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猫のいる部屋 職場が移転したことを機に、黒鋼は引越しを決めた。 どうせならもう少し広い部屋で、日当たりが良くて、ベランダのある部屋がいい。 それでいて家賃は安い、そんな都合のいい部屋があればすぐにでもそこに決めたいが、それはただの理想でしかなかった。 今よりも勝手がよければそれでいい。 そのつもりで不動産屋に行ったのに、今日の運勢が良かったのだろうか、理想どおりの部屋を紹介された。 小さなビルの二階にある不動産屋の男は営業用の笑顔も浮かべず、いいところがありますよ、と淡々と間取りを見せてくれた。 「ベランダもあるし、日当たりも良好です。新築で、駅も近いし、さらに角部屋。最高の物件でしょう」 確かに家賃も今とそう変わりなく、即決したいところだ。 だが、こうなるとあるかもしれない「何か」を疑わざるを得ない。 「代わりに、何が問題の部屋なんだ」 男は眉を寄せることもなく腕を組んでため息をついた。 「猫がね、住み着いてるんですよ」 「猫?」 「そう。大きな猫です。害はありませんが、猫は絶対に出て行きません。 駆除もできません。ここに住むなら、猫と共存しなければなりません」 少し早口に男はそう言った。 「それは、飼うってことか」 「いいえ。共存です。飼う必要はありません。猫は勝手に餌を食べて勝手に好きなところで寝ますから。 でも気を遣う必要はありません。猫も貴方に気を遣うことはありませんから」 黒鋼はしばし考えた。 猫は嫌いではない。だが猫と共存となると、少し考える。 ひとり暮らしがしたくて家を飛び出したのだ、それが猫であっても一緒に暮らすのは窮屈を感じないだろうか。 しかしこれ以上の物件がないことは間違いない。 世話をする必要がないのなら、かまわないだろう。 「わかった。そこに決める」 見に行きますかと聞かれたが断った。 何かを見てしまえばためらうかもしれない。 もう決めてしまって、後戻りできなくしてしまった方が潔い。 そうして黒鋼はその猫にいる部屋への引越しを決めた。 引越しが終わって数日の間は、猫は姿を現さなかった。 いつも部屋にいるわけではないらしい。 黒鋼が仕事を終えて部屋に帰ってくると、猫はいた。 寝室のベッドの上、大きな猫が横たわっていた。 「ね、こ……?」 猫はこちらに気づくと眠そうに眼をこすって体を起こした。 大きな猫は、人間の体をしていた。 「にゃあ」 猫は蒼い目を細めて鳴いた。 人間の体に猫の耳と尻尾を付けた猫。そいつは金の髪を無造作にかき乱した。 また人間が来た、とでも言いたげなしぐさだった。 白いシャツとジーパンの猫は起き上がり黒鋼には目もくれず部屋を出て行った。 「ね、こ?」 やっぱり大きな問題がある部屋だった。 その部屋自体は大変居心地のよい空間だった。 日当たりも良い、隣からはほとんど物音もしないし、外も静かだ。 職場も近いし駐輪場もあるし家賃も安い。 問題は猫がいるというだけだった。 とは言っても、猫はこちらに接触してくることはなかった。 勝手にどこかで食事をしているらしく、黒鋼の食べ物にも飲みのにも手を付けることはなかった。 水道やトイレや風呂は使っているが、空き部屋の頃はどうしていたのだろう。 猫に言葉は通じない。通じているのかもしれないが、猫は鳴き声以外の声を発しない。 黒鋼がソファでテレビをみていると、たまに隣で座って一緒にみにくることもある。 退屈そうな眼でテレビの光を見つめている。 猫の毛並みはたいそう美しかった。 隣に来たときになでてみようかと思ったことがあるが、それはしてはいけないと暗黙の了解のようなものがあった。 意識的にどちらも、どちらかに接触してはならないのだ。 そうすることで共存のルールが崩れる。 しかしそのルールを崩してしまえば、猫は出て行くはずだ。 もう二度と戻ってこないことはわかっている。なのに崩せない。 一人暮らしを望んでいたはずで、猫なんて飼うつもりはなかったのに、猫がいなくなることをどこかで阻止しようとしているのだ。 だがそれを理解した上で、このルールを壊してやりたいという衝動もある。 例えばあの猫をめちゃくちゃに抱いてみるとか、そういうことをしたら、どうなるのだろう。 あの蒼い眼はどんな光をなくして、どんな澱みを得るだろう。 猫は黒鋼を信頼などしていない。だからこうして試すようにぎりぎりまで近寄ってくる。 手を出してみろと言いたげなしぐさで隣に座って、なんでもない顔をする。 ある日、猫がシャワーを浴びているときに誤って扉を開けてしまったことがある。 そのとき見た猫の肌は異様に白く、細く、滑らかだった。 濡れた髪からは水が滴り、肌に張り付いている。 誰にも触れせたことがないような純粋さと、何人もの人間を堕落に陥れたかのような悪魔的な艶やかさを孕んだ笑みで黒鋼を見て、鳴いた。 そのとき黒鋼は許されたのだと思った。そして急いで浴室を飛び出した。 許されてなどいない、あれは断罪のための罠でしかないのだ。 息を荒くしてベッドに倒れこんで都合よく作り変えられる記憶と想像に身をゆだねた。 それ以来、黒鋼はどんな女にも魅力を感じなくなった。 終わりの日は当然のようにやって来た。 引越しをして半年ほど経った頃だった。 猫が数日帰ってこず、少しばかり心配になっていたときだった。 そのときにはすでに線を越えてしまっていたのだが、気づくことができなかたった。 猫が夜のにおいをまとわせて帰ってきたとき、黒鋼は思わず安堵の表情を浮かべてしまった。 猫は珍しそうに、そして面白そうに黒鋼を観察して、触れるぎりぎりまでやってきて、にゃあと鳴いた。 黒鋼はその頼りなくうすい肩を掴んでソファに押し倒した。 大きな蒼い眼は動揺することもなく平然と黒鋼を観察した。 熱くなった手で髪をなでると、溶けるように指がなじみ、動悸が激しくなるのを感じた。 しかし、それ以上にはならなかった。 「終わりだよ」 誰の声だかわからなかった。 それが自分の下にいる猫から発せられているものだと、すぐにはわからなかった。 「君も、終わり」 飽き飽きした、と言って猫は黒鋼の下から抜け出した。 冷たくなった視線に黒鋼は強い羞恥を覚えた。 「じゃあね」 そう言って猫は出て行った。 そしてそれ以来、帰ってこなかった。 それでも黒鋼はまだ、その部屋に住み続けている。 END