Main
雨上がりのダンス
これをお返ししたくて、と女生徒から渡されたのは、全く別の人間に貸したはずのタオルだった。
放課後の職員室はざわざわとやかましく教師と生徒の声が入り混じっている。
黒鋼のもとを訪れた生徒、サクラの声は決して大きな声ではないのに、うるさい雑音に紛れることなくはっきりと響く。
彼女はいまどき珍しい、意志のはっきりした子どもだ。
「ファイ先生からお借りしてたんです。このあいだ雨が降ったとき、わたしが濡れてしまったから」
このあいだ、というのはおそらく黒鋼が部活の試合の引率で学校を離れた日のことだろう。
最近で雨が降ったのはあの日だけだったはずだから。
「そうか、わざわざ悪いな。もう雨には濡れるなよ」
タオルを受け取りデスクにまっすぐ座り直して仕事を再開しようとしたが、用件が終わったはずのサクラはまだ黒鋼のそばに立っている。
狭い通路なので誰か人がいて通れずにここにいるのかと思ったが、通路にはサクラしかいない。
「まだ何か用事があるのか?」
尋ねるとサクラは言いにくそうに目線を下げた。
サクラはまじめな生徒だ。彼女の繊細な思考を考慮しないで軽はずみな発言はできない。
どう問えばいいものか、と黒鋼が悩んでいるとサクラが内緒話をするような小さな声で言った。
「あの、ごめんなさい。それ、本当は本人から返して欲しかったですよね。」
何のことだ、と黒鋼が問い返す前にサクラは一礼して駆け足で職員室から出て行った。
残された黒鋼はサクラの言葉を頭の中でリピートするが、本当に何のことなのか分からず呆然と彼女が置いていったタオルを眺めた。
本人というのは、黒鋼が最初にタオルを貸したファイのことを指しているのだろう。
黒鋼がファイにタオルを貸したのは、ファイがサクラにタオルを貸したのより2,3日前のことだった。
放課後、黒鋼が部活の指導に行こうと階段を下りて職員の靴箱の方へ曲がったとき、間の抜けた声が聞こえたと思うと同時に何か固いものにぶつかった。
そのあとに、びしゃ、と水がこぼれる音が続いた。
「あー、やっちゃったー。ごめんね、大丈夫?」
黒鋼とぶつかったのは化学教師のファイで、頭からぽたぽたと水を滴らせ、体には緑の植物をいくつもくっつけていた。
へにゃりと笑ったファイの手には底の浅い、大き目の丸い容器があり、その中に水と植物が入っていた。
正確に言えば黒鋼がぶつかったのはファイ自身ではなくこの透明の容器で、ファイはその拍子に容器の中の水と植物のほとんどを全身にかぶっていた。
「……悪い、授業で使うものだったか?」
はっとして黒鋼が問うと、違うよとファイは首を横に振った。
「準備室で育ててた水生植物なんだけど、枯らしちゃったから、捨てようと思って」
枯れた、とは言わずに、枯らしたと言うファイの人間性が、黒鋼はあまり好きではなかった。
ファイは意識的にそういうものの言い方をしている。
ファイの体に付着した植物を取ってやりながら黒鋼はもう一度謝ったが、ファイは悪いのは前を見ていなかった自分だから、と黒鋼の手を退けて水道へ向かおうとした。
そう言われても、自分とぶつかったせいでこんなに濡れてしまった人間を何もなかったかのように放って行くわけにもいかず、黒鋼は肩にかけていたタオルをファイに押し付けた。
「大丈夫だよ、すぐ乾くから。黒様先生も濡れてるし、自分で使いなよ」
「いいから拭いとけ」
容器を持っているため両手がふさがったファイの顔と頭を強引に拭いて、痛い痛いと抗議を上げるファイの首にタオルをかけ、黒鋼はファイの白衣を脱がそうと手をかけた。
すると慌ててファイは身を引き、さっきよりも強く大丈夫だから、と言った。
