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あの日のあなたへ
不幸にも、魔理沙はある日突然記憶をなくしてしまった。
そんなはずがないと、多くの人間や妖怪が面白半分に神社に集まったが、
みんな来たときとは正反対に暗澹とした面持ちで帰って行った。
パチュリーは必死で文献をあさり始め、アリスは必死で魔法で治療できないかと模索している。
永琳が来て色々検査をしたけど、やっぱり魔理沙の記憶は戻りそうにない。
紫が来て色々質問をしたけど、やっぱり魔理沙の記憶はリセットされてしまって戻らない。
早苗が外の世界の病院に連れて行くことを薦め、さとりがどうにか魔理沙の心を読み取ろうとする。
私を除くみんなが魔理沙に手を尽くしてくれたが、何も変わらなかった。
数日前と同じく私は彼女に黒い衣装を着せる。
「魔理沙、私のこともわからないのね」
「…………」
「私は博麗霊夢よ。あなたは霧雨魔理沙っていうの」
「…………」
何を言っても彼女には通じない。
じっと私を凝視して不思議そうに首を傾げる。
彼女は自分のことも私たちのことも、一切合財忘れてしまった。
生まれたての子供のように視線を巡らしたかと思えば、時折火のついたように泣き出す。
そんな時は私が魔理沙の背中を撫でてあやしてあげる。
大丈夫よ、と言いながら優しく抱きしめてあげる。
そうすれば彼女も私に縋り、ひとしきり泣き続けた後、私を見て笑うのだ。
「霊夢、やっぱり外の世界の病院に行ったほうがいいんじゃないかしら」
定期健診に来た永琳が魔理沙の瞳をライトで照らす。
魔理沙は嫌がりながらも、激しい抵抗は見せない。
医療に詳しい永琳だが設備の不十分な幻想郷ではたいした検査も何もできない。
私ははっきりと、それを好都合だと思う。
「私もちゃんとしたところで診てもらうのがいいと思うけど、その、金銭面で……」
外の病院に行けば、まず間違いなく入院することになるだろう。
整った医療施設の中での検査とリハビリ。
莫大な金が必要になるのは目に見えている。
今の魔理沙にはそれが必要だが、私はそんな人間的な世界に魔理沙を連れて行きたくない。
「そうよね……」
検査を終えた永琳が医療器具を鞄にしまう。
魔理沙は今まで自分に使われていた器具がしまわれる様子を興味深そうに見つめている。
「私もできる限りのことはするけど、健忘は薬じゃどうにもならないから……」
健忘、だなんて。
聞きなれない記憶喪失の別称に私は笑いがこみ上げてきた。
布団の上で寝転がって魔理沙が永琳の鞄の紐をいじって遊んでいる。
時々奇声や笑い声を発しながら。
その様子を永琳は痛々しいもののように見ている。
私には微笑ましく見えるのにな。
「じゃあ今日はこれで帰るけど、何かあったらすぐに連絡してね」
立ち上がった永琳が鞄を持ち上げると、魔理沙が抗議の声をあげた。
悲しそうに笑って永琳は魔理沙の頭を撫でる。
絡まった金色の髪は、以前はもっときれいだったとでも思っているのだろうか。
そう考えると部屋が薬品の臭いで満たされているような気がして、私は早くこの医者を
追い出さなければならなかった。
かりかりと指で畳を引っかくと余計に気分が悪くなり、私は立ち上がって見送りの準備をした。
「ありがとう。永琳がいなかったら、私パニックでどうにかなってたわ。また何かあったらお願いね」
そう言うと医者は私の顔を見ずに笑い、今まで訪問した人たちと同じような顔で出て行った。
今はまだ多くの人が魔理沙を心配して見舞いに来てくれるが、そのうち誰も来なくなるだろう。
誰だって、変わり果てた人間なんて見たくなんかないのだから。
誰だって、報われない努力なんてしたくないのだから。
「ね、魔理沙。私がいれば十分でしょ?」
「あー?」
「そう、分かってるわね」
「うーあー」
今度は、ちゃんとうなずいてくれた。
魔理沙がこうなる前に尋ねたときは、うなずいてくれなかった。
「もう私に逆らっちゃだめよ」
やわらかい髪をくしでといて、一緒に布団で横になる。
最近の魔理沙はよく眠る。
生まれたての子供と同じように。
そして彼女の記憶はもう戻らない。
「私が育ててあげるからね。ちゃんとした人間に、育ててあげるから」
背徳なんてあるはずがない。
私は私が幸福であるために生きているのだから。
箒から落下して頭部に損傷を負った、と私は皆に説明した。
措置が早かったため死には至らず、不幸中の幸いだと皆言っていた。
…とんでもない、これはただの幸せだというのに。
私は瞳を閉じた魔理沙の頬に手を這わせ、我が子のように慈しむ。
でもごめんね魔理沙。
本当は私だってあなたと対等でいたかったのよ。
End