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※パラレル 17〜18世紀くらい 古城 「今日は、かぼちゃのパイを作ったんです」 静かな広間のテーブルに、焼きたてのパイが置かれた。 甘いにおいが夜に冷やされた鋭い空気を暖めていく。 「買ったもの、どこに片付ければいいの?」 「その辺に置いておいてください」 自分で買い物を頼んだくせに、古明地さとりは私が街で買ってきたものの入っている麻の袋には見向きもせずパイをすすめる。 しかたなく砂で汚れた上着を脱いで席に着くと、さとりは私の正面に座って紅茶を入れた。 ふたりで使うには大きすぎる机に、ぽつんとふたり分のパイと紅茶が並ぶ。 高い天井の広間は、夜になるとひどく冷える。 大理石の床も鉄の扉も木製の椅子もすべてがひんやりと冷たい。 窓からは青い月が黒い空の中に浮いているのが見えて、それがいっそう部屋を寒々しくさせていた。 「絵、全部売れたわ」 「それは良かった」 古明地さとりが上辺だけの言葉しか喋らないと気づいたのは、私がこの城に住むようになってすぐのことだった。 それが彼女のもともとの性格なのか、私が信用されていないのかはわからないが、彼女が私に本心を向けたこと一度もない。 不満を抱いているわけではないけども、彼女のように思ってもいないことをそれらしく喋ることのできない私には少し不公平に感じた。 「全部売れるなんて、ほんとうに、あんたの絵は人気なのね」 「パルスィの売り方が上手だからですよ」 湯気の立つ紅茶をすすりさとりが笑う。 私はそれをおもしろくない顔で見る。 これが笑顔というものです、とでも解説できるくらいさとりの笑顔は模範的だ。 「さぁ、どうぞ。食べてみてください」 かぼちゃのパイは少しバターの味が強いような気がしたが、それがまたとてもおいしかった。 私はさとりが作ったものに関して、おいしいと感じた箇所を心の中で言葉にする。 口に出して作り手に告げる必要はない。 古明地さとりは、人の心を読むことができる。 さとりがひとりで暮らすこの城に私がやって来て半年が経つ。 ひっきりなしに砂嵐が巻き起こる広大な砂漠の真ん中に、ひっそりとこの城はそびえ立っている。 城壁や堀、庭もなく、ぽつんと灰色の城が砂嵐の中にある様子は幻でも見ている気分だった。 ここから少し南にある王国の城のような豪華なものではないが、それなりの広さで、それなりの人数の人間が住むことができる設備を持っている。 けれど私がこの城に逃げ込んだとき、城には年端のいかない少女がひとりいるだけだった。 誰もいない過去の遺物だと思っていたので人がいることには驚いたが、彼女の他には誰もいないことにも驚いた。 薄紅色の短い髪に丸く白い頬の少女は私の訪問を何の疑問も抵抗も抱くことなく受け入れた。 彼女の胸には大きな瞳の飾りがあり、そこから繋がったつたのような紐が彼女の体に巻き付いていた。 幼い彼女にはその不気味な瞳の飾りは不釣合いで、私は不本意ながら彼女を恐ろしいと思った。 青白い月がやけに近くに見える夜の日だった。 血を流し足を引きずる私を労わり心配してくれたが、すぐにそれが言葉だけの気遣いだとわかった。 怪我をした人にはこういう言葉をかけるべきだという知識によって彼女は私と対話をしていた。 裁判官ですらも時には感情を混ぜた発言をするというのに。 静寂と共存するさとりは私を手当てしたあと、寝室を用意してくれた。 他に使う人もいないから好きに使って下さいと言ったときのさとりからは全く感情が感じられなかった。 それは広い城でひとりで暮らす彼女の孤独の表れなのだろうかとも考えたが、どうやら本当に彼女は私に対して何も思うところはないらしい。 さとりは他人がいることにもいないことにも無関心だった。 たとえ彼女の話し相手が砂漠の砂の粒だけだったとしても、彼女にとっては全く孤独ではないのだ。 その翌日私が広間に行くとふたり分の朝食が用意されていた。 私が厚く礼を言うとさとりは何でもないことですと笑った。 そのときはそれがひとり分を作るのもふたり分を作るのも変わらないという意味なのかと解釈していたが、今になれば誤りであったとわかる。 さとりにとって私が彼女のそばにいようがいまいが、何でもないことなのだ。 だから私が行く当てがないということを示唆したとき、さとりはここでしばらく暮らしますかと私の顔も見ずに食器を片付けながら提案した。 故郷を逃れ帰る場所のないかわいそうな怪我人に向けるには最適の言葉だ。 