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誰も寝てはならぬ ひとまずホテルに帰った黒鋼はベッドに腰掛け考え込んだ。 あの青年は制限時間は夜明けまで、と言った。 それまでに黒鋼が先ほどの場所に来なければ、自分はこの世界から出て行く、と。 それがこの国を出るという意味なのか、死ぬという意味なのか黒鋼にはわからなかったが、そうなってしまえば二度と取り返しがつかないことになるだろうことは 胸がきしんで痛むほどに理解できていた。 時刻は午後11時。 普段なら夜明けまでたっぷり時間があると思えただろうが、今は焦りだけが心を支配していた。 手がかりが何もないのだ。あの青年はヒントも何もよこさなかった。 見覚えのある顔、聞き覚えのある声、つかんだ腕の感触、全てが懐かしく感じるのに、黒鋼が今まで生きた人生の中にそんな光景はひとつもない。 青年の言葉を思い返すと、どうやら自分たちは実際には会った事がないような素振りだった。 まるで前世で知り合っていたかのような言い回しに、黒鋼は低くうめいた。 そんな非科学的な現象を信じられるほど黒鋼は純粋ではないし、けれど言葉にできない懐かしさは解明できるような類のものではない。 俺は彼の名前を知っているのか、と自分に問えば、知っているはずだ、と返ってくる。 だけど思い出せない。 適当に外国人の名前を挙げてみても、どれもしっくりこない。 もやもやとした不快感に頭をかきむしると、隣のベッドで布の擦れる音がした。 「……黒鋼さん、どうしたんですか?」 小狼が眠そうな目をこすり、もそもそと起き上がった。 「起こしたか、悪いな」 「いえ。あの、何かあったんですか?」 小狼は昔から洞察力に長けた子どもだった。 眠いところに申し訳ないと思うが、黒鋼は藁にもすがる思いで小狼に先ほどの話をした。 「金髪の男の人、ですか?」 「そうだ。俺より少し背が低い、蒼い目の男だ」 眉をひそめて小狼はじっと考える。 しばらくして薄い掛け布団をぎゅっと握り目を閉じて睫毛を震わせた。 「……知ってる、ような、気がします」 立ち上がった黒鋼がどうして知っていると問う前に小狼はあえぐような息遣いで頭を抱えた。 「おれは、その人にすごくひどいことを、した……だけどそれがどんなことだったか、思い出せない……」 その様子があまりにも苦しそうだったのでそれ以上問い詰めることができず、小狼を寝かせ布団をかけてやった。 どうして小狼はたったこれだけの少ない情報でひとりの青年を思い描くことができたのだろうか。 おそらく小狼は黒鋼が会った懐かしいあの青年と同じ人物を想像している。 それならば、もしかしたら小狼と幼馴染であるさくらと知世も知っているのではないだろうか。 やはり申し訳ないと思いながらも黒鋼は隣の部屋の前に立ち、ためらいがちにノックすると、中から返事が聞こえたのでまだ彼女らが眠っていなかったことに安心した。 どうしましたか、とそっとドアを開けたのはベージュのパジャマを着た知世で、さくらも起きているからと中へ通された。 少女らの部屋に大人の男である自分が入っていいものかと一瞬迷ったが、どうせ彼女らは自分のことなど保護者以上のものに考えるはずがないので堂々と中へ入った。 ベッドの上には薄い桃色のパジャマ姿のさくらと、散乱したトランプがあった。 「目が覚めちゃって、トランプしてたんです」 はにかむさくらの隣に知世が座り、もう一度どうしましたかと問われた。 先ほど小狼にしたのと同様の説明をすると、黙って聞いていたさくらが突然あっと声を上げた。 「えっと、その人って、とっても優しい人じゃないですか?」 「そうだな、少し話しただけたったが、確かにそんな感じだった」 「あの、上手く伝えられないんですけど、わたしもその人のことを知っています。 でも本当に知ってるのはわたしじゃなくて、ううん、よく分からないんですけど、でも、その人は……」 小狼と同じような反応に黒鋼は驚きを隠せなかった。 また知っているのは自分ではない、という感覚は黒鋼にも当てはまることだった。 ううん、と悩むさくらを不思議そうに見ていた知世もうつむき両手を落ち着かない様子でこすり合わせた。 