「クリーニング、出しといてやる」
「いいよ、そんなの! どうせ色んな薬品で汚れてるし!」
黒鋼が近づいた分だけファイは後ろに下がる。
逃げるような態度が気に入らなくて、黒鋼が大きく一歩を踏み出すと、踵を返してファイは本当に逃げていってしまった。
容器を抱えてぱたぱたと廊下を走って、水道のある中庭の方へと消えていった。
点々と床に落ちた水滴を靴で伸ばしながら黒鋼は不機嫌な顔で舌打ちした。
逃げるようなことでもなかったはずだ。
ぶつかったのは、確かにお互いの前方不注意が原因だ。
しかし大きな被害を受けたのはファイの方であるし、クリーニングに出すという申し出を断るにしても、そんなに必死で遠慮するようなことでもないだろう。
ファイは温厚で世渡り上手で、どんな問題も容易に解決できる口と頭を持っている。
それなのにあんなに慌てて逃げ出したのは、ファイが自分が関わって起きたよくない出来事は全て自分に責任があると思っているからだ。
ファイを追ったとしても、先ほどのやり取りを繰り返すだけだろうし、黒鋼は居心地の悪い気分のまま部活へ向かった。
逃げるという卑怯な方法をファイが取ったことよりも、ぶつかった瞬間に、黒鋼に水がかからないようにファイが容器を自分の方へ傾けていたことが、何より気に入らないことだった。
次の日に黒鋼がファイに服は大丈夫かと尋ねると、同じ白衣はいくつも持ってるから気にしないでと笑顔で言われた。
そのままファイは授業へ行ったので、この話はそれきりとなった。
別に本人に返して欲しかったなんて黒鋼は思っていない。
そもそもタオルだって買ったばかりではあるがどうせセールで買った安物だし、返ってこなくてもかまわない代物だ。
それなのにサクラはなぜ、あんなことを言ったのだろう。
「あ、黒たん先生、それサクラちゃんから返してもらったのー?」
考え込んでいると、例の本人であるファイが職員室に入ってきた。
「ごめんねー、勝手に貸しちゃって。サクラちゃん、雨で濡れてたんだー」
「いや、別に構わねぇが」
本人から直接返されなかったことが、何だというのだろう。
貸したものが返ってくればそれでいいのではないか。
黒鋼は訝しげな面持ちのまま立ち上がり、置きっぱなしだった飲みかけのコーヒーを一気に飲み干した。
明日の授業で配布するプリントをコピーするために印刷機の前に立ち、理事長と談笑しているファイを見やる。
サクラの言葉が頭から離れず、印刷ボタンを押してため息をつくと窓の外に視線を移した。
今日はこのあと職員会議があるため部活は全て休みだ。
帰り支度を整えた生徒たちが楽しげにこれからの予定を話し合っている。
そのなかにはサクラと小狼の姿もあった。
彼らが付き合っていることはもうこの学園で知らない者はいなかった。
恋愛は禁止されていないので好きなようにすればいいと黒鋼は思うが、彼らが面倒な人間関係には発展しないで欲しいと願っていた。
ふたりとも、黒鋼が今まで見たことがないほど誠実で優しい生徒で、見守りたくなるのも仕方のないことだ。
仲良くふたりで笑い合っている様子を見て、黒鋼は自分は彼らと同じ年の頃、恋をしていただろうかと思った。
思い出されたのは、長身で髪の短い少女だった。
黒鋼が高校生のときの剣道部の先輩で、部活動は男女別に行われていたが、同じ部活だから顔を合わせることになるのは当然だった
彼女は読書家で、古典から現代文学まで何でも読んでいた。
練習が始まる前や終わったあと、どうしてだったかは忘れたが、彼女と話をすることがよくあった。
全く読書をしない黒鋼には彼女の口から出るカフカや井伏鱒二の名に聞き覚えはなかった。
