空間的狼少年

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Even lost smile

新しい世界に降り立った直後、魔術師はどこか呆けたように遠くを見ていた。
声をかけても振り向かないから、最初は無視をされているのかと思った。
聞こえないふりでからかっているのだろうか、しかし彼がそんな嫌がらせじみた行動を取るはずがない。
少年が声をかけてもなお、ぼーっと景色を観察し続けるので、不審に思って魔術師の肩に手を置くと、彼は振り向き首をかしげた。
少年がどうしたんですかと尋ねると、彼は目を大きく開いて驚いた。
そして耳を何度かとんとんと叩いたあと、困った顔で笑って自分の耳を指差し、

「耳、ダメ」

と、舌がもつれたような声で言った。
魔術師の耳は聞こえなくなった。


大きな噴水のある広い公園の原っぱで会議を始めると、モコナが何かおかしな力があると言った。
ファイ同様にモコナも耳の調子が悪いらしく、膜が張られたように音が聞き取りづらいのだそうだ。
けれど小狼もサクラも黒鋼もどこにも異常はなく、いたって健康体のままなので、おそらく特殊な力を持つ者に働く力なのだろう。
モコナはおかしな力が羽根によるものなのかどうかはわからないと項垂れ、小狼が頭をなでて大丈夫だと言った。
しかしサクラにも多少なりとも不思議な力があるのに異常がないということは、何かしらの形でサクラの羽根が関係している可能性が高いということだ。
推論ではあるがその考えが一番有力だろうという結果となった。
その間、ファイは聞こえもしないのに誰かの口が開くのを見てはうなずいていた。
会議の末、ひとまず宿が必要だということになり公園を出て通りへ出た。
建物は屋根が丸っこいドーム状のものが多かった。
市場では野菜や果物、魚などを売る声がうるさく飛び交っているが、ファイだけは無音の世界の中にいるのだと思うと、黒鋼は少し嫌な気持ちになった。
いつもいつも自分だけは部外者みたいな顔をしているのが、今や本当に部外者になってしまっている。
それをファイは何でもないことのようにいつも通りの笑顔で受け入れて、むしろこれが正しい在り方だと満足しているようにさえ見える。
持ち物を換金して入った宿は4人一緒の大きめの部屋だった。
縦にベッドが2つずつ並び、化粧台は真新しく光を反射している。
それぞれ思い思いの行動を取っているなか、ファイだけはやはりぼんやりとどこか遠くを見ている。

「ファイさん、大丈夫でしょうか」

サクラが心配そうに両手をぎゅっと握った。

「早く羽根を見つけて移動しないと、もっとひどくなるかもしれない」

小狼も眉をひそめてこの国の地図をベッドに広げた。
そんな子供たちの気遣いを知らないファイは、こてんとベッドに転がるとそのまま目を閉じた。


翌日、だいたいこの辺だろうと目星をつけた場所へ行くことになった。
その近辺の人たちに話を聞いて、すぐに羽根が見つかるならいいのだが、そうでないならまだ深入りはしない。
ファイには言葉が通じない上に筆談もできないから、何も教えていない。
3人とモコナが部屋を出て行こうとするのを見て付いて来ようとしたのを、黒鋼が制して部屋の奥へと押し戻した。

「おまえは来るな」

すでに力の影響で耳を不自由にしているのに、力の原因かもしれない羽根の元へ近付けばどうなるかわからない。
しかしファイはその制止を断って笑いながら部屋を出ようとした。

「……ここにいてください」

けれどサクラがファイの手を引っぱって室内を指差したので、仕方なさそうに微笑んだ。
置いてけぼりのファイは皆が出て行くのを笑顔で見送っていたが、扉が閉まる瞬間、ひどく傷ついた顔をしていたのを黒鋼は知っていた。