「私も知っているような気がします。たぶん、さくらちゃんと同じ人を想像していると思いますわ。とても聡明で、だけど弱くて、それから……」 言いよどんだ知世が視線をさまよわせ、そして黒鋼を見て微笑んだ。 「それから黒鋼、あなたの大切な人」 まっすぐに見つめられ黒鋼は胸の奥がざわめくのを感じた。 その奥にはおぞましく、血に塗れながらもやわらかな光に包まれた記憶がある。 知世も鮮明なイメージを思い描くことはできず、またどうしてこのような同一の人物を想像できるのかも分からないと言って謝った。 思い出したいのに思い出せないと言ってベッドの上を転がり、どうにか思い出そうとするさくらを制して黒鋼は知世に後を任せ部屋を出た。 青年の名前を知るための情報は得られなかったが、これはただ事ではないと黒鋼は急いで街へ出た。 すでに3人もの人間が金髪碧眼の男という情報だけで同じ人物を想像していて、その上誰もが明確にはそれが誰だかわからないと言う。 いったいあの青年は誰なのか。 しかし黒鋼には周りを歩いている見ず知らずの人間に尋ねても意味が無いことを知っていた。 小狼とさくらと知世であったからこそあのような現象が起きたわけで、例えばあの青年が世界に名を馳せる有名人である、などという理由ではないことを確信していた。 だから手がかりはこれ以上見つけようがなく、黒鋼は途方にくれた。 街を歩いてみてもそれらしい情報は見つからず、西洋風の名前を羅列してもやはりどれも口に馴染まない。 夜も更けてなまぬるい風に吹かれ楽しげに、あるいは忙しなく行き交う人々の波の中で黒鋼はふと重要な点を見落としていることに気がついた。 あの青年が最初に言っていたことだ。 音楽に興味はあるか、テレビやポスターで自分を見たことがあるか、と。 かと言ってあの青年が有名な音楽家だから見覚えがあったというわけではない。 それならばもっと早くにそのキーワードに反応していたはずだ。 だが黒鋼は音楽には滅法興味が無く、最近聞いた音楽といえばテレビや店の中で聞こえるものくらいだ。 そもそもあの青年が歌手であるのか演奏家であるのか、はたまた指揮者であるのかも検討がつかない。 それでも何もヒントが無いよりはましだと思い、黒鋼は大きな駅の中のCDショップへ飛び込んだ。 そろそろ駅も閉まってしまう時間なので急いで並べられたCDを見て回るがどこにもあの青年の姿は見えない。 全てのジャンルのコーナーを回ったが正解はなく肩を落として黒鋼は駅を出た。 どうすれば見つかるのか、どうすれば思い出せるのか。 焦る心のまま街を歩き続けいつしか月はてっぺんを超えて、地平線に近づいていた。 このままではあの青年に二度と会うことはできなくなってしまう。 黒鋼にはどうしてこんなにもあの青年を求めているのか、そしてどうして二度と会えなくなることをこんなにも心苦しく思うのか分からなかったが、諦めて帰ることはできなかった。 あの青年にからかわれている可能性も全く無いわけではないだろう。 しかし小狼の、さくらの、知世の反応までもが演技であるとは思えないし、何より疑いようの無い自分の意志があの青年を捕まえろと切実に訴えている。 白んできた空を見て痛いほどにこぶしを握り、以前にもこんなことがなかったかだろうかと波打つ記憶に急かされまた歩き出そうとすると、ふっと壁に貼られたポスターが目に入った。 あぁ、見つけた。 近づいてよく見るとそのポスターは雨風にさらされ汚らしく破れている。 しかしそこにある写っているのは紛れも無くあの青年で、そこには「Jazz Pianist : Fay・D・Frourite」と書かれていた。 演奏会の宣伝ポスターらしく公演の日は一年前になっているから、剥がし忘れたものなのだろう。 そこには簡単に青年の経歴が書かれているが中国語のため読むことはできなかった。 偶然か必然か、ポスターの字を指でなぞると、黒鋼は静かにその場を離れた。 最初にあの青年に会った店へ行くと、そこには誰もいなかった。 まさか時間を越してしまったかと周りを見回していると軽い声がした。 「やぁ、ほんとに来たんだね」 振り返るとどこかからコピーしてきたような笑顔を貼り付けたあの青年が立っていた。 