空間的狼少年

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夢に沈む止まり木


※寝取られ風味


「ずっとここにいてよ」
 
そう言うと彼はいつもの笑顔で拒否した。
馬鹿にするように、哀れむように、戸惑うように、彼は俺を見て笑う。
きっと彼はほかにどういう顔をすればいいのか知らないのだろう。
俺の部屋は静かで暗くて、こんなところに彼を閉じ込めておけば彼はすぐに死んでしまう。
生きることに本能的に貪欲な彼には耐えられないことだ。
彼はもっとごちゃごちゃした難解なパズルの世界で暮らしていなければならないのに、平坦で何もかもを隠していないといられない
俺が引き止めることなんてできるはずがない。
論理はすでに俺のなかでは崩壊しているが俺の精神が理性のなかにいるものだからどうしようもない。
 
「僕は、先生のところへ帰らなければなりません」
 
意地の悪い言い方で彼は玄関の扉を開いた。
もう外は夕焼けで、それはおそらく赤い地獄だ、彼はここを出れば怪鳥となる。
たとえば、彼にとって俺の部屋はゲームで言うところのセーブポイントで、村人の俺が主人公の慈悲を求めれば救われるべき姫と
倒されるべき魔王の反感を買うだろう。
カーテンを背にして、ひとりきりになった部屋で平静を装い煙草を吸う。
底もなく頂上もない螺旋階段の真ん中でずっと立ち止まっていて、そのまま卑怯な部外者でいられると思っていた。
 
 
 
そもそも彼はどうして俺の部屋に来るのか。
日本はあんまりにも平和なので仕事中にもかかわらず考えていた。
俺は彼の何も知らない。
弥子ちゃんの助手で、たぶん外国人で、たぶん事務所に住んでいて、サイとの関わりを持っているらしい、長身の青年。
ときどき夜に俺の部屋を訪ねてきて、出した飲食物に手をつけることもなくただソファに座ってテレビを見たり本を読んだりする。
話しかければ答えてくれるが彼のほうから話しかけてくることは滅多になかった。
目的も理由も聞いたことがない。
ただ本当に居るだけで迷惑だと思ったことも不審だと思ったこともない。
お気遣いなく、と言われたがまったく気遣わないわけにもいかずあれこれ配慮していたのは最初だけで、今では俺が先に寝て彼が知らぬうちに帰っていることもある。
彼がいつのまにか合鍵を作っていたのを知ったのもごく最近のことだ。
野生動物が遊びに来るような感覚で受け入れていた。
不思議には思うが、来たいなら来ればいい。
俺のほうも水滴が落ちるスピードでたまった優越感に満足していた。
 
 
 
その夜も彼はやってきた。
何度も聞いた台詞を何度も見た薄い笑顔で、少しだけ居させてください、と。
散らかってるけど、とそれだけ言って俺はリビングに戻って温めた弁当を開けた。
金に余裕ができると自炊するのが馬鹿らしくなった。
たいして旨くはないが自分で作るよりはずっとバランスの取れた弁当を買うほうが効率がいい。
ペットボトルのお茶を冷蔵庫から出しているときふと視線を感じ振り向くと、テーブルの向かい側に彼が座ってにこにこしていた。
 
「どしたの」
 
「なんでもありません」
 
これまで彼は俺と接触するような行動をとったことはなかった。
なにひとつ思考が読めないけれど尋ねる気にもならなかった。
 
「あんたも何か食べる?」
 
「いいえ、いりません」
 
楽しそうな笑顔を疑問に思いながらも弁当を食べていると不意に彼がしゃべりだした。
 
「食べたいのに食べられないのはとても悲しいことです。だから僕はいつも悲しいのです。簡単に得られるはずの喜びが僕だけ得られないのです。
 悲しい、妬ましい、不公平だ。ならば僕はほかのことで喜びを得なければならない。苦しみを流さなければならない。あなたはこれに同意しますか?」
 
突然のことに質問の内容がわからなかった。
箸を止めて何のことかと考えていると再び彼が口を開いた。
 
「僕は人の苦しむ姿が好きです。悲惨な状況にある人が好きです。これは生まれ持った嗜好なので仕方ないことです。だから僕はその声に従います。
 脳に逆らうことはできません。僕は脳髄の空腹を満たすために生きているのです。脳髄が飢えているのです。僕は手段なのです。僕は逆らえない声に従います。
 質問を変えましょう、あなたはこれに反対しますか?」
 
