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晴れときどき雨
「1年の陸上部の子と、3年の野球部の先輩が付き合いだしたんだって」
お昼休み、みんなでご飯を食べているときに四月一日が大発見を報告するような顔で言った。
今日はお天気も良くて、最近ずっと漂っていた湿り気のある粘っこい空気もだいぶ薄れていた。
もうすぐ梅雨は明けるだろう。
「ふぅん」
百目鬼が興味のない声で返事をすると、四月一日が不満そうに百目鬼を睨んだ。
「名前も知らないような奴の情報なんて、どうでもいい」
けれど百目鬼にそうはっきり告げられ言葉に詰まっていた。
なにかフォローをしたかったけど、サクラもどちらかというと百目鬼に賛成だったから上手なせりふが思い浮かばず、黙ったままになってしまった。
知らない人の話は興味を持ちづらい。
それがたとえば事故をしたとか退学になったとかいう話ならまだしも、意外性のない話題だと、なおさらだ。
でもつまらない話だと感じてしまったことは悟られたくなくて、必死でその人たちのことを考えた。
「1年の子って、バスで通ってる子? 少し背の低い……」
「そう! その子!」
そんなサクラを助けようとしたのか、天然なのかわからないが、ひまわりが楽しそうに当ててみせた。
興味を持ってくれたのが嬉しいらしい四月一日はさすがひまわりちゃん、と彼女を褒め称え、無表情でお弁当のきゅうりをかじる百目鬼を軽くののしった。
「いいなぁ」
水筒の温かいお茶を飲んで四月一日がため息まじりにつぶやいた。
サクラにはよくわからない羨望だった。
いまサクラにわかるのは、食べているそぼろのご飯がとてもおいしいということくらいだった。
「年下と付き合うのが、羨ましいの?」
4つくっつけた机の5つ目、いわゆるお誕生日席に座る小狼が不思議そうに四月一日に尋ねた。
きっと小狼もサクラと同じく四月一日が何を羨ましいと思っているのかわからないのだ。
サクラはそれを嬉しいと思った。
満足している人間は自分と同じような状況を羨む人間のことを理解できないから。
「いや、年下がいいっていうか、なんていうか」
「飢えてんだろ」
「おまえは黙れ!」
百目鬼の言葉を否定しながらも、痛いところをつかれた表情で四月一日は悔しそうにぽいと口に里芋を放り込んだ。
飢えている、というのもサクラにはわからないことだし、小狼にもわからないことだろう。
誰でもいいから異性を求めるということは、ふたりとも絶対にないことだった。
もちろん四月一日だって誰でもいいと思っているわけではないだろうけど。
「四月一日君はどういう子が好みなの?」
ひまわりに尋ねられ、落ち込んでいた四月一日はとたんに輝いた。
「そりゃもちろん、ひまわりちゃんみたいな……」
「サクラちゃんは、やっぱり小狼君みたいな人が好みなの?」
「あれー? ひまわりちゃーん?」
くるりと視線を変えたひまわりに問われて、サクラは好みって何だろうと思った。
考えたことがなかった。
幼いころ、兄の友人に憧れていた時期はあったけれど、あんな人が好みかと言うと違う気がした。
「ほら。好みのタイプは付き合ってる人、なんて言うし」
「うーん、好みかぁ……」
こじつけのようで、サクラはその言い回しをあまり良く思わなかった。
そう在らなければならないみたいな強迫性がある。
サクラはそれが正しいと思って小狼と交際しているわけではないのだ。
「小狼は?」
悩んでしまったサクラを見て今度は四月一日が小狼に尋ねた。
でも小狼もサクラと同じように首をひねるばかりで、答えはなかった。
良かった、と安心した。
もし小狼がこんなのが好みだとか、まかり間違ってサクラのような人が好みだなんて言ったとしたら、とても悲しくなっていた。
そこで予鈴が鳴ったので慌ててお弁当を片付けて机を元の位置に戻す。
クラスの違う小狼たちと別れ、自分の席について外を眺める。
大きな白い雲がじわじわと移動していた。
本鈴と共に教室に入ってきた英語教師はすぐにラジカセの準備を始めた。