店が閉まってしまったので少し離れたところにいたのだと言う。 あのポスターの写真よりは今の方が幾分か髪が長い。 「どう? オレの名前わかった?」 「あぁ」 「ほんとー!? すごいね、じゃあ、答え合わせの前にちょっとだけオレの話聞いてくれる?」 話すには少し遠いように感じる距離を保って青年は話し出した。 「さっきも言ったことだけど、君はオレを生かした彼じゃない。だから君がオレを気にかける必要も無い。君はもう自分のためだけに生きればいいんだ。 君が過去に縛られて同じ時間を過ごそうとするなら、それはもう無間地獄だ。オレはできれば君に見つけられたくなかった。君を求める権利なんて、オレにはないから。 でも君は以前のようにオレを捕らえようとしている。今だって夜通しオレの名前を探し続けていたんでしょ? そういうところは変わらないんだね。 でもそれは君が彼と同一であることにはならない」 黒鋼にはもう青年の話をまともに聞く気などなかった。 どれほどのことを言われようと黒鋼には理解できないし、理解できたとしても今の感情が存在する事実が消えるはずがない。 「それじゃあ、聞かせてもらおうか。オレの名前を言ってみて?」 青年は泣きそうな声で顔を上げた。 一歩近づくと青年は苦笑いで小さく首を振った。 「おまえの名前は」 青年の体が強張り、片手の二本の指で何かを描くようなしぐさをした。 「ユゥイだ」 ぴたりと青年の動きが止まったかと思うと、ぶるぶると体を震わせ蒼い瞳から涙をこぼした。 「どうして……?」 さっき見た嘘くさい笑顔が嘘のように青年は顔をゆがめて嗚咽をこぼした。 そっと頬をなでると、青年はすがりつくようにその手に自分の手を重ねた。 止まらない涙に黒鋼が子どもをあやすように背中をなでてやると、途切れながらも青年はどうして、というようなことを呟き続けた。 「その名前、君が死んでから、誰にも言ってない、のに。どうして、君が知ってるの、おかしいよ、 どうして、ねぇ、どうして」 「こっちが聞きてぇよ」 ポスターの名前を見たとき黒鋼はこれが青年の名前だと喜んだが、口に出してみると何かが違う気がした。 その違和感は払拭されず、この名前を言ってしまえば正解にも関わらず青年は自分の前を去ってしまう未来が見えた。 それでは本当の名前は何だと考えるより早く、黒鋼はポスターの青年に向かってユゥイと呼びかけていた。 それは自分の名前よりも馴染んだ名前のようで黒鋼はこれこそが正解だと歓喜に打ち震えたのだった。 「正解だろ?」 「正解だよ……もうほんと、嫌になるくらい君はオレを裏切ってくれるね」 零れ落ちる涙を裾で拭い、青年は鼻を赤くして笑った。 その笑顔を見て黒鋼はようやく安心することができた。 「もし君がオレをファイと呼んだら、次元を移動するつもりだったんだ。もちろん全く違う名前を呼んでもそうしてたけど。もう君に迷惑をかけたくないからね。 それなのにさぁ……あぁもう、言葉も出ないよ」 肩に額を置いてため息をつく青年の声は、今はもう楽しげなものに変わっていた。 「オレが君を見つけるつもりだったんだ。だから色んな国を探してた。オレがこんなにいろんな言語を喋れるのも君のおかげだよ。君を見つけて、一目見たら死のうと思ってた。 ずいぶん長いこと生きたし、戦争にも行ったのに生き残っちゃったし。それなのに、あんなに探したのに、君はこんなに簡単にオレを見つけるんだから、ずるいよ」 死のうと思っていたという言葉に黒鋼はびくりと緊張を走らせた。 それに気付いたのか、青年はこうなったら死ぬまで生きるよと笑って、君は約束守ってくれないし、と恨めしそうな顔をされたが黒鋼に身に覚えはなかった。 いつの間にか夜は明け、薄く伸びた白い光が空に広がっている。 新しい空気をいっぱいに吸えば、体が全て入れ替えられるように感じた。 すっと青年が体を離して1歩下がった。 「じゃ、今度はオレが君を言い当てる番ね」 そしてまた2、3歩下がり距離を取ると、青年は満足そうに笑った。 「君は、君はね」 軽やかなステップで青年が飛ぶように抱きついてきたのを受け止めると、目の前には涙で濡れた懐かしい蒼い瞳があった。 「君はオレの『愛』だよ、黒様」 END
というわけで舞台も北京となりました