。
「見て見てー。完成したよー」
タオルで頭をがしがし拭いて返事をして、いったいあれらは何だったんだと謎が明かされる期待に少しだけ高揚した。
が、ファイはやはりファイで、ファイの作るものも、つまりそういうことだった。
「題して、黒たん博覧会だよー」
「……は?」
「黒みー先生に似てるものを作りましたー。黒ぴっぴがいっぱい誕生して嬉しいなー」
上機嫌で披露された品々は、全てがほとんど黒く塗りつぶされていた。
生き物らしきものも、球体も四角形も全部。
それらを指差してファイが1つずつ説明していく。
「前の列にあるのが、右からゴリラ、カラス、アリ、オットセイ、タスマニアデビル、ハエ」
「ハエって、おい」
「真ん中のが、しげる」
「誰だよ」
「後ろの列のが、右からレーズン、オリーブ、黒豆、消しカスを丸めてつくったやつ」
「消しカスを丸めて作ったやつは消しカスを丸めて作れよ」
似ているというか、単に黒いものを作っただけのような気がする。
でも動物類はかなり出来がよくて、ハエなんて紙粘土だと言われなければ本物と勘違いして叩き潰してしまいそうだ。
レーズンとオリーブは、全く同じものに見えたけども。
「一番後ろのは何だ?」
「これー? これはね、黒たん博覧会の一番の大物だよー!」
平べったい、四角形のぴらぴらのそれは海苔かとも思ったが、海苔では大物とは言えないだろう。
海苔でないなら何だろうと思うと同時に、ファイが悟りを開いたような顔で答えを明らかにした。
「これは、宇宙」
「………………」
「人間には予測もできないほどの無限の広がりを持ち、地球を、惑星を、銀河を、全ての星々を母のように包み込み、人類に永遠の謎を与え続け、過去も現在も未来も持たない、恐ろしくも偉大なりし、宇宙」
「…………すごいな」
もうまともな言葉も出なくて、面倒になって賞賛と共に頭をなでてやると、ファイは照れくさそうに微笑んだ。
一番手を抜いて作ったような作品が一番の大物ってどうなんだとだけ言おうかとも思ったが、ファイが嬉しそうなので思うにとどめておいた。
「黒ぴーがいっぱいいれば、寂しくないのになぁ」
完成品を愛しげに眺めてファイが言う。
「これ全部、今日から黒様ってことにしよう。毎日話しかけたら、そのうち動き出すかもー」
聞こえだけはかわいらしいものだが、ハエを自分の代わりにされるのはさすがに複雑だ。
消しカスなんてはっきりと「カス」と言ってしまっているし。
「おら、できたんならさっさと風呂入って来い」
でもやっぱり、それらに向けられる愛情は結局は自分に向けられているものだから、複雑さは色々の感情を交えて増す一方だ。
ファイを風呂へ追いやって、まじまじと作品を観察する。
本当によくできている。
ゴリラの毛並みとか、タスマニアデビルのまさに悪魔な表情とか、ハエの目とか。
この手先の器用さをもっと実用的な面で利己的に活かせばいいのに、ファイは黒鋼に似ているものを作りたいと丸一日かけて作業に没頭した。
その情熱が自分を発端としていることに黒鋼は何とも言えない気分になる。
ファイの奇行はいつも黒鋼に関係している。
いつの間にかそれをこんな気持ちで受け止めるようになっていることに、もうだめなのはこっちか、と黒鋼はわずかに笑ってテーブルに置かれたままの絵の具を片付けてやった。
しかし翌朝、もう飽きたと言って無情にも全てゴミ箱に捨ててしまったファイには驚きを隠せず、しばし時が止まった。
さらにその後すぐにファイが「本物じゃなきゃ嫌だから」とはにかむものだから、なかなか黒鋼の時は動き出さなかった。
「出張お疲れ様ー! お帰りなさーい!」
1泊2日の出張を終えて帰ってくるとファイがいつもより控えめに出迎えてくれた。
できあがった夕食は疲れている黒鋼を考慮したものらしく、どれも食べやすいものばかりだった。
夕食時にはどうでもいいことを喋りまくるファイは今日は口数も少なめで、食べ終えるとすぐに食器を洗いに行った。
労わっているつもりなのだろうが、黒鋼からするとこうも気を遣われると調子が狂ってしまう。
普段はちょっと離れただけで寂しかったと言って押し倒す勢いで抱きついてくるのに。
ファイは変人だし、価値観も常人とはかけ離れているし、行動も突飛だ。
けれど黒鋼はそのことを呆れたり面倒だと感じたりはしても、迷惑だと思ったことなんていっぺんたりともない。
ファイは考えなくてもいいことばかり考えている。
黒魔術を始めるような理解も予想もできない馬鹿げたファイの行いとは違って、この思惑ならば黒鋼にも次の予想ができる。