サクラの所属するフィギュアスケート部は、毎日練習が行われるわけではない。
そもそもあまり人気のない部活だから、顧問も少々手を抜いているところがある。
2年にあがって数人の後輩を得たけれど大会で優勝したいという熱意を持っている生徒は相変わらずいなかった。
サクラ自身も名声を浴びたいわけではないので、週に2、3回行われる部活動を精一杯楽しめればそれで良かった。
練習も楽しいが、着替えの最中のおしゃべりや、暗くなって帰るときの疲労感も好きだ。
帰り道は小狼と一緒のときもあれば、部活の仲間と一緒のこともある。
最近、小狼は試合に向けてサクラたちよりも遅くまで練習しているから、一緒に帰る頻度は減ってしまった。
少しさみしいけれど部活の仲間のひまわりや、小学生の頃からの友人の知世たちと共にいられればそれだけで嬉しくなった。
それに、会えなければ帰宅してからのメールや電話がいつもよりずっと楽しみになる。
自分たちの関係は良好だ、とうなずいてサクラは更衣室を出た。
ついさっき、後輩のひとりから中学の頃から付き合っていた男の子と別れたという話を聞いたのだ。
高校に入って疎遠になって、その子の彼氏には新しい彼女ができたのだと言う。
まだ入学してそんなに経ってないのにとか、彼女ができてから別れるなんてとか、後輩はひどく憤慨していた。
みんなが慰めても後輩のかなしみは消えなかった。
もし自分が小狼と離ればなれになったら、小狼は自分を捨てて新しい彼女をつくるだろうかとサクラは考えてみた。
つくらないと断言することはできないが小狼ならつくらないだろう。
そんなに軽いものじゃないし、そんなに浅いものじゃない。
かと言ってどろどろした重みもないし束縛もない。
サクラにとって小狼は、好みのタイプ、だったのかもしれない。
容姿や性格や、こういうことをする人とかしない人とか、そういうのではなくて、小狼だけがサクラの好みだったのかもしれない。
だからどんなに小狼と似通った人がいても決して好きにはならないだろう。
でも小狼はどうだろう、と思いながらサクラは部室の鍵を返すため職員室に赴いた。
同じだったら嬉しいけれど、違うなら違うでもかまわない。
着替えずジャージのままだった顧問に鍵を渡し、ちらりと窓の外に目を向けた。
校舎のわきでひまわりと数人の後輩がサクラを待っているのが見えた。
急がないと、と職員室を出て階段の方へ曲がったとき、ひらりと白い布がサクラの視界を覆った。
「あ、サクラちゃんだ」
この学校で白衣を身に着けているのは化学教師のファイだけだ。
顔を上げなくても、声を聞かなくても誰だかわかる。
「部活? おつかれさま」
ファイは気軽そうな振る舞いのわりには、人のことをよく気にしている。
教師だからという義務的な理由からではなく、生まれながらの不器用さからだ。
ファイはサクラにできないようなことを簡単にやってのけるけど、サクラが簡単にできることがファイにはできないことがある。
人間はみんな欠けているとサクラは感じた。
「気をつけて帰ってね。あと、それからー」
にこやかに去ろうとして思い出したように振り返るファイのしぐさは、ぜんぶ演技だ。
ファイは常から演技がかった喋りや動きをするから、どれが本当に演技なのかは見抜きにくいが、今のはサクラにもわかるくらい、あまりにもわざとらしかった。
「最近の友達との友好関係はどう?」
遠慮なくものを言う彼には珍しく、ためらっているようだった。
友達との友好関係。
実に良好だけれど、ファイが聞きたいのはそうではなくて、サクラがまた嫌がらせを受けていないかどうかということだろう。
自分で何とかすると宣言したばかりだからファイも口出ししにくいのかもしれない。
「大丈夫です。このあいだファイ先生が睨みをきかせてくれましたから」
そう微笑むと、ファイは困ったように頬をかいた。
「その言い方はなんかやだなぁー」
「ご、ごめんなさい……」
謝ると、ファイは別にいいんだけどと笑った。
