空間的狼少年

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でこぼこしたところ

※ファイが薬やってます


黒鋼がファイと出会ったのは、高校の新入生歓迎会の日だった。
きれいな桜に彩られた校庭でコーラス部や吹奏楽部が新入生を派手な音楽で楽しませ、ダンス部がスマートな踊りを披露し、茶道部がしめやかにお茶を出して興奮を鎮めた。
ファイは3年の生徒会長で、歓迎会の司会者として場を盛り上げた。
珍しい金髪が新入生の目を引き、早くも一年生を魅了していた。
黒鋼はうるさい場を嫌っていたためその日の記憶は曖昧だが、あんな男と関わることになるなんて、微塵も予想していなかったと思う。
今夜はやけに冷える。雨も降りそうだ。
窓の結露をふき取って熱い緑茶を飲む。
体が温まってきたところで、インターホンが鳴った。
玄関を開けると同時になだれ込んできたファイは、回らない舌で子供のように、会いたかったと言った。

「ご飯もう食べた? オレはね、かぼちゃのパイ食べたよ」

抱きついて離れないファイは上機嫌で黒鋼に擦り寄ってきた。
黒鋼は大学4年生になり、ファイは社会人になっていた。
高校時代からなぜかよくファイにちょっかいをかけられるようになり、今でも黒鋼のところへ理由もなくやってくる。

「ちょっと離れろ。鍵閉められねぇだろ」

ファイを押しのけて鍵とチェーンをかける。
追い出す気にならないのは、ファイの状態の異常性に気付いているから。
いつの間にかこの男を許容するどころか身を案じるようにまでなってしまったことには、ため息しか出ない。
今日の予定はもうテレビを見て寝るだけだったのに。

「ね、ね、くろたん。えっちしよ、ね?」

「しねぇよ」

「なんでー? しよー?」

「おまえ、ラリってんだろ」

「えー、でもちょっとだけだよぉー」

ファイの手が少し震えている。
目線もまっすぐにならないし、何がちょっとだけ、だ。

「ねー、ベッド行こー?」

「行かねぇ。落ち着いてからにしろ」

「今じゃなきゃだめー!」

強引に黒鋼を押して廊下を進もうとするが、ただでさえ体格のいい黒鋼を、薬を打った状態でのファイには一歩も動かすことなどできない。
ふらふらしながら床に崩れ落ちていくファイを支え、なだめる。
ちょっとしか打たないって言ったのに、とファイは息を乱した。

「もう嫌だよ……みんな、オレのこと都合のいい機械だって思ってるんだ」

ファイと初めて肉体関係を持ったのは、黒鋼が大学に入ったばかりの頃だった。
一人暮らしを始めた黒鋼に、ファイは入学祝として日本酒を持ってきた。
ふたりで飲んで、それで終わりのはずだったのに、どうしたことか、お互い全裸で同じ布団にくるまって朝を迎えるなんて。

「上司は無理なことばかり言うし、同僚とは話す暇もない。オレをおだてるばかりで、休憩もさせてくれない」

一番驚いたのが、ファイと関係を持ったことに何の嫌悪感も抱かなかったことだった。
それどころか、ようやくか、という言葉さえ浮かんだ。
そのとき自覚した感情はまだ心の奥にしまってある。

「誰もオレをオレとして見てくれないんだ、だからこんなに死にそうになってたって、残業押し付けてくるんだ」

それ以上の関係にはまだなっていない。
たまにファイがやって来れば夜通し抱き合って、朝が来れば彼は始発の電車で帰っていく。
引き止める言葉も理由もなく、細く頼りない後姿を見送った。
いつも、今すぐ台風が来れば電車が止まるのに、と考えていた。

「あれもこれも、全部オレがやって当然だって、みんな思ってるんだ。
感謝されたいなんていうんじゃないんだ、でも、もう嫌だよぉ……」

ファイがある出版社への内定が決まったと聞かされた日、はじめてキスをした。
それまで何度も交わっていたくせにそんな初歩的な段階は積んでいなかったのだ。
就職祝に腕時計を買ってやったらファイは泣いて喜んだ。
嬉しい、と。何度も嬉しいと言って涙をこぼした。
あのときに全部、思いを吐き出してしまいたかったが、この純粋な喜びを汚いやり方で利用したくはなかった。
けれど今ではあのとき言ってしまえば良かったのだと後悔している。

「父さんが、帰って来いってうるさいんだ。帰りたくないって言ってるのに、毎日何回も電話してくるんだ。
あんな家に帰るくらいなら……死んだ方がましなのに……」

体温の低いファイを暖めるようにして腕の中に抱き込む。
たかがプレゼントごときでは泣いて喜ぶのに、こんなときには涙の一滴もこぼさない。

「そうなんだ、死んだ方がましなんだ……父さんはそのうちこっちに来て、オレを捕まえて、檻にでも入れて連れて帰るんだ……
そうしたら……もう……だったらそうなる前に……死んだ方が……いいんだ……」

床に向かって呟くファイの顔を無理やり上げさせた。
引きつった表情で、濁った目をしている。

「薬、ね、これ、また来たらいくらでも打ってあげるって言われたんだ……
ファイの体はすごく良いからお金はいらないよって……やっぱりもう一回打ってもらおうかな……
体調不良なら会社休んでも仕方ないよね……父さんの電話に出られなくても仕方ないよね……」

立ち上がろうとしたファイの肩をつかんで座らせた。
もう相手にされないと思っていたらしいファイは首をかしげる。

「……会社は辞めろ。電話は買い換えて番号も変えろ。薬は打つな。あと引っ越せ」

しっかり目を見て強く告げた。
ファイは瞬きを繰り返して無理だ、と言った。

「無理じゃねぇ。今すぐ辞表書け。携帯は明日変えに行く」

「お引越しは?」

「卒業したら新しく家借りるつもりでいる。あと2ヶ月待て。そしたらおまえも来い」

「同棲……ってこと?」

信じられないという顔でファイが黒鋼を見つめる。
しかし黒鋼は真剣だ。
ここでも何か順序を間違えた気がするが、終わりが良ければいいのだから問題ない。

「つってもおまえを養うつもりはねぇからな。しばらくしたら新しい仕事探せよ」

「あの……話がちょっとよくまだ理解できてないんだけど……」

「貯金あんだろ? ちょっとくらいなら家賃高くても大丈夫か?」

「あ、うん、貯金はいっぱいあるけど」

なら良し、とうなずいた黒鋼にファイは呆れたように笑った。

「熱帯魚飼いたい」

「世話は自分でしろよ」

長いため息をついてファイは黒鋼に体をあずけた。
今夜は冷える。
熱い緑茶をファイに飲ませて、暖かくしてゆっくり寝かせてやろう。

END