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生首奇談 おかしなことと言うのは、総じて朝目覚めたときに起こるものだ。 俺の場合もそうであるらしく、昨日はベッドで一人薄い毛布にくるまって眠ったはずなのに、朝になるとなぜか俺の顔の 隣にはもうひとつ顔があった。 誰だろう、これ。 ぼんやりした頭で考えていたら、記憶が頭に浸透してようやくわかった。 「さおとめ、だ」 声にならないくらいに掠れた声で呼ぶと、顔は驚いた顔で目をぱちくりさせた。 驚いたのはこっちだ、と思うと同時に顔がにまりと笑った。 「おはよ、笹塚」 ゆっくり覚醒していく頭で、目の前の早乙女らしき顔をじっくり観察する。 見えるのは烏みたいな真っ黒な髪、くっきりしたつり目、頬の傷跡、だけ。 あれ、何かいろいろ足りない気がする。何だろう、これは人間じゃない。 「……体は?」 「家出した」 簡潔にそれだけ言って早乙女がからからと笑った。 頭しかないくせに何で笑うんだろう、夢なのだろうか、空気とか布団の感触とかは現実と変わりないし、早乙女のこの声は俺の 夢なんかじゃ再現できないはずだけど、意識がひどくぼんやりとして思考が滞っている。 乾いた目をこすって起き上がって見ると本当にどこにも早乙女の体はなくて、早乙女の頭だけがベッドの上で人形みたいに ぽつんと置かれていた。 「なにこれ。どうしろって言うの」 頭を抱えて呟くと、背後から早乙女に呼ばれた。 振り向くとだるまみたいに早乙女がベッドに上を向いて転がっていて、元に戻せ、前を向かせてくれと訴えてきた。 少し気味が悪くて触りたくはなかったがあんまり早乙女がうるさいので嫌々ながらそっと早乙女の頭を持ち上げる。 しかし人間とはまったく違う、冷たくてゴムボールみたいなぶよぶよした皮膚の感触に鳥肌が立って、床に落としてしまった。 いてぇ!なにすんだ! そう叫んだ早乙女に謝りながら、もう一度、今度は深呼吸してから顎の辺りから荷物を持つみたいに持ち上げる。 「おい、もう落とすなよ。優しく持て」 持った顎ががくがく動いてまた落としそうになったけど、今度は大丈夫だった。 視線を下げると黒髪の中心につむじがある。 俺と早乙女はたいして身長が変わらなかったから、早乙女の頭のてっぺんを見下ろすなんて、したことがなかった。 幼い頃は小柄な子供だったが高校生になっていきなり身長が伸びだしたのだと、生前彼は自慢げに語っていた。 ……生前? 俺は今ごく自然に生前という言葉を使ったが、どうしてこうも確かな自信をもって生前などという言葉を使用したのだろうか。 人間は首だけでは生きてはいけないが、これはまぎれもなく夢であるはずだ。 「あんたは、どうして俺の夢にいるの」 「これからお前が寂しい思いをしないためさ」 ベッドに置いた早乙女の首は夢の中の夢のように遠くて小さくて、俺はこのとき初めて焦りとは心で感じるものだと知った。 早くどうにかしなければどうにもならなくなると分かっていたが、もはや諦めなければならない結末が来ることを受け入れる 準備もしていた。 窓をひとつ隔てただけの外の世界から切り離された彼の首がほとんど文字化されてしまったことがかなしかった。 夢は一向にさめる気配を見せず、時計は止まったままで太陽も中途半端な位置で停止している。 俺は起きることも眠ることもできず、ぼんやりと早乙女の首を眺めているうちにどんなにあがいても手遅れであることを 悟ってしまった。 何がどう手遅れなのか上手に言葉に置き換えられないのはたぶん、俺がその事実をしっかりと理解しているからだ。 だけどこれは夢だからと俺は言い訳して甘えている。 「俺は、どうすればいいの」 ベッドの上で窓の外を見ていた早乙女に問いかけると、彼は少しばかり厭世的な目で俺を見て言った。 「そうだな、じゃあ、デートでもしようか」 答えになっていないと抗議するより早く視界は一転した。 重力と光が消え、宇宙の中を漂っているような感覚に覆われて、なんて夢らしいことだろうと思ううちに足が地上に着いた。 野外だった。 細い草が腰の辺りまで伸びていて、枯れた花が地面に散っている。 都会とは明らかに違う、つめたい空気。 そして大きな観覧車とメリーゴーラウンド、いくつかのベンチと転がった看板。 