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5.楽になりたい 射命丸文の活躍は、実は天狗の社会においてはそう注目されていない。 上層部は自分たちに従い余計なことをしない者には興味を持っていないのだ。 だからおそらく犬走椛の名などはほとんどの天狗が知らないだろう。 従順で、強い力を持たず、目を付けられるようなこともしない、たくさんいる白狼天狗の中のひとり。 椛はそれを不満には思っていないし、天狗社会の当然の在りようだと思っていた。 むしろ、名を、顔を烏天狗のひとりに覚えられてしまったことが椛を悩ませている。 「今日は取材はお休みなんですか?」 「えぇ、たまにはね」 射命丸文は椛の先輩であり上司である。 訪れて来たなら、もてなさない訳にはいかない。 「これなぁに?」 椛が机代わりにしている切り株の上に出した紙袋の中身を見ながら文が尋ねた。 「桜餅ですよ、どうぞ食べてください」 お茶と一緒にすすめると文は頬をほころばせて桜餅をかじった。 仕事中に比べればずいぶん幼い表情をしている。 「文さんがお休みの日にここに来るなんて、びっくりしました」 「迷惑だった?」 「とんでもないです! 嬉しいですよ」 椛もひとつ桜餅を取り出すと、文が目を細めた。 「椛はよくできた部下ね。上司に対する言葉を、よく知ってる」 褒められているのに椛はぜんぜん嬉しくなかった。 そうじゃないと声を荒げて主張したかった。 「安心して。これ食べたら、すぐに出るわ」 「そんな、私は文さんが来てくれたことが、本当に」 「そんなわけないでしょう?」 椛の言葉をさえぎり文は微笑む。 「いいのよ、私も椛と同じような頃があったから分かるわ。上司ってほんとうに面倒なのよね。だから私に対してはそんなにかしこまらなくていいわ。 用もないなら帰れーくらい言ってもいいのよ?」 くすくすと笑って文はお茶を飲み干すと立ち上がり翼を伸ばす。 木漏れ日のなか、文の翼は光の当たったところだけがきらめいた。 「さて、じゃあ麓の巫女でもからかって来ますかねー」 かしこまらなくてもいいと言うなら、本音を言っても良いのなら、どれほど楽になれるだろうかと椛は拳を握り締めた。 あなたが私のところへ来てくれたことが本当に嬉しいのです、上司に対する上辺だけの言葉なんかじゃないんです、いつもあなたが用もなく来てはくれないかと期待しているんです、 仕事の用事にしても伝えに来るのがあなたであればいいと願っているんです。 そう言うことができるのなら、どれほど楽になれることか。 しかしそう告げたところでこの天狗は簡単には受け取ってくれないだろう。 受け取ってもらえるだけの信頼がないのだ。 あぁ、時間を飛び越して一気に彼女との信頼を築き上げた状態にして、今言いたいこと全てを受け取ってもらえたることができたら……。 かじりついた桜餅は、苛立ちを感じるほどに甘かった。 End