無言のままでいると彼は口角を上げた。
 
「それでは、これで失礼します」
 
きれいな金色の髪の先にある三角の髪飾りが今日は恐ろしく思えた。
彼は人間が気軽に受け入れていい生き物ではなかった。
とんでもないところに進んでいく予感がして、とても弁当など食べていられなかった。
玄関へ向かう彼が絶対的な勝利を確信した笑みで振り返った。
 
「今日は引き止めないんですか?」
 
 
 
 
それから一週間、彼が俺の部屋に来ることはなかった。
乖離した不安と安心を交互に抱え眠る夜は想像以上に苦痛だった。
夜になると空気が重くなり眠れない、胸が圧迫されて呼吸がし辛くなる。ひとつ思い出してしまうと芋づる式に全てを思い出すことになる。
このままでいられるはずがないのにこうしてベッドで横になっているのはおかしいのに最善の処置とは何なのかわからない。
しかし、正体不明の焦燥は例の少女によって暴かれることとなる。ちょうど仕事が終わり、外に出たところで弥子ちゃんからメールが届いた。
ずっとぼやけていた不安はもはや不必要となり、彼女の名前を見た瞬間に手遅れであることを知ってしまった。
少しお話できますか、と書かれた文章には明確な怒りが込められている。
深呼吸して震える手で電話をかけると3回のコールでつながった。
 
「あぁ、弥子ちゃん、メール見たんだけど、何かあったの」
 
白々しい言葉しか吐けず自己嫌悪する。
用件はわかりきっているくせに、質されることが怖くて夜も眠れない臆病者が。
口の中が渇いてしまって上手く舌が動かないが、せめて歯の鳴る音は隠し通さなければ。
 
「笹塚さん、わたし、笹塚さんのこと嫌いになりたくないんです」
 
ぴしりと針が貫通したような痛みが脳に走った。
彼女の方も震えているようだが、彼女の清純な感情と俺の卑怯な思考を一緒にしてしまうのは憚られた。
 
「ネウロと何してるんですか。私に秘密で、二人だけで、何をしていたんですか」
 
逃げ場は全部自分で壊してしまった。
言い訳も謝罪も無意味だ、彼女はこんなにまで傷ついている。
 
「どうして、わたしからネウロを奪うんですか」
 
それから彼女は電話の向こうで泣き続けた。
慰めなどできる立場でもなく無言で少女の行き場のない嘆きを聞き続けた。
冷たくなった風はいっそう現実から俺を引き離した。
 
「ごめんなさい、少し頭を冷やしますね」
 
申し訳なさそうに言うと彼女は電話を切った。
嘘もつけないまま、真実を伝えることもできないまま。
人間らしい罪悪感を持つことも恥ずかしいほどにあの日俺は喜んで欲望の声に従った。
その快楽で満たされない葛藤が代替されるのをはじめから期待していたのだ。
知っていたのに。俺はこうなることを危惧していたのに。
乱暴に車に乗って頭を抱えた。
しばらく真っ暗な車内で目を閉じているといくらか気が紛れ、悲観的にいてはそのようにしかならないと言い聞かせて帰路についた。
一週間、あの男はいったいどのようにして生きていたのだろうか。
先生と慕う少女をこんなにまで苦しめるなんてどういうつもりなのだろうか。
共犯であってもおそらく彼は罪悪など微塵も感じていない。
家に着いたら彼に電話をして話を聞こうかと思ったが、どうやらその手間は省けたようだ。
 
「おかえりなさい」
 
エントランスの不気味な明かりの下に彼は立っていたので、覚悟を決めて、部屋に連れて行った。
始終にこにこと楽しそうに笑うのに苛々したが、文句を言っても無駄だろう。
彼に倫理はない。脳に道徳を理解する機能がない。
落ち着いて話をするためにコートを脱いで別室で楽な服に着替えた。
面倒な生き物にかかわってしまったことを後悔しては羞恥に悶々とする。
騙されるほうが悪いと言うが、悪いのは騙すほうであるのは間違いない、騙されたほうは思慮が足りない阿呆だっただけなのだ。
ため息をついて彼を待たせているリビングに戻ると、最悪の光景を目にした。
いつ鞄から抜き取ったのか、彼が俺の携帯を耳に当てている。
だめだ、彼は笑っている。人間を襲うために尖った歯が役目を果たそうとしている。
早く奪い返さなければ、堕ちるのは地獄ですらなく……
 
