空間的狼少年

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反転墜落



ファイは夜になると羽が生えた。
だから好きなように夜の空を飛んでいた。
太陽が昇る頃になると羽はしぼみ、ただの人間に戻った。
おたまじゃくしだって大人になると足が生えるのだから、夜になると羽が生えるくらいのことは、よくある話だ。
ファイは自分の体が普通じゃないと思ったことはなかった。
夜に羽が生えたって誰にも非難されないのだし。
夜の空はとてもすてきだ。
ファイが住んでいるところは結構山奥だから、誰かに見つかる心配はなかった。
村の人たちはみんな寝るのが早くて、ファイが飛び始める頃にはもうどこの家の明かりも消えている。
飛行機を見つけたときだけ、少しひやっとする。
でもUFOだと勘違いされたら面白いのにな、とも思っている。
夜の空は静かでつめたくてとても広い。
どこまででも飛んでいけるのだろうとファイはときどき怖くなる。
どこまでも飛んでいったらきっと帰れない、けれど誰も知らない場所まで飛んでいってしまいたくなる日だって、ファイにはあるのだ。
そしてたまたま、今日はそういう日だった。
窓からこっそり外へ出て、ファイは翼を伸ばしてぐんぐん上昇した。
イカロスは太陽に近づきすぎて羽が溶けてしまったけれど、月に近づきすぎたら、どうなるのだろう。
しかしそれは実行できない。ある程度まで上昇すると寒くて羽が凍り始めるのだ。
もしかしたら月に近づきすぎると、イカロスとは逆に凍ってしまうのかもしれない。
ファイは7月の生ぬるい風の中を無心で飛び続けた。
少し、やけになっていたのだ。人生は嫌なことでいっぱいだ。
ファイは目を閉じて方向も考えずひたすら飛んだ。
いつもは大好きな暗く不気味な森も闇を液体化したような湖も誰もいない学校も何も見たくなかった。
速度を上げたせいで頬に当たる空気は強く重くなった。
そして無理に動かしたせいで羽が疲れてきたころ、ようやく目を開けて速度を落とした。
知らない町だった。
ぽつぽつと明かりが灯っているが、ファイの村と同じくらい静かで暗い。
荒れる息を整えてふわふわと遊ぶように町を見て回った。
田んぼがいっぱいで工場がいくつかあって、建物はぜんぶ低くて外を歩く人間はいない。
ファイがいつも見る景色とよく似ているが、知らない土地には変わりなかった。
少し不安になったが、好奇心がそれを上回っていた。
こういう景色がファイは大好きだ。
昼間見ている人工的な明かりでいっぱいの街は、人の声ばかりが聞こえる人間でいっぱいの街は、大嫌いだった。
ゆっくり飛んでいると虫やカエルの声がよく聞こえる。
大合唱だ。ちょっと気取って指揮者の真似をしてみる。
みんなばらばらだなぁ、ほら音間違ってるよ、音を籠もらせないで。
しだいに気分が良くなってきて、自分も少し歌ってみようかな、と大きく息を吸ったところで、ファイは固まった。
視線に気づいたのだ。小さな視線。けれどぎらぎらと好奇心に満ちている。
空に浮かぶファイを、窓から顔を出した男の子が真剣に見つめいてた。
どうしよう。逃げてしまおうか。
子供なら夢だとかなんだとかで誰かに話してもまじめに取り合ってもらえないだろうから。
でもファイはそれは嫌だと思った。
子供だからって、本当の話をしても嘘つき呼ばわりされるのはかわいそうだ。
ファイはにっこり笑って驚かさないように子供に接近した。
それでもやっぱりびっくりしたようで、子供は視線はしっかりファイに固定したままカーテンに身を隠した。

「大丈夫。怖がらないで」

ファイはそう言って窓のすぐそばまで下りていった。
ゆるく羽を動かしてその場にとどまる。

「なんで飛んでるんだよ……」

「羽あるから」

「なんで羽あるんだよ……」

「生えてきたから」

カーテンをぎゅっと握る子供は警戒心いっぱいにファイを見つめる。
その瞳は紅い色をしていた。
夜でも消えない灯を持つ瞳だった。

「おいでよ」

手を伸ばすと子供は身を引いた。

「空、一緒に飛んでみない?」

すると子供は一瞬お宝を前にしたような表情を見せたが、すぐに眉を寄せた。

「どうせ途中で落とすって魂胆だろ」

「やだな。そんなことしないよ」

「……ほんとか?」

「ほんと。空、きれいだよ。見たことないものでいっぱい」

子供はためらいを見せながらも、おずおずとファイの手に触れた。
瞬間にファイは子供の手を取って思い切り引き寄せ、空へ急上昇した。
子供は悲鳴を上げた。ファイは大声で笑った。
ずっとひとりぼっちで空を飛んでいたから、楽しくて嬉しくてしかたなかった。
夜にまで人と会うのは嫌だと思っていたはずなのに。