モコナが羽根の力が強いと言ったのは、険しい山のふもとにある村だった。
ファイほどではないがモコナも力の影響を受けているので移動中はずっと黒鋼の肩で静かにしていた。
小狼たちが宿を取った町はそれなりに栄えていたのに、この村はずいぶん原始的な生活を営んでいた。
日に焼けた村人たちが物珍しそうに小狼たちを見ては嬉しそうに小声で何か話し合っている。
話を聞いてわかったのは、サクラの羽根がその村の呪術的な祭式の神器として保管されているということだった。
毎年、豊穣の祭りの際に用いられているのだという。
小狼がどうにかその羽根を返してもらうよう交渉したが、老齢の村長はなかなか首を縦に振ろうとしない。
木を組み立てて藁で屋根をした簡素な薄暗い家の中でしばらく小狼は村長と話を続けたが、この村にとって羽根は神から授かった大事な神器なのだと渋った。
しかし外で黒鋼と一緒に小狼を待っていたサクラがそっと入り口の布をめくって中をのぞいた瞬間、村長は顔色を変えた。
この羽根はあの娘のものなのか、と詰め寄る村長に戸惑いながら小狼がうなずくと、村長は涙を流しサクラの下にひざまずいた。
驚くサクラに村長は羽根はお返しいたしますと嗚咽を漏らして言った。
村長の両脇に控えていた側近も手首に巻いていた数珠のようなものを擦り合わせて涙を浮かべ、何か呪文めいた言葉を早口に唱え出した。
どうやらサクラはこの村の神と等しい存在と認められたらしい。
小狼たちの理解が追いつかないままに村長は羽根は必ずお返ししますから、3日待ってくださいと言った。
そして3日目にサクラを連れて来て欲しい、そこで神の一部であるこの羽根をサクラに返す祭りをしたい、と。
諍いなく羽根を渡してもらえるならそれに越したことはない。
小狼もサクラも了承し、その日の内に羽根の問題は片付いた。
そしてファイとモコナに不調をもたらした謎の力については、小狼が村長と話をしている間に黒鋼が通りかかった人たちから聞いていた。
この村は呪術的な力の強い場所で、それを抑えるための儀式が定期的に行われていた。
だが時折、魔力などの力を持った旅人が訪れると不調を訴えるということがあった。
持っている力が強ければ強いほど症状はひどくなる。
力が反発してしまうようで、この国にいる間はどうすることもできないが、国を出れさえすればすぐに治る。
サクラも力を持った人間だが、何ともないのはたぶん、羽根の加護を受けているためだ。
それを聞いて安心したものの、今日を入れればあと4日もこの国に滞在しなければならない。
小狼たちは急いで宿に戻った。
暗い部屋に入って電気を付けると、ファイはベッドにうつぶせに寝転がっていた。
声をかけても無駄なので、黒鋼がそばに座ってファイを揺り起こすと、ファイはゆっくりと寝返りを打った。

「調子はどうだ」

聞こえないとわかっていても声を出さずにはいられない。
小狼とサクラとモコナが見守る中、ファイは視線をさまよわせ、自分の目の前で両手を握ったり開いたりした。
そして手を伸ばし、黒鋼に当たると確認するようにぺたぺたと触れて回った。

「まさか、おまえ」

黒鋼がファイの背を支えて半身を起き上がらせた。
瞬きをしたファイは濁ったような目で辺りを見回し、あきらめたように首を振った。

「目も見えないのか」

黒鋼の後ろでサクラが息を呑んだ。
泣きそうになっているサクラを小狼が大丈夫ですとなだめる。

「国を出れば治るのなら、ファイさんだけでも外へ行ったほうがいいんじゃないでしょうか」

小狼が提案するが、モコナがそれを否定した。

「たぶん、ファイくらいの魔力だと、この世界のどこへ行っても同じだと思う。
変な力はあの村だけじゃなくて、あっちこっちからするから、もっとひどいことになるかも……」

暗い声でモコナはそう言った。

「モコちゃんは大丈夫?」

「うん、平気。ありがと、サクラ」

サクラに笑って見せたモコナだが、無理をしているのは目に見えている。
一刻も早くこの国を出た方がいいのは明白だが、3日間は絶対に滞在しなければならない。
モコナのそれとは全然違う、虚空を見つめへらへらとした笑みを浮かべているファイに黒鋼は苦い表情でため息をついた。

