空間的狼少年

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失楽園


広大な草原を、ふさふさのやわらかそうな毛皮の子狐たちが駆け回るのを見ながら、一匹の犬が大きくあくびをしました。
短い足で元気に走り回る狐の兄弟は、追いかけっこしたり転がったり、太陽の下で一生懸命遊んでいます。
そんな姿をまぶしそうに眺め、岩陰で寝そべっていた犬は伸びをしてあごを自分の前足の上に置きました。
この犬の名は笹塚と言って、ディンゴという野生の犬でした。
普段は「ケーシチョー」という大きな群れの中の「ソーサイッカ」というグループに属して狩りをしたりしているのですが、今日はおなかもすいていないので、
ひとりでこうして暖かな陽光の下でお昼寝していたのです。
ここは、誰もが認める平和な楽園。
植物は豊かに実り、動物は正しい関係性で暮らし、温暖な気候のもとでのどかに生活できるのです。
だから遠方からこの楽園を目指してやって来る動物もたくさんいました。

「今日は狩りの日じゃないんだな」

笹塚がゆるやかな眠気に従い目を閉じようとしたところで、頭上から声がしました。
見上げると、日よけにしていた岩の上に、一匹の黒豹がいました。

「今日は、休み」

黒豹の名は早乙女といって、ときどきこうして笹塚のところへ何をするわけでもなくやって来るのです。
岩から降りた黒豹は笹塚の隣に同じように寝そべって、狐の子らを眺めて目を細めました。

「ところでさぁ、例の噂、もう聞いたか?」

狐から視線を外した早乙女が少しだけ声のトーンを落として笹塚に尋ねました。
例の噂と言われて、ひとつだけ思い当たることがありました。
この楽園は毎日正しく平和ですから、噂になるようなことなど滅多に起こらないのです。

「神様が現れたってやつだろ?」

笹塚は部下の石垣と等々力が興奮気味にその噂について話しているのを先日耳にしていました。
彼らは仲が悪いのに、どうしてかいつも喧嘩しながらも一緒にいるのです。

「そう。山のてっぺんの洞に現れた、謎の神様ってやつ」

「何でも願いをかなえてくれるらしいな」

「都合のいい話だよな。本当なのかね」

「さぁな。でも火の無いところに煙は立たないだろ」

その噂の洞は、とても険しい荒れた山のてっぺんにあります。
石垣も等々力も行ってみたいと話していましたが、登るための道はとても狭く、一歩間違えれば崖の下にまっさかさまです。
たぶん色々なところで噂はあれこれ脚色されて流されているのでしょうが、あの山に向かっていく者は今のところ、いませんでした。

「神様か。見に行ってみるか?」

ちょっと湖まで、とでも言うような軽さで早乙女が笹塚を誘いました。
笹塚はびっくりしてピンと耳を立てて、そして首をかしげました。

「叶えたい願い、あんの?」

「いや、単に神様が見てみたいだけ」

「……まぁ、見に行くだけなら、いいか」

少しだけ迷いましたが、笹塚も早乙女に付いて洞に行くことに決めました。
普通の動物たちならあの険しい山道を登るのは困難ですが、笹塚も早乙女も足には自信があったので、そこは特に問題視していませんでした。
笹塚には、今日は一日ゆっくりしようと思っていたのに、というわずかながらの後悔がありましたが、それ以上に本当に神様がいたらどうしようかという恐れの方が強くて、
その恐れが強いがために、誘いを断ることができませんでした。
神様なんているはずがないけれど、いないという確証もないのです。
そんな超越者なんてこの世にいてはいけない、とずっと笹塚は思っていました。
そうでなければとても生きてはいけないのです。

「おー、すげぇ長い草が生えてるぞ。見ろよ、あっち」

早乙女は笹塚の心境など知ってか知らずか、のんきな声できょろきょろ辺りを観察しています。
この辺は草木はほとんどなく荒れ果てているため地上の動物たちはあまり近づくことが無いので物珍しいのでしょう。
頭上ではとんびが、二匹とも早く崖から落ちて死ねばいいのにと鳴きながら旋回しています。
二匹はだんだん狭くなる道をどんどん登っててっぺんを目指します。
途中で突然飛び出して来たとかげに驚いて足を踏み外しかけましたが、何とか怪我もせずに中腹あたりまで来ました。
並んで歩けないほど狭い道なので、早乙女が前を歩き笹塚がその後ろを付いて歩きます。
黒く美しい尻尾が揺れるのを見ながら、もしも今、彼の足を噛んでやったなら、その拍子に二匹とも絡まりあって足場をなくし、地面に叩きつけられて死ぬのだろうかと何度も考えました。
笹塚が早乙女と出会ったのは、笹塚が右も左も、自分が誰かもわからないほど憔悴していたときでした。
あの時、どこをどう通って来たのかは覚えていませんが、笹塚は最初に家族みんなで暮らしていた高原から、いつの間にかこの楽園に辿り着いていました。
その日は雨が降っていました。
大雨でぐずぐずになった地面に転がって苦い泥水が口に流れてくるのも構わずに目を閉じていました。
このまま終わればいい、と冷たい雨に打たれながら望んだとき、泥で汚れた頭にポンと何かが乗せられました。