「じゃ、片付け終わったから、今日は自分の部屋に戻るね。朝ごはんはパンがあるから、それ食べてねー」
寸分違わず予想通りだ。
このあとのファイの行動だって、実際に見えているように鮮明に予想できる。
黒鋼に止める間も与えないためにわざと玄関まで行ってから帰ると告げることも、もちろんわかっていたことだ。
いつもならば当然のようにファイは黒鋼の部屋の浴室を使って、寝るときも遠慮なく黒鋼にくっついて一緒のベッドに入るのが常だった。
ひとり部屋に戻った後のファイの行動も全て黒鋼にはお見通しだ。
まずシャワーを浴びて、髪を乾かしながらニュースを観て、黒鋼の部屋にはない甘いものを少し食べて歯磨きをして寝室に行く。
でも眠れず、ごろごろとクッションを抱いてベッドを転がる。
夜も更けてきた頃、黒鋼はすっかり電気を消してしまった自室でそっと耳をすませた。
がさごそと隣からファイが部屋を移動する音がしたのを契機に黒鋼は自分でも気づかないままに笑みを浮かべ、部屋を出て隣の部屋の鍵を開けた。
「寝れないんだろ?」
ラックの前で本を開いていたファイがびくりと振り向いた。
ファイの部屋には様々な本があり、そのほとんどが日本語に翻訳されていない洋書だ。
理系の人間でもあまりの難解さに放り出しそうな化学や数学の本を漫画でも読むような気軽さで読んでいたのには、感心を通り越して尊敬さえしたものだ。
「黒るー先生……どうしたのー?」
一瞬、葉が全て散った冬の樹木のような表情をしたのを黒鋼は見逃さなかった。
ファイの持つ重たい本を取り上げてラックに戻す。
「おまえは余計なことしか言わねぇで、肝心なことは何ひとつ言いやしねぇな」
「そ、んなことないよーぅ。オレ、思ったことはちゃんと話してるよー?」
「なら、今おまえが言うべきこともわかってるな?」
問うと、ファイはぐっと言葉に詰まった。
促すようにうなじに手を回して髪に指を差し入れると、うつむいて何度かためらったあと、弱々しく寂しかったと言った。
「それで?」
「……い、一緒に、寝たい」
それを聞いて黒鋼はぐっとファイの腕をつかんで寝室へ向かった。
「で、でも! 黒たん、疲れてるから、ひとりの方が……」
「うるせぇな。俺ぁ、枕が違ったらゆっくり寝られねぇ人間なんだよ」
照れ隠しで乱暴にファイをベッドに押し込んで、自分も強引に潜り込む。
それでもまだ抵抗を止めていないファイを抱き寄せて拘束すると、ようやく肩の力を抜いて身をゆだねた。
「枕が違ったら寝られないのに、ベッドが違うのは平気なの?」
「いいから寝ろ」
くすくすと笑うファイの笑顔は黒鋼にぬくもりを与える。
出張先のホテルで黒鋼は整った真っ白のベッドに寝転がって、言い知れぬ物足りなさを感じた。
安いビジネスホテルのベッドは決して寝心地が良いものではなかったが、ベッドにやわらかさを求めたことなんてないし、それならば新品同様のシーツと布団に満足するはずなのに、体の一部を失ったかのような喪失感に襲われ寝起きの機嫌は最悪だった。
足りないのは自分のベッドの感触でもなく、使い慣れたかけ布団の重みでもなく、自室に染み付いた自分のにおいでもなく、もうひとつのぬくもりだった。
それが無ければ真夏でも暖房が効いていても寒くて寒くて、やがて寒さは孤独へと変わる。
そうなればどんなに好きなものを食べても、聞いても、見ても、孤独は増大するばかりだ。
1ミリの距離も許したくなくて、ファイの腰をつかんで引き寄せれば、自分から強く黒鋼にしがみついた。
ファイがおかしい人間なら、ファイに好かれた自分もおかしい人間ということになるのだろうか、とふたり分のぬくもりの中で黒鋼はぼんやりと考えた。
けれどたとえ異常だったとしても、不特定多数の人間に迷惑をかけるような異常性ではなく、黒鋼とファイ両者の間だけで完結するものならば、いったいどうして問題にする必要があろうか。
それに行動はちょっとばかし個性が強すぎるが、ファイを動かしている理念は黒鋼に対する好意そのものだ。
たくさんの黒鋼もどきを作ったのも、本人が言っていた通り、寂しさを紛らわせるためだ。
作っておいて本物じゃないと嫌だと全て捨ててしまったのには今でも思い出すと苦笑してしまうが。
こんな純粋なことが異常だと言うならば正常なんてどこにもないじゃないか。
地球に生きる数え切れない人類の中からファイを見つけ出し手を取って自分のものにした過去の選択を疑うなんて、なんと非道なことをしてしまったことか。
後悔と贖罪の意味を込めて瞼に唇をつけると、くすぐったいとファイは笑った。
見てみろ、疑う余地も無い幸福がここにある。
正常だ、何もかも。
END