「おお、ずいぶん小さい遊園地だな」 いつのまにか俺の両手の上に乗っかっていた早乙女が笑った。 俺は、かつて遊園地であった場所に立っていた。 設置されたものは全て錆びて色が剥げ落ちてしまっていて、メリーゴーラウンドの馬は死体みたいな顔をしている。 観覧車は今にも崩れてきそうなほど傾いているし、その下では泥にまみれたマスコットキャラらしきうさぎの着ぐるみの頭が 門番のようにこちらを威嚇している。 こんなものは、遊園地ではない。 「何だこれ、これじゃあ何にも乗れないな。俺、コーヒーカップに乗ってみたかったんだけどな、お前と一緒に乗って、 お前が酔うくらい回してやろうと思ったのにな」 そう言った早乙女の声は、あのメリーゴーラウンドの馬から発せられたのではないかと錯覚するくらいに錆びてしまっていた。 「せっかく夢だってのに、けちだよなぁ」 俺はなんと言えばいいのか分からなくて黙ったままでいた。 昔は大人も子供もここで無邪気に遊んだのだろうかと想像してみても、時間を戻すことはできず、ただの陳腐な物語にしか ならなかった。 「ま、いいか。どうせ期待してなかったんだ」 言い聞かせるように早乙女が言うと、また視界が真っ暗になった。 狭まる光の中でうさぎが瞬きをした。 次に足をついた場所は、崖の上だった。 どこの山奥か知らないが、鳥が俺達の下を飛んでいるくらい高い崖の上だった。 3歩先は絶壁で、落ちれば即死だろう。 「……偶然、昨日だっただけなんだ」 ぽつりと独り言のように早乙女が語りだした。 「最初から決まってたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも全ては結果論だ。お前にもわかるだろう」 わからない、という言葉は飲み込んだ。 幼子のわがままのようで、それは早乙女を困らせるだけだ。 「煙草を吸わせてくれないか、一本でいい。俺には腕がないんだ」 抑揚のなくなった早乙女の声がばらばらになって崖の下へと落ちていく。 持っていなかったはずの煙草がなぜかポケットに入っていたので、取り出して早乙女の口にくわえさせる。 ライターが無いな、と思うと煙草の先にはもう火がついていた。 早乙女が吸うのを確認したあと煙草を口から抜いてやる。 「あぁ、やっぱりだめだ、味がしない。残りはお前が吸えよ、俺にはもう煙草を楽しむ神経もないんだ」 吐き出した煙はシャボン玉みたいに丸くなって、はじけて消えた。 俺は残りの煙草を吸う気にはなれなかったので地面で踏み消した。 「さぁ、もういいだろう。俺をこの崖の下に投げ捨ててくれ」 早乙女の奇妙な頼みに俺は首をかしげた。 ざ、という砂を混ぜる音で聞き間違えたのだと思った。 何も言わない俺に早乙女は苦笑して、再度捨ててくれと言った。 「どう、して」 「どうしてって、なぁ。ゴミは捨てるものだろう、終わったものは処分するものだろう。俺も同じだ、もう何も無いんだ。 お前もわかってるだろう」 わからないとは言えなかった。 わかっているから、わからないとは言えなかった。 これが現実で俺の思考がもっと鮮明だったなら他の方法を思いつけたのかもしれないが、俺はあがくこともせず従順に うなずいていた。 冷たい早乙女の頭を持ったまま崖の先へと進む。 一歩進むごとに睡眠薬を飲まされたようにどんどん意識がぼんやりしてきて、早乙女の声も耳に届かなくなった。 この体は誰のものだろう、このまま進めばどうなるのだろう、どうしてこれは夢ではないのだろう。 頭のてっぺんから喉の奥につながった一本の線から放出される眠気と血の抜けていくような感覚に支配されながら 崖の先で止まった。 早乙女の顔をこちらに向けると、早乙女のいたずら好きな子供のように笑った口がお別れだと動いた。 彼の頭を抱えたまま体を前に倒してしまうのが最善のような気がしたが、そんなことしたって俺と早乙女の間には濃い 境界線が引かれているから無駄なことだった。 どうしてこれは夢ではないのだろう。 けれどもし本当に夢だったら、明日は彼と遊園地に行ってみたい。 この期に及んでまだ杞憂かもしれないと期待するなんて、俺はこんなにも未練がましい人間だっただろうか。 両手を離した瞬間に早乙女が俺の中から消えるなんて都合のいい話があるのならばそれで済む話なのだけれども。 崖の下へと落ちていく首の方こそ、何も、わかっちゃいないのだ。 END