「楽園に来たとたんに死ぬのは、もったいないんじゃないか」

頭に乗せられたのは黒豹の足でした。
それが早乙女でした。
ぼんやりと開けた瞳で見たのは、濡れて輝く黒い毛皮でした。
もう何も知らない、と笹塚は白痴を装って適当なことを言いながらもう一度目を閉じました。
最後に聞いたのは早乙女の「ようこそ」という声でした。
再び目を開けたときはさっきの豪雨が嘘のように晴れ渡っていて、澄み切った遠い青空がどこまでも広がっていました。
身を起こすと隣には早乙女がいて、それからこうして妙な縁を結んでしまったのでした。
二匹一緒にいても特に決まった何かをするわけでもありません。
ときどき雑談をしたり、今日のように変わったところを見に行ったり。
それだけでしたから、笹塚はその通りそれだけだと思っていましたけれど、もしこの頂上に神様がいたならば、何もかもが「それだけ」では済まされなくなるのだろうと確信していました。
しだいに重くなる足取りは早乙女との距離を遠ざけました。
そのことに、きっと早乙女は気づいています。
よし笹塚がこのまま足を止めたとしても、彼は振り返らず突き進むでしょう。
だから笹塚はどんなに足が重くなろうとも、止まることも後退することもできないのでした。
そしてやっぱり、そのことにも早乙女は気づいているのです。

「あ、あれか? あれが洞か?」

ゆらゆら揺れていた早乙女の尻尾がまっすぐぴぃんと伸ばされました。
早乙女が最後の段差をすばやく駆け上がったのに続くと、そこには大きな洞がありました。
そっと下を見下ろすと、自分たちが住んでいる楽園が見渡せました。
風が緑の海をなでる地上では、多くの生物が共存し、捕食し、理想的な関係を保っています。
確かにここは楽園なのでしょう。
笹塚は喉の奥が詰まるのを感じました。

「おーい、誰かいるかー?」

洞の中に向かって早乙女が叫びました。
ぐわぐわと響いた声がすっかり鳴り終わった頃に、洞の奥の方できらりと何かが光りました。
とっさに二匹は身構えましたが、出てきたのは小さな猫でした。

「どちら様で……あ、笹塚さん!」

「弥子ちゃん? 何でこんなとこいるの?」

まだ幼い女の子の猫は早乙女を見て一瞬身をすくめましたが、笹塚を見つけるとぱっと顔を輝かせました。

「え? 知り合い?」

驚いた早乙女が二匹を見比べました。
この猫の名は弥子といって、笹塚のテリトリーの近くにお母さんとふたりで暮らしていたはずです。
それがどうしてこんな危険な山のてっぺんにいるのでしょうか。
不思議に思って尋ねようとすると、洞の中からもう一匹、何かが現れました。

「おや、お客さんですか?」

のそりと出てきたのは、見たこともない大きな鳥でした。
青を基調とした妙な色合いの不気味な鳥は、鳥にはふさわしくないぎざぎざの牙を持っていました。
ばさりと羽を一度震わせると、似合わない笑顔で弥子のそばへやって来て、頭をさげました。

「はじめまして、ネウロといいます。少し前にここに来てから、桂木弥子先生の助手をしています」

「先生?」

「助手?」

笹塚と早乙女が同時に眉をひそめると、弥子がどこか諦めたようなため息をつきました。

「えーっと、先日から私、探偵をやらしていただいてまして……」

「その助手が僕です! 先生の推理力に惚れ込んで、無理を言ってお手伝いをさせてもらってるんです」

「無理言ってというか、無理やり……」

「それでどのようなご用件でしょうか!」

弥子の呟きを遮ってネウロが笑いました。
探偵とか、助手とか、笹塚には色々と理解ができないことばかりでした。
笹塚の知る弥子はのんびりと毎日家族で幸せに暮らしていて、笹塚は彼女を妹のようにかわいがっていました。
でもある事件でお父さんを亡くしてしまい、彼女はしばらく落ち込んでいたはずでした。
何がどうなったのかわからないけれど、彼女はもう不幸を嘆いてはいないようだし、深入りはしないことにしました。