「どこ見て笑ってんだ」

この国の夜は息も乱れるほどに重苦しい。


次の日、小狼とサクラとモコナは少しでもファイの症状を良くするために、力について調べに出かけた。
朝は食堂からもらってきたパンとスープをサクラの手助けを受けて食べたが、それきりファイはベッドに伏せてしまった。
残った黒鋼は居心地の悪さを感じながら刀の手入れをしたり、売店で買った雑誌を眺めたりして過ごした。
ファイはぴくりとも動かない、
昼をすぎても小狼たちは帰って来なかった。
もともと昼は外で食べると言っていたので遅くなるかもしれないとは予想していたが、無言で伏せているだけの人間と二人きりというのは、思った以上に気まずいものだった。
それも、普段はうっとうしいくらい訳のわからないことを喋る人間と。
何も伝わらない。声も届かなければ視線も合わせられない。
黒鋼にはそれがまさにファイとの関係を表しているように思えて、あまりの皮肉さに声もなく笑った。
昼過ぎになってようやくファイが体を起こし、ぼんやりと虚ろにこちらを見た。
そこでもらってきたばかりの昼食のパンをちぎってファイの口元に持っていくと、おとなしく口に入れた。
けれど黒鋼の手に触れ、その手の大きさから自分に食事を与えているのが黒鋼だとわかると、もういいという風に手を押しのけた。
その態度に苛立ち、再びベッドに横になろうとするファイの胸倉をつかんで引き起こすと、ファイは口をぱくぱくさせて怯えた。
耳も目も不自由な人間には軽率だったかもしれない。
黒鋼はファイから手を離し、ベッドに寝かせ布団をかけてやった。
ファイに何も伝わらないのも、ファイから何も聞き出すことができないのも、そんなの、いつものことじゃないか。


夕方になって小狼たちが帰ってきた。
図書館や病院を回ってきたらしく、息をつく間もなく報告を始めた。

「この世界にはいたるところに不思議な力があるそうです。
あの村にあるのはその内の1つで、この国で生まれた人なら魔力を持っていても影響はありませんが、他国の人には影響を及ぼすようです。
この国の人もまた、別の場所に行くとその土地の力と反発してしまって、調子を悪くしてしまう。だからモコナの言うとおり、どこへ行っても同じみたいです」

うつむいて悔しそうに小狼がそう説明した。

「でも、ファイさんのような症状は他には記録がありませんでした。
症状はたいてい頭痛か吐き気か倦怠感で、感覚器官の不自由を訴えた人は今までにいないそうです」

「それは……」

黒鋼が言おうとするのを遮ってモコナが黒鋼の腕に飛びついた。

「ファイは大丈夫だよ! 次元移動したら、すぐに治るよ!」

自分に言い聞かせるようにモコナが叫んだ。
それを見たサクラが急いでファイのもとへ駆け寄った。

「ファイさん、大丈夫ですか? ご飯食べられますか?」

優しい動きでサクラがファイの肩に手をかけ、顔にかかる前髪を払う。
目を開けたファイは何かを探るような仕草で手をさまよわせている。
サクラに手が触れてもまだ手を止めようとしない。
黒鋼がファイを起こし、頬を軽く叩いてみるが何の反応もなく落ち着かない様子で体を震わせている。
最悪の予感が頭をよぎり、黒鋼はファイの手の甲に強く爪を立ててみた。
しかしファイは痛がるどころか、ぴたりと静止して絶望したように息を吐いた。
ファイは触覚を失っていた。


その次の日は小狼たちはもう出かけようとはしなかった。
代わりにファイを甲斐甲斐しく世話した。
と言ってもファイは起き上がることすらしないので、布団がずれたら肩までかけてあげたり、そばにいて手を握っていたり、うなされたら頭をなでてあげたり、そんなことしかできなかった。
黒鋼はもうそんな姿を見ていられなくて、その場を子供たちに任せ1人宿を出た。
とても賑わっていて、活気のある国だ。
でも、楽しそうにしていてもそれぞれ悩みや苦しみがあるのには違いないだろう。
けれどあの部屋で、助けを求めることもできず孤独に苦しむ男がいるのに、どうしてこんなにこの国は幸せに満ちているのだろう。
胸の中を這いずり回る嫉妬と嫌悪に黒鋼は打ちのめされた。