私は昨晩のさとりの振る舞いから、彼女がそう言ってくれるだろうと予想していたので遠慮の言葉を述べながらもその提案に甘えることにした。 私はなんとしてでも生き延びなければならないのだ。 しかしこの展開は、私の予想が当たったというわけではなかった。 食器を片付けたさとりは振り返り私の目をじっと見つめながら挑むように笑った。 「ここであなたと生活することに私は反対しません。ですが私はあなたの心が読めます」 考えていること、感情。それらが自然と心に流れてくる、と言った。 「そんな私と一緒でも良いのなら、ですけれども」 ただの飾りだと思っていた胸の瞳がぎょろりと動いた。 さとりの声は氷の海のように固く冷たかった。 さとりは絵描きだった。 絵を描いて、それを街で売った金で生活しているという。 さとりの絵は芸術などまったく理解できない私が感心して息を呑むほど繊細で優美で壮大だった。 素朴な風景画から過激な宗教画まで何でも描くさとりは、カンバスに向かっている間は悩ましげに顔をしかめたりもしたが、完成した絵には無関心だった。 乱雑にベッドに放り投げてあったり、ひどいときは廊下の隅に転がっているときもあった。 一応売り物なんだから、と私が注意してからは指定した場所に置くようになったが、それでもやはり完成品に愛着はないようだ。 さとりの自室に昨日買ってきた日用品や絵を描く道具を持っていくと、さとりはカーテンを開けた窓のそばで絵を描いていた。 「今回は何の絵なの?」 「時間です」 「時間?」 まっしろの紙には薄い青と黄で円のようなものが重なり合うように描かれている。 さとりは最初に薄い色を使い、だんだん濃い色を使う癖があるから、これはまだ描き始めなのだろう。 「目に見えるものだけを描いていては退屈ですから」 「そんなもの、描けるの?」 「パルスィにだって描けるものですよ」 絵の中でも抽象画というやつは特に理解できない。 もし私が適当にぐるぐるの円を描いてこれが時間の本質だと言って、世界中の人間になんと芸術的だろうと褒め称えられたとしても、いったいこれのどこに価値があるだろうか。 さとりの絵を見ながら首をかしげていると、さとりはおかしそうに笑った。 「絵の価値は個々にしか認められません。世界の中のたったひとりが、私の絵を欲しがってくれればそれでいいんです。私が生きるのにはそれだけで十分ですから」 さとりは生活のために絵を描いている。 芸術はどうあるべきだとか、最近の絵についての批判だとかはさとりの口から聞いたことがない。 それでも彼女は芸術家に媚びるような絵は描かず、自分の描きたいままに筆を取っている。 さとりはあらかじめ用意した台本を読み上げるようにしか私と会話をしないが、この絵は彼女の心のままに描かれているのだろうと思った。 砂漠にあるこの城は昼になるとかなり温度が上がる。 しかし窓を開けていると砂が吹き込んでくるので、風の強い日は締め切ってじわじわとした暑さに耐えなければならない。 どうしてこんな生活しにくい場所に城があるのかと尋ねたことがある。 さとりの素性をそれとなく聞き出そうという目的のためであったが、さとりはどうしてでしょうね、と笑っただけだった。 私はさとりについて何も知らない。 いつからここに住んでいるのか、以前には人が住んでいたのか、どうしてひとりなのか、どうして絵を描くだけの日々をすごしているのか。 唯一知っているのは名前と、妹がひとりいるということだけだ。 何度もさりげなく情報を得ようとしたが成功したためしはない。 さとりが人の心を読めるというのは本当だったのだ。 私が暑いと思えば、暑いですねと言葉で返し、腹が減ったと思えば、そろそろ夕食にしましょうと厨房へ向かった。 最初はなかなか便利な能力じゃないかと羨んだが、彼女は自分の能力を嫌っていた。 街へ行くと多くの人の感情が自然と流れ込んできてひどい苦痛を感じるのだという。 それは数少ない彼女の本心の1つだと思ったので、私はここにおいてもらっている代わりに街への買い物には自分が行くと申し出た。 さとりは喜んでくれた。しかしその喜びは形式的だった。結局それも思惑通りだった。 さとりは一度も私の過去について尋ねたことはないが、私の心を読んで私が自分から話し出すようにしむけたことがあった。 さとりの部屋に飾ってある風車の絵が故郷の風景に似ているなと思ったとき、パルスィの国には風車があるのですかとさとりは目を輝かせた。 