「いまいち把握しかねるけど、危ないことはしないようにね」

そう言うと弥子は苦笑しました。
すでに危ないところに連れて来られています、と言いたいのだろう。

「で、あんたが神様?」

笹塚と弥子の会話が終わったのを確認して早乙女がネウロに向かって尋ねました。
けれどネウロは自分は神様ではないと否定しました。

「先生の探偵業を宣伝したつもりだったのですが、間違った噂が流れたようですね」

「つまり、どんな謎も解決しますってのが、願いを叶えるってのに変わっちまったのか」

なるほど、と早乙女は納得したようにうなずきました。

「でも何でこんな危険な山で? 探偵ごっこがしたいなら、下でやりゃいいだろ」

「いえ、先生は客を選ぶお方なので!」

「こんなとこまで来るほど深刻な謎しか解決しないって?」

なかなか本格的だねと早乙女が弥子に笑いかけると、弥子は苦笑いを返しました。
神様じゃなかった。
弥子の登場で混乱していた頭が落ち着くと、笹塚は深海に心が沈んでいくのを感じました。
落胆しているし、喜んでもいる。
何重の構造にもなる複雑な感情は、もう笹塚を煩わしたりはしません。
山を降りよう、明日のことだけを考えよう。
噂の正体は明らかになったのだから、もうこんな高い場所に用などありません。
早く山を降りなければということばかりが笹塚の頭を支配していました。
それはたぶん、ネウロの鋭い視線が早乙女に向けられているからなのでしょう。

「こんな楽園じゃ、事件も何もないだろ?」

「そんなことはありませんよ。きっともうすぐ、事件が起きるでしょう」

「へぇ。どんな?」

「さぁ。でも、もうすぐです。あなたには、わからないままかもしれませんが」

ネウロと早乙女の会話を聞いて、笹塚の脳内に警告音が鳴り響きました。
それが何かは不明ですが嫌な予感がするのです。
笹塚は弥子にたまにはお母さんに会いに行ってあげるようにと口早に告げると、早乙女を促して洞に背を向けました。

「笹塚さん、大丈夫ですよ」

ネウロの氷のように尖った言葉が優しく笹塚の耳に刺さりました。

「終わりではありません。始まるのです」

そんなことはどうでもいい、早く山を降りなければ。
ネウロの言葉を無視して急ぐ様子を早乙女は不審がっていましたが、説明も何もせずにただ山を降りることに専念しました。
一気に駆け下りて、いつもの岩場にやって来て、ようやく笹塚は肩を下ろしました。

「どしたんだ? 何でそんなに急ぐ必要があるんだ?」

「別に。用は終わっただろ」

「何だよ、あの猫の子と知り合いなんだろ? もっと話せば良かったのに」

かわいい猫だったなと山を見上げる早乙女に笹塚は苛立ちさえ覚えました。
すっかり陽は落ちて、湖の際だけが赤く染まっています。
夜の虫が鳴き出して、笹塚はどっと疲れを感じてその場にしゃがみ込みました。

「残念だったな。神様じゃなくて」

「叶えて欲しい願いなんか、最初からない」

「嘘だな。お前は楽園じゃ生きていけない奴だ。願いなんて山ほどあるはずだ」

もう一度ないと言うのも面倒で、笹塚はじっと目の前のコオロギが羽を震わすのを見つめました。

「お前は俺とは違うからな。いつかここを出て行くんだ。そんで、かっこ悪く死んじまうんだ」

勝手な言い分だと思いましたが言い返すことはできませんでした。

「まぁ、俺もどうせかっこ悪く死ぬんだろうけどな」

早乙女の黒い毛皮がしだいに夜の闇に溶けていきます。
そんな風に彼は、本当に溶けてしまうのでしょう。
この楽園は、その継続性においてのみ楽園として不完全でした。
神様の出現はあながち間違った噂ではなかったのです、神様への認識は決して共通しないのです。
ざわざわと草花が唸り声をあげました。
罪や罰とは関係なく、楽園は喪失されることでしょう。
けれどその前に、彼は、そして自分は……。
笹塚は月が昇っていく様子を眺めながら、楽園を再び作り出すのも神であるのだろうと思い、ならばせめてあのてっぺんの少女が泣かない喪失であればいいと幸福な復楽園を願いました。

End
リクエストの「國笹パラレル」でした