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30.もう、友達じゃいられない 「帰るの?」 まだ暗い部屋で文は休む間もなく身支度を整えてしまった。 色濃いにおいが残る部屋で、文はもう別の人格を持ってしまったみたいだ。 「長居する理由もないですからね」 にこりと笑った文は、ついさっきまで、私の下で淫らに喘いでいた。 それが演技なのかどうかは私にはわからなかったけれど、今の笑顔はたぶん嘘の笑顔。 万人に向けるための文の笑顔が、私は嫌いだ。 仄暗い青に染められた外の空気は私の部屋には入ってこないまま、いつまでも不健全で不明瞭な文と私の情事だけを漂わせている。 だから私は彼女に休んでいけばいいのになんて絶対に言わない。 もうあの文は私が欲しがった文じゃないから。 真っ暗の部屋の中で触れ合ったやわらかい肌と体温、汗ばむ頬にキスをして、困ったようにはにかむ文の服を全部脱がして、言葉もなくじゃれあうように体を合わせた。 そうするのが当然だと思った。 酒を持った文が私の部屋を訪れたときに、そう思った。 私と文は友人、あるいはライバル同士だと周りからは認識されているけれど、本当はもっと面倒な関係を築いてしまっている。 私は文の泣き濡れた瞳を知っているし、文は私の欲情した息遣いを知っている。 彼女の緊張した体の硬さも、乱れた髪の散り方も、どこに触れれば震えるかも、全部知ってしまった。 「もう、私たち、友達じゃないね」 いつもの格好で部屋を出ようとする文に意地悪くそう言ってやると、彼女は忌々しげに振り向いた。 「はたてを友達と思ったことは、一度もないけれど?」 「そっか。素敵ね」 少しだけ彼女の声が枯れているのも素敵だと思った。 人を食ったような笑顔があんなにまで壊れてしまう様子を、私は確かに見たのだ。 甘い吐息が漏れる口に自分の唇を乗せてささやいた言葉は彼女の中にどのようにして入っていっただろうか。 熱い手を握り合って混ぜ合った視線はきっともう彼女の記憶に馴染んでしまっただろう。 「じゃあ、またね、文」 今日はお天気がすごく良くなるだろう。 だけど私はしばらく窓もドアも開けず、この密室でもう一度あの記憶を最初から体験しようと決めている。 お酒を一緒に飲みましょうと文が無邪気に笑った瞬間から、何度も何度も記憶を再生して、私にとっても、彼女にとっても忘れられない思い出にしてしまおう。 「素敵。とても素敵ね」 湿ったシーツに顔をうずめて私は身をよじった。 END