さとりは一度も風車を見たことがなく、いつか緑の丘で回る風車を見てみたいと言った。 私は故郷の風車の話をした。さとりは嬉しそうに話を聞いた。 しかしそれもやはり形式上の振る舞いだった。 それならばどうして私の過去を聞きだそうとしてくるのかと問い詰めると、さとりは困ったように謝罪して、もう聞き出すようなことはしませんと言った。 そんなものは答えではないと私は強く詰め寄ったが、彼女は謝るばかりで何も答えようとはしなかった。 私はさとりが意識的に私との対話を舞台上のできごとのようにしているのだと確信した。 隠していただけで、彼女は私の訪問をちゃんと状況の変化として認めている。 最初にさとりから与えられた寝室は今は私の自室となっている。 ベッドのほかにはサイドテーブルと衣装ケースがあるだけの簡素な部屋だ。 ここへ来たときに携えていた剣はベッドの脇に立てかけてある。 もう少しすれば、ここを出て行かなければならない。 燃え盛る炎が故郷の街の家々を焼き払っていく光景、仲の良かった人たちの断末魔、ゴミを扱うように死体を投げ捨てる兵士ども、逃げ惑う私の両親を無表情で銃殺した若い指揮官。 それらを忘れた日は一度もない。 私がこんな砂漠の真ん中までやって来たのは、故郷を失ったからだけではない。 愛する故郷を滅ぼした兵士たちが小鳥のさえずりで目覚め、あたたかい毛布を抜けて爽やかな空気の中で呼吸をし、仕事へ行き、談笑し、食べたいものを食べ、酒を飲み、 夜にはまたあたたかな毛布にくるまって眠る、そんな生活をしていることが許せなかった。 私を、私の周りの人たちを不幸に陥れた報酬で幸福を得るなんて、絶対に許されてはならないことだ。 そうでなくとも、他人の幸福ほど苛立たしく感じるものはないというのに。 「私が通っていた学校の近くには、とても大きな湖があったの。渡り鳥がやってくる、きれいな湖で、私たちはよくそこで母さんの作ったサンドイッチを食べていたわ」 夕食はいつもさとりが作る。 さとりは料理が上手で、本人も料理が好きなのだと言っていた。 「それは素敵ですね。さぞ気持ちがいいことでしょう」 ワインで漬けたサーモンのマリネは絶品で、食べきるのがもったいないほどだった。 「冬になると湖は氷って、みんなでスケートをするの。私はけっこう上手で、仲間内じゃ一番速く滑れていたわ」 さとりが私の過去を聞きだそうとしたことを謝った日から、私は毎晩夕食のときに自分から過去を聞かせてやることにした。 何かしらの目的があってさとりが私を探ろうとしたのは間違いないはずだ。 だがあれ以来さとりは一切私に関心を寄せず、私の話す故郷に賛美を繰り返す。 私はそれが気に入らなかった。 聞き出そうとしたくせに興味を示さないとは、どういうことなのか。 もうすぐ出て行くと心の内で彼女には何度も告げている。 それなのに彼女は最初に出会ったときと変わらない態度で私と知識だけの会話をする。 だから私はここを出て行く日を、さとりが私について少しでも興味を持った日にしようと決めた。 するとそれを読み取ったさとりは 「では、一生ここで暮らすことになるでしょうね」 と笑った。 怪我が治ったのにこの城に居座っているのは、意地のためだった。 ここで出て行けば私のプライドと決意は砂糖菓子よりも甘くやわらかいものだということになってしまう。 さとりは私の故郷の話を聞いて興味を持っていないくせに感動した振りをする。 本当に聞いているのかと疑わしくなり、ためしに同じ話を2日後にしてみると、さとりは2日前と全く同じ反応をした。 私が悔しく思うと、さとりはにこりと笑顔を見せた。 それで、私は、さとりがわざとこういう人を馬鹿にしたような振る舞いをしているのだと知った。 さとりは私の話したことをまともに聞くことができるのに、大げさに感動したセリフを吐いてわざとらしさを強調している。 いったいそのことに何の意味があるのかはわからないが、さとりの作為的な仮面を剥がしてやるまではここに居座るつもりだ。 さとりが私を邪魔に思うなら、少しでも本心を見せればいい。 それまでは堂々と今までどおりの生活をする。 復讐の景気づけだ、1つ上手くいけば何もかもが上手くいくし、逆ならば結果もそうなる。 彼女は私の心を読んでいるはずだから、私がいることに不満はないのだろうが、いつまでもこんな不毛な争いを続ける気にはならないだろう。 こうなれば少々手荒な手段を取ることも考慮に入れようかと悩みだしたころ、さとりはいとも簡単に素顔をさらしたのだった。 続く