「ねぇねぇ、どう? すごいでしょー?」

高いところで抱っこした子供に尋ねると、すごい、と返ってきた。
文句を言われるか泣かれるかのどちらかだと思っていたから、意外な答えだった。
子供はきらきら瞳を輝かせてファイを見上げた。

「すごい。すごい」

そればかりを繰り返して、小さくなった自宅と大きくなった空を見比べた。

「名前、なんていうの?」

「くろがね」

「そう。じゃあ、くろたんだね」

からかうように言うと違うと怒鳴られたから、急発進して黙らせた。
ジェットコースターでも味わえない興奮に子供は声をあげて喜んだ。
静かにね、と口に指を当てて伝えると、何度もうなずいた。
子供は自分の両手で口を押さえ、声を抑えた。
上昇したり下降したり、回転してみたりしながら町の上から山の中まで飛んでまわった。
子供も楽しそうにしていたが、ファイも楽しくてしかたなかった。
羽のある人間なんて自分だけだから、こんな楽しみを共有できるなんて思ってもみなかった。
木々の間をすり抜けて飛んでみせると子供はときどき目を閉じたが、怖いなんてひとことも言わなかった。
あまりに飛びすぎて汗をかいたので、休憩がてら山のてっぺんで止まって深呼吸した。
深い森の香りで肺が満たされる。
暗い森は針山のようだ。

「あー、疲れた。くろたん、けっこう重いね」

「落とすなよ」

「落とさないよー。でもくろたん、ほんとに怖くなかったの?」

「怖くない。あと俺はくろがねだ!」

「楽しいね。こんな夜は初めてだよ」

子供はファイを見上げて不思議そうな顔をした。

「いつも飛んでるんじゃないのか?」

「いつも飛んでる。でも、こんなに楽しいのは初めて」

君のおかげ、と抱きなおすと子供は照れくさそうにそっぽを向いた。
ふと今が何時なのか気になって地平線を見ると、月はもうその一部を隠してしまおうとしていた。
そういえばあたりも白んできている。いつのまにこんなに時間が経っていたんだろう。

「帰らなきゃ」

子供の家の方に向かって飛立つと、子供は名残惜しそうにファイの腕にしがみついた。
けれど朝が来ればファイの羽はなくなってしまう。
急がなければ、子供の親が起きてくる前にベッドに入ってもらわないと。

「おまえ、また来るか?」

「また来て欲しいの?」

いじわるな聞き方をすると子供はむっとした顔をしながらもうなずいた。
じゃあまた来るかも、とファイは小声でつぶやいた。
約束することはできない。
どうやってここまでやって来たのかも覚えていないし、正直帰れるか不安なところだ。
それにこんな子供を夜に連れ出すのも気が引ける。

「夜はちゃんと寝ないと大きくなれないよー?」

「父さんが大きいから、寝なくたって俺は大きくなる」

それに、と子供は近くて高い空を見ながら続けた。

「母さんにも見せてあげたい」

「お母さんに?」

「母さん、体が弱いから。あんまり外に出られないんだ」

優しい子だなぁとファイはうらやましくなった。
こんな子供でありたかったなぁ、こんな人と友達になりたかったなぁ。
どうして自分はこんな子供じゃなかったのかなぁ、どうして自分はこんな人と友達になれなかったのかなぁ。
あんまりにもうらやましくて涙が出そうになる。
なんとかこらえてファイは子供を部屋まで連れ帰った。
少しでもいいから寝るんだよ、と言い残してファイは飛び去ろうとしたが、不意に翼を引っ張られた。
わずかな痛みを感じながら振り返ると、子供は最初にファイを見つけたときと同じ真剣な顔をしていた。

「ありがとう」

子供は早口でそう告げて、急いで窓とカーテンを閉めてしまった。
なんて優しい子だろう。
ファイは高く飛び上がり、誰もいない空のなかで涙をこぼした。
太陽が顔を出してきて、羽が重たくなるのを感じながら声を上げ泣きじゃくった。
ファイはあんな優しさを知らなかった。知らずに今まで生きてきた。
力いっぱい羽を動かしてファイは上昇を始めた。
イカロスの羽は溶けた。しかし太陽はまだ遠い。
よだかは星になった。しかし星はもう消えてしまった。
太陽も月もない境の空の中でファイは自分が光と同化するのを感じた。
大声を上げると近くを飛んでいた鳥がこちらを見た。
そのくちばしで自分を食べてくれないか、と願ったがファイは残念ながら甲虫ではなかった。
羽は重くて動かない。寒くて凍ってしまいそうだ。喉も枯れてしまった。
あの子のぬくもりがファイの最後の温度だった。
その温度だけを残してファイは光となった。
光となって、はじけて散って、さらさらと町に降り注いだ。
寝不足で目をこするあの子の小さな手のひらに、濡れた光が一粒落ちた。

END