そして3日目。
朝早くから小狼とサクラとモコナは例の村へと出かけて行った。
当然、黒鋼も向かおうとしたのだが、サクラにファイのそばに付いていて欲しいと懇願され残ることになった。
小狼にはくれぐれも注意するよう言い渡し、モコナにはサポートを頼んだ。
ファイは一昨日の晩から何も食べていない。
食べ物を感じることができないので、食べることができない。
昨日、水だけでもと口を開けさせ喉に水を流し込んだのだが、突然水を飲まされたことでむせてしまい、結局水を飲ませることもかなわなかった。
いつ小狼たちが帰ってくるかわからないが、帰って来たらすぐに移動をした方がいい。
村への往復と祭りへの参加で疲れているかもしれないが一刻を争う事態だ。
抜け殻のようにベッドに沈むファイを見やり、黒鋼はぐっと拳を握る。
いけないとわかっているのに手はファイへと伸びる。

「起きろ」

光をなくして暗く澱んでしまった瞳は何も映していない。

「おい、こっちを見ろ」

もう笑うことさえしなくなったファイはまるで死体のようで、思わず黒鋼は身震いした。
逃げようのない暗闇の中、無音の状態で、誰をも認識することのできないファイは何を考えているのだろう。
思考すら奪われてしまっただろうか。
そう思ったとき、ファイの口が何か訴えるように動いた。
とっさに耳を近づけて聞き取ろうとするが、吐息がもれるだけで声は聞こえない。
だけど、黒鋼にはファイが何を言いたいのかわかってしまった。
その瞬間に黒鋼はファイの背に手を回し、力を込めて起き上がらせ自分の方へともたれかからせていた。
そうされたことにも気づかないファイは声にならない意思で更なる罰を求めている。
早く帰って来い、と、そう願ったのは小狼たちに対してなのかファイに対してなのか。
これ以上は危ない、早く、早く。
たったひとり、価値も喜びも見出せない暗闇に呑まれ、許しを見つけた彼がその先に足を向けてしまう前に、はやく。


小狼たちが帰ってきたのは夜もすっかり更けた頃だった。
2人ともひどく疲弊しているようだったので、すぐに移動をと急かす2人を寝かしつけて朝を待った。
眠れないと言ってモコナはファイの側を離れようとしなかったが、やがて穏やかな寝息が聞こえ出した。
翌朝、すぐに準備を整えて宿を出た。
動けないファイを黒鋼が抱いて外に出ると新鮮な空気に包まれ、まるで不謹慎な振る舞いをしているかのような罪悪感にとらわれた。
ファイは時折意味もなく手や足を動かしたが、ずっと目を閉じたままだった。
死体のように見えたこの体も触れれば温かく鼓動も感じられる。
次の世界に行けばファイは再びいつもの笑顔を取り戻すだろう。
この抗いようのない強大な災難をなかったことにして、あるいは悲観するようなことではないと笑い飛ばして、受け入れてしまうのだろう。
しかしいくら本人が事実を認めようとしなくても、周りの人間たちは彼の不幸を大いに悲しんだのだ。
許してはいけない、と黒鋼は強く思った。
ファイが自分の身に降りかかる危難を仕方がないと言って受け入れてしまうことを、絶対に許してはいけない。
そうでなければいつか、想像もできないくらいの悲劇が自分たちを襲うことになるだろう。
しかし、許さないと言って、どうすればいいのかなんて、黒鋼にわかるはずもない。
魔方陣に吸い込まれ次の世界に立つまでに黒鋼ができる事と言えば、人ひとりに自分の願いを受け入れてもらうこともできない無力さを呪うことだけだった。

END

笑顔さえも失えば、もう何もない