空間的狼少年

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※最終回後

迷路の糸


人間界に戻ってから多くの国を巡ったが、我輩の目にはどこも同じ人間の国としか映らなかった。
長年行動を共にしてきた弥子も最初は行く先全ての国で感動を表していたがそれも最近では見なくなった。
出会った頃は少女だった弥子が大人の女になる様子はなかなか面白く、彼女はずいぶん寛大な性格になっていた。
それは我輩も同じで、彼女が高校生だった頃は毎日のようにちょっかいを出して遊んでいたが、
いつの間にか言葉だけのやり取りしかしなくなっていた。
仕事以外では別々に行動することも増え、互いに知らない交流関係を持ち出した。
世界中に謎は溢れているし、まだまだこの世界にとどまるつもりでいたが、潮時だと感じた。
もう弥子は大人で、子を残さなければならない。
魔人である我輩にその役が務まるわけもなく、弥子は誰か別の人間と寄り添い生きていくのだ。
世界は変わるものであることくらい知っている。
歴史は何度も始まり、終わり、また始まるものだ。
人間である弥子はその輪廻に取り組まれなければならない。
ロンドンの空港で飛行機を待っているときに弥子にそれとなく話をすると、彼女は驚くほど従順にうなずいた。
逆らえぬようにしてきたのは自分だが、なぜか抗って欲しいという気持ちがあった。
それからしばらく経って、仕事を終えフィレンツェのホテルに泊まったときのことだった。
弥子はなんでもない雑談のように、私結婚すると言った。
相手はイタリア人の外交官でとてもいい人なのだと。
反対する理由などどこにも無かった。
新しい奴隷を見つけなければならないことを考えると億劫だが、最初から未来は決まっている。
人間が死ぬための細胞を持っているのと同じように、終わりは誕生の瞬間から決められている。
我輩はゆっくり目を閉じて、分かったと言った。
弥子はイタリアで永住するので一度日本に帰らなければならないが、予約されている分の仕事は
終わらせることにした。


人間界の空気が魔界とは全く違うことくらいなら我輩にもわかる。
弥子は日本と外国では空気も水の味も人の思想も全然違うと言うが、我輩にはその機微が理解できない。
寿命の長い魔人は、そう簡単には進化できない。
弥子の実績は伸び続け、安いビジネスホテルばかりの頃とは違い今では高級ホテルにも泊まれる。
飢餓に苦しむ子供に弥子は手を差し伸べなくなり、目の伏せ方を学んでいた。
傲慢な富豪に弥子は文句を言わなくなり、言葉の使い方を学んでいた。
日本の知人や友人とも連絡を取らなくなり、母親とも別れることになった。
あんなに慕っていた刑事の墓参りにも行かなくなった。
彼女は上手な生き方を学んだ。
姿の見えない虫が一晩中鳴き続けていた。


結局、挙式はあげられず、弥子がウェディングドレスを着ることはなかった。
不幸なことに相手の男性が何者かによって殺されてしまったのだ。
完璧な犯行で警察はお手上げ状態。
しかし恋人を殺された可哀想な女は有名な探偵。
弥子は泣きながら絶対に犯人を見つけると宣言した。
けれどそこに香るのは人工的な不味い謎の匂いで、我輩は興味を持てなかった。
よく知る者の香りも混ざっていた気がしたのは、きっと気のせい。


海がきれいでとてもいいところ。
弥子は海岸で手帳を取り出して言った。
2ヶ月経っても3ヶ月経っても犯人は行方知れずで、警察はすでに手を引き始めていた。
弥子は仕事の傍ら恋人を殺した犯人を捜したが努力は報われなかった。

「わたし、希望を絶たれてしまったの」

まるで歌うように弥子が我輩に語りかける。

「しあわせな女になるはずだったの」

少し、しわが見えるようになった。
少女の面影は残っているが、彼女はどんどん老いてゆく。
成長を終えた人間は衰えるだけだ。

「ねぇ、ネウロ。わたしのおなかにね、あの人の赤ちゃんがいるの」

膨らみ始めた腹を撫でて我輩のスーツの裾を引く。

「わたし、ひとりでこの子を育てられないの。ねぇ、だから、ネウロ」

この子のお父さんになってあげてよ。

驚いて弥子を見ると、彼女は恋人を殺されたとは思えないくらい朗らかな笑顔だった。
今まで何百人と悲惨な人間を見てきたが、誰一人こんな顔をしてはいなかった。
人間には悲しいという感情があり、そのために皆顔を醜く歪めていた。
海の風はべたつくので我輩はあまり海が好きではない。
だが潮風に吹かればらばらになる髪を押さえた弥子は聖母のようで、ひとつの宗教のようだった。

「貴様が、そうか」

謎ではなかったので解く気にもならない事件だったが、今すべてを解き終えた。
やはり人間は不可解だ。
泣きそうな弥子の肩を引き寄せると僅かな震えが伝わった。
考えてみれば、我輩が感じていた別離を彼女が感じていないはずが無い。
弥子は幸せを捨てて永遠を欲した。
我輩は彼女の唯一の願いに応えてやらねばならない。
罪を犯してまで欲した久遠を。

End