「ヤコ」
 
彼の細い手首を捻り携帯が床に落ちた。
電話の向こうから金切り声が聞こえた気がするが確かめるわけにはいかない、すぐに取り上げて携帯を真ん中から折って壊し、
ゴミになった機械を放り投げて彼につかみかかった。
それでもなお彼は笑っている。
 
「なんで、こんなことを……」
 
「怒っているのですか? 自分のしたことは棚に上げて?」
 
椅子に座った彼は挑発する目で俺を見上げる。
反論もできず首のスカーフをつかんだままでいると、彼の深い緑の目が渦を巻いていくのがわかり恐ろしくなって手を離した。
 
「どうしてあなたは僕を引きとめたのですか?」
 
「やめろ……」
 
「どうしてあなたは僕を享受したのですか?」
 
立ち上がった彼が近づいてくる。長い手足は人間を捕えるためのものだったのか。
後ずさりをして距離を保つが狭い部屋の中では意味のないことだ。
 
「どうして逃げるのです、あの日はあんなに僕を求めたくせに」
 
「言うな……言わないでくれ」
 
「恥ずかしいのでしょう、悔しいのでしょう。それとも恐ろしいですか? でもそんなことを感じる必要はありませんよ。
 あなたは僕に同意したのです、あなたは僕の手段となったのです。だから僕はあなたに褒美をあげたでしょう? どうして飢えがあると思いますか? 
 脳への働きの褒美をもらうためですよ。あなたの飢えと渇きはどうしたって満たされない類のものですから、こうして代替するのは人間として当然のことです。
 恥じることはありません」
 
とうとう壁に追いやられずるずると座り込んだ。
呪詛が俺を取り巻き正当化を訴える。
黒い皮手袋が頬に触れてやさしい口調で彼は続けた。
 
「でもね、これだけは言っておかなければなりません。笹塚さん、僕の飢えはあなたの苦しみで代替されたのではないのです。あくまであなたは手段です。
 僕はね、笹塚さん。僕は先生の苦しむ姿が見たいんです。僕のために泣き、僕のために苦悩を抱え、僕のせいで壊れていく先生が欲しいんです。
 僕があなたに奪われるのが耐えられず残忍な心に支配される先生を見て僕はこの上ない喜びを得ました。この一週間、僕が何をしていたか知っていますか? 
 一週間かけて、あなたとの情事を先生に聞かせてあげていたのです。聞きたくないと泣き喚く彼女を縛って、耳元で、あなたが僕をどのように犯したか、
 事細かくずっと説明してあげていたんです。でも先生はあなたと違ってよくできた人間だから、完全にあなたを憎むことができなかったんです。かわいらしいでしょう?」
 
絶頂したような艶かしい顔で彼は語った。
こんな表情をされては怒る気も起きずただ無気力にうなだれていた。
彼の本音を知ったところで問題は解決しない。
彼女はひとりで悲しみ俺を憎もうとも憎めず、葛藤に苛まれまっすぐだった恋慕の情が歪み倒錯していくことを叱責して精神を痛めていることだろう。
そうなることで彼が無間の愛を感じているとも知らずに。
 
「それでは、さすがに今日はあなたも引き止めはしないでしょうから、帰ります」
 
立ち上がり玄関に向かう後姿にあの日がフラッシュバックして思わず目を閉じた。
もう散々懲りたはずなのに誘われれば喜んで飲み込まれてしまいそうだ。
甘い吐息と汗ばんだ肌はそう簡単に忘れられそうにない。
それでもしばらくは彼と関わりたくない、傷つけてしまった少女への言葉も考えなくてはならないし、何より精魂尽き果ててしまった。
が、現実は毎日規則的に回り続けている。
 
「そういえば、明日事件が起きますから、また明日お会いすることになりますね」
 
玄関先から聞こえた声に、もう勘弁してくれと懇願した。


END
ネウヤコ誕生日記念なんだけど祝う気が全くないね