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初夏のうた 初夏の風が吹いた。なまぬるく、しかし心地よい。 放課後の校庭では野球部とサッカー部がボールを投げたり蹴ったりしている。 風があるとは言え、汗をたらしているのが二階の窓からでも見えた。 4,50人ほどの人物の顔をいちいち観察して表情まで読み取る。 みんな必死な顔をしていて、時々疲れた顔になったりして。 しかしファイの探す人物はここにはいない。 探すといっても用事があるわけではない。ただ、いつも、目線で探してしまう。 探しているくせに、視界に入ったとたん、すぐに目をそらしてしまうのだけれど。 また強い風が吹いて、校庭の砂を巻き上げた。 その風に巻かれるようにファイはその場を離れた。 はじめて彼に会ったのは、入学して3日目のことだった。 新入生歓迎会で見た、あの気圧されるほどに紅い目が、いつまでも忘れられなかった。 会話をしたことは一度もない。声を聞いたことも一度もない。 いつも遠くから見るだけだけれど、あのひとの声はきっとファイの心の一番底の部分に沈んで、そこから動かなくなることだろう。 「ファイ、最近、ぼーっとしてるね」 妹分のちぃがファイにそう言った。 空色のソーダはもう半分しかない。 「そうかな?」 「そう。どうして?」 「どうしてだろう?」 家が近所ということもあって、ちぃとはよく一緒に帰る。 途中でコンビニに寄って買い食いもする。 付き合ってるの?とはよく聞かれるが、いつもちゃんと否定している。 「悩み?」 「んん。どうかな」 曖昧に笑って、残りのアイスを全部食べた。バニラの甘い汁が口の中を満たした。 夏の授業は憂鬱でしかなくて、まじめになんて聞いてられない。 だからファイは学校をサボった。 海岸の近くを歩いて、歩いて歩いた。暑い日ざしのなかをひたすら歩いた。 日が少し傾いて、風にもひやりとした冷たさが混じるようになった。 歩き疲れて砂浜におりて、小さな砂を蹴り上げた。 全然きれいじゃない砂浜と全然美しくない海は、ファイの身体を落ち着かせた。 海のにおいは大好きだが、海に入るのは好きじゃない。 壊れた貝殻を踏み潰しながら来た道を戻ろうとすると、人の影が見えた。 「あ」 黒い髪。紅い目。大きなからだ。大きな足。 探していたひと。 「サボり。いけないんだ」 「……おまえもだろ」 指差して言うと、少し驚きつつも彼も同じようにファイを指差した。 かもめがやって来て、ファイの潰した貝殻をつついた。 「オレ、今から帰るけど」 彼を指していた指を彼のむこうに向ける。 帰るけど、なんて、今はじめて会話したというのに、おかしいなぁ。 ファイは彼の太い腕に抱きついた。 「一緒に、帰ろぉ?」 彼はびっくりして2,3歩退いたが、ファイを引き離そうとはしなかった。 ぱきりと音を立てて大きな貝殻を踏み潰した。 かもめは何も入っていない貝殻を捨てて、残念そうに飛立っていった。 抱きついた彼は方向を転換して歩き出した。 振り回されるようにしてファイも方向を変えた。 太陽が後ろになったぶん、歩きやすくなった。 「ファイ、今日はご機嫌?」 ちぃがファイに尋ねた。 ファイはふふ、と笑ってビスケットを噛んだ。 表面のチョコレートは少しとけていた。 「ちぃも、ご機嫌だねー」 「うん。ファイがご機嫌だから」 ふふ、とファイは笑った。 豆腐屋の笛の音がする。 ファイはリズムに乗って歩き出した。 「海、行こ?」 彼はうなずきもしないし、首を横に振りもしない。 でもファイの隣を歩いてくれる。 「海はどうしてあんなに大きいんだろうねぇ?」 問いかけは空に吸い込まれて雨になって海に落ちる。 彼も海みたいに大きくて、違うのは目が紅いところだ。 歩道には誰もいない。車道にはカニが死んでいる。 雑草のにおいは、むっとしていて鼻に入りきらない。 車道の向こうの家々では自由に布団を干したり昼寝をしたりしている。 「帰れなくなったらどうしよう」 思ったよりも楽しそうな声が出た。 少し恥ずかしくなって、歌をうたって誤魔化した。 海はやっぱり綺麗じゃなくて、砂浜も全然美しくなかった。 でもそれでよかった。そのほうがよかった。