それから少し話をしてサクラは自分を待つ友人のもとへ急いだ。
「もー、だめです。わたし、しばらく立ち直れないですー……」
帰り道、携帯のメールを見ながら後輩がサクラの肩に頭を置いた。
新しい彼女ができてしまった元彼氏と連絡を取った結果、完全に別れることになったらしい。
街灯の少ない道で携帯の画面がよく光っている。
「まぁ、あんたはかわいいんだからすぐに新しい彼氏できるって!」
「いらない。しばらくは彼氏なんてつくらない!」
そのやり取りを聞いて彼氏ってつくるものなんだ、とサクラは感心した。
サクラは小狼と出会うまで誰かと付き合いたいとか彼氏が欲しいとか思ったことがなかったから新鮮に思えた。
「サクラ先輩はいいですよねぇ。小狼先輩とらぶらぶですもんねー」
「えっ。そ、そうかな」
「そうですよー! あれでらぶくないとか、そっちのがおかしいです!」
サクラは小狼と接するとき、周りを意識しない。
ごく自然にしているつもりだったから、そんな風に言われるのは恥ずかしいけれど嬉しかった。
赤くなるサクラに、ひまわりがかばんから飴玉を取り出して、あげると言った。
めろん味の飴だった。
「もう話題変えましょう! 彼氏の話はあたしが悲しくなるんで、なんか他の話しましょう!」
何かないですか、と問われてサクラは、あっと声を出しかけてとどまった。
甘くて嘘っぽいめろんの飴を口の中で転がし味の付いたつばを飲み込む。
「1年の陸上部の子が、3年の先輩と付き合いだしたって……」
取り繕うように昼間四月一日から聞いた話を出すと、後輩はだからそういう話はやめてくださいと嘆いた。
斜め前のもう一人の後輩が豪快に笑い、好きなアーティストの新曲が来週発売されるという話を始めた。
その話を聞きながらサクラはさっき飴の味と一緒に飲み込んだ言葉を頭の中で取り出した。
ファイ先生がね、今度、黒鋼先生とオムライス食べに行くんだって。
そう言おうとしたのだ。
だけどそんな話は誰も興味ないし、堀鐔学園の教師同士が仲がいいのは周知の事実だ。
それに彼らは名物教師だけど後輩たちの授業を受け持っているかどうかも知らない。
それってあの金髪の先生ですか、というレベルの認識かもしれない。
昼間、意外性のない話は相槌だけで済まされると学んだばかりなのに。
サクラの周りの人からすれば、ファイと黒鋼が食事にいくなんて話は、鳥が飛ぶんだってという面白くもないみんな知ってる話と同じなのだ。
しかし、サクラにとってそのニュースは、鳥って仰向けで飛ぶんだってというような知らせだった。
あの鳥って、そうなんだ、と認識を改める知らせだ。
だからさっき階段でファイからその話を聞いたとき、サクラはつい口に手を当ててしまった。
ファイは照れくさそうに戸惑っていて、そしてすごく不安そうだった。
ファイ先生は黒鋼先生が好きなのかな、とサクラが疑いを持ったのは、ファイが小狼と付き合う前の自分と同じ目をしていたからだ。
朝、偶然会えないかな。合同授業で偶然、隣の席にならないかな。偶然、廊下ですれ違ったりしないかな。
そんなほとんど神頼みの淡い願いを、ファイがサクラと同じように、黒鋼に向けているのを見た。
ファイはずっと前からそうだったのかもしれないが、サクラが気づいたのは小狼を好きになってからだ。
同じ状態になったからこそ気づけたのだろう。
小狼と両思いになった自分はとても幸せだ。
だから大好きなファイにもそうなって欲しいと思っているのだけど、サクラには願うことしかできない。
でも人の願いは強いから、きっと大丈夫だろうと確信している。
お弁当屋の前で後輩と別れ、ひまわりとは歩道橋のところで別れた。
ひとりになったサクラは力を抜いて息をついた。
だけど幸福は、絶望なしにはあり得ないのかもしれない。
かばんを開き中のノートと教科書を数冊取り出し、ぎゅっと唇を噛んだ。
ノートは今から新しいのを文具屋で買えばいい。
問題はノート同様にびりびりに破かれて使い物にならなくなった教科書だ、とサクラはぼんやりと空を見上げた。
続く
次回はあの子が登場