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あしたのやくそく
※日本国永住
静かな朝だった。
遠くの音がよく聞こえた。
向かいの山の、滝の音。小鳥のさえずり。狸が地面を蹴る衝撃。
海の向こうの雨音も、世界の裏側の猫のあくびだって聞こえていた。
まるで全ての終わりのようだと思った。
いつか訪れた国で映画というものを観たときと同じ感覚だった。
あれは最後になると人の声がなくなり、音楽だけが流れ、そして次第に静かになっていく。
庭の柿の葉の落ちる音。布の擦れる音。人が歩く音。
静寂とは音がしないということだけではないと知った。
「黒様が死ぬ夢を見たよ」
その日、開口一番、ファイは黒鋼にそう言った。
なかなか起きてこないので部屋に入ると布団をたたんでいるところだった。
「縁起でもねぇな」
部屋の空気は生ぬるく、黒鋼の言葉は意図せず丸まった。
最近、ファイはよく眠る。
少し前までのファイの活動時間は非常に長く、黒鋼と朝まで飲み明かすことだって珍しくなかった。
朝早くから外へ出て散歩をして、朝食を食べてから仕事として与えられた薬の調合をしに城へ赴き、遅くまで帰らないこともたびたびあった。
それが今では黒鋼が起こすまで昏々と眠り続けている。
「黒様がね、寿命で死んじゃう夢だったよ」
「寿命なら、しかたねぇな」
「ね。しかたないよね」
昨晩から雨が降りそうだったが、もういつ降ってきてもおかしくないだろう。
真っ黒な雲で空が埋め尽くされている。
「でもね、この夢、間違ってる」
布団を押入れにしまいこむと、ファイは黒鋼の正面に立った。
ここに来たときよりもずっと痩せてしまっている。
もともと痩せ型ではあったが、こんなに不健康的ではなかった。
何か精のつくものを食べさせてやらねばならない。
「オレが先みたい」
最近は顔色も悪い。
心配してやってるのにファイは大丈夫と笑って忠告を聞き入れず全く休みを取らなかった。
無理にでも休暇をとらせるべきだったと後悔した。
そんな会話をしたその日からファイの体調は一気に悪化した。
黒鋼と一緒に白鷺城へ行く途中でファイは膝から崩れ落ちた。
力が入らない、と力なく笑う軽い体を背負って城へ走り、知世に助けを求めた。
どうすればいいのかわからず慌てるだけの黒鋼と違い知世は冷静に救護の指示を出した。
脈と動悸が早く、呼吸数も多いし熱もある。
「ただの風邪だよ」
ファイはそう言ったが、そんな軽い症状ではないことは明白だった。
別室に寝かされたファイはすぐに眠りについた。
もう二度と目を覚まさないのではないかと不安でたまらなかった。
そんな黒鋼に気を遣ったのか、知世は今日は1日ファイの側についていてやりなさいと告げてその場を去った。
とうとう雨が降り出した。重たくて暗い雨だった。
水が地面に叩きつけられる音はうるさいはずなのに、まるで無音のように感じた。
ファイは深夜になるまで一度も目を開けなかった。
食べたものはすぐ吐いてしまうようになった。
水でさえ受け付けなくなった。
大丈夫、これを飲んでいれば良くなるよ、と朗らかに医者は薬を処方したが、そんなものは焼いて捨ててしまいたかった。
何か食べたいものはあるかとファイにたずねると、七草粥が食べたいと言った。
正月まではまだまだ遠い。
それまでにちゃんと食べられるようになっていれば好きなだけ食べさせてやる、と汗を拭いてやるとファイは嬉しそうに笑った。
「黒りん、どこ?」
「ここにいるだろ」
「よく見えない。黒みー、黒いから、ひじきとの区別も付かないよ」
「そこはもうちょっと頑張れ」
手探りでぱたぱたと腕を動かし、黒鋼にぶつかると肩をつかんで頬を摺り寄せてきた。
きれいだった蒼い瞳が老人のように濁っている。
寒い季節になった。
まず冷えた手を握って暖めて、背に手を回して体も暖めてやるのが日課になった。
ファイはますますやつれたが、少しなら食べ物を受け入れた。
「もうすぐで七草粥、食べられるね」
「……あぁ」
「そしたら、満足できるかな」
「……まだだろ」
庭の木は全て葉を落とした。
虫の声も鳴り止んで、これから本当の静寂がやって来る。
「花見、またしたいだろ」
「花見かぁ。楽しかったなぁ。来年もしたいなぁ」
空が遠く感じる。
冷たさだけを残して太陽は高いところへ逃げていった。
「今年は祭りにも出られなかったからな、来年は出たいだろ」
「……そうだね」
「あぁ、祭りと言えば、4年ごとの祭りがあるな。再来年だ。盛大な祭りだからな、それも見たいだろ」
「……うん」
「それから、あと、そうだ。おまえがいつも遊んでたガキ共。あと10年もすりゃあ子供もできてるだろうな。会いたいだろ」
ファイは弱々しい力で黒鋼の二の腕にしがみついて何かに耐えるように目を閉じた。
どうして返事をしないのかと怒鳴りたかったが、空虚を返されるだけだとわかっていた。
やがてファイはゆっくり瞼を開いて空ろな視線を黒鋼に合わせた。
そして掠れた声で、10年は無理かな、と笑って、ひとつ涙を落とした。
END