それでも黒鋼は嬉しそうに話をする彼女の表情が好きだった。
練習中の引き締まった顔よりも、試合に勝ったときの喜んだ顔よりも、黒鋼は自分に語りかけてくる少女の笑顔が見たかった。
周りにこんな話を聞いてくれる人がいないの、と彼女は言っていた。
彼女の友人はみんな文学には興味がないらしく、活躍中の俳優の話とか、かわいい服の話とか、テストの結果とか、そんな女子高生らしい話しかできないのだと不満をこぼしていた。
自分だけが特別なのだと舞い上がった黒鋼は彼女と同じ話がしたいと思い、彼女に本を貸して欲しいと頼んだ。
彼女は喜んで貸してくれたが、それらは黒鋼にとってあまりにも難解な文章で、彼女が語るような感想を抱くことはできなかった。
それでも黒鋼は何度も彼女に本を借りた。
単語の意味がわからなくて辞書を引いて、寝不足になるのも気にしないで夜更かしして、彼女と繋がることのできる同じ話題のために本を読んだ。
十代半ばの少年には、そのきっかけが無ければ彼女とは挨拶しかできなかったのだ。
だけどそのきっかけさえあれば部活動が休みのテスト期間中も、彼女が引退した後も堂々と本の貸し借りのために彼女と会うことができた。
しかし彼女は黒鋼の想いを知ることなく卒業し、遠い県の大学へ進学した。
大学に受かったと報告してくれたときの笑顔は今でもよく覚えている。
そういうことなのだろうか、と黒鋼は印刷されたばかりの温かい紙の束を整えて考えた。
サクラはあのときの些細なきっかけを何よりも大事にしていた自分と同じようなことを思って、あんなことを言ったのだろうか。
だとすれば、そうだとすれば自分はサクラの言葉を否定するべきだった。
言葉の表面すら理解できないままに、無いものをあると言う狂言を否定するように。
気遣いは尊重しつつサクラの誤った見解だけを、と考えて、黒鋼は給湯室から紅茶を入れて出てきたファイを見て、そうではないだろうと苦い思いでかぶりを振った。
本当に否定すべきなのは、真実を否定する自分のプライドと、真実を肯定する感情を排除しようとする自らの羞恥だ。
自分のデスクに戻ってサクラに返されたタオルを片付けようと握ると、そのやわらかさに驚いた。
黒鋼が貸す前はもっとやる気のなさそうに萎れていたのに。
「黒たん先生どしたのー?」
紅茶を片手にファイが自分の席へ戻るついでに黒鋼の隣へやって来た。
「何でもねぇよ」
「もしかして、女子生徒の使用済みタオルの感触を堪能してるとかー?」
「殴るぞ!」
怒鳴ってファイを追い返して、乱雑にタオルをかばんにしまいこんだ。
きっとファイもサクラも借り物のタオルを大事に扱っていたのだろうが、黒鋼にとってはただの布切れでしかない。
たった布切れ一枚で思い悩むことなどあり得ないのだ。
サクラの言葉の中で最も否定すべきであったのは、サクラの謝罪だ。
黒鋼はもう若さだけが取り柄の少年ではなく、介在するものがなくたって、いくらでも誰とでも関係を持つことができる。
サクラが謝るようなことは何もなかったのだ。
ただ、その関係の取り方はいつまでたっても不器用なものであるが。
そして最大の問題は、サクラがなぜあのようなことを言ったのかということだ。
黒鋼とファイに関して、仲がいいですねと言う生徒や教師はいくらでもいたが、サクラは黒鋼とファイの関係がただのふざけ合っている仲だとは思っていないようだった。
サクラは自分と小狼の関係を当てはめたのだろうか、と黒鋼は思った。
黒鋼とファイの関係はあんなに純粋でまっすぐな、あたたかな恋とは、全く別物であるのに。
開け放たれた窓から入る湿った空気をいっぱいに吸い込み黒鋼は考える。
自分は今、恋をしているのだろうか。
END