空間的狼少年

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田舎の生活


見たことも無いくらい大きな蟻が地面を這っている。
名前も知らない草花の間をすり抜けて、熱い地面を這っている。
網戸のない窓を開けると青臭く生ぬるい風が入ってきて、慣れないなと思った。
生まれてから今までずっと都会暮らしだった自分には、こんな自然に囲まれた自国の田舎なんて多分数えるくらいしか来たことがない。
アスファルトはないし、建物は全部低いし、何より視界がほとんど緑で占められている。
近隣の人々はみんな閉鎖的で、よそ者の俺にはあまり良い顔をしないけどそれはたいした問題ではない。
都会では隣人の顔すら知らないこともあるのだ。
それに近所付き合いなんて、もとよりするつもりなどない。
ただ、誰よりも孤独でいられることができればそれでいい。

「あぁでもちょっと埃っぽいな。掃除しないと」

この家にある掃除道具は箒とちりとりだけ。
掃除機なんていう文明の利器は置いていない。
もちろん、テレビもラジオも新聞も電話もパソコンも無い。
唯一持ってきた携帯電話も、さっき契約を解いてきたところだから使い物にならない。
家具も全て簡易なものばかりで、ぼろぼろのこの家には良く似合っている。
いきなり人が現れたから、家の中で害虫も益虫もみんな慌てている。
そんな様子もやっぱり慣れなくて、すぐ近くにある山を眺めてみる。
あの山の向こうから、俺たちはやってきた。
隔離された世界が欲しくて、別離を曖昧なものにしたくて。
大きなトンボがいきなり視界に入ってきたから外を眺めるのもやめにして居間に向かう。
古めかしいテーブルの横で、ネウロは寝転がっている。
惰性は感じられない、むしろ重病人のようであった。
やはり網戸のない窓を開け放って、そこからだらりと手を出している。
時々緑の風が吹いて、彼の浮世離れした髪を揺らした。

「畳、汚れてるだろ。拭こうか?」

隣に立って話しかけると、彼はゆるく首を振った。
以前は鮮やかだった彼の群青のスーツには長年の畳の汚れが付着している。
そうでなくてもずいぶん退廃的だというのに。
窓枠に手を掛けて外に目をやると、子供らが田んぼの畝を歩いているのが見えた。
バケツを持った子、小さなシャベルを持った子、虫かごを持った子、網を持った子。
男女混じって列になって笑いあっている。
はしゃいだ声が、自分を世界の端っこに追いやった。

「何か欲しいものある? 買ってくるけど」

目線はぼんやりと外に向けたまま尋ねると、彼は同じように弱々しく首を振った。
だんだん瞼が重くなってくる気分になった。
庭に誰かが植えたイチジクの木に、モンキチョウがとまっている。
手を伸ばしてみると触れる前に飛び去ってしまった。
欲したわけではないから、残念にも思わない。
でこぼこした木の幹は、何千年の歴史を知っているだろうか。
その下に隠れるように汚れて茶色くなった軍手が落ちている。
いつ誰が落としたものだろう。
この家はもう十年は人が住んでいなかったのだと聞いた。
人のいない間は近所の子供らが秘密基地として使っていたらしい。
だから多分、あの子供達にも憎まれているだろうな。
大事な秘密基地を奪ってしまったのだから。

「携帯解約する前にさ、弥子ちゃんからメールがきてたんだ」

桂木弥子の名を出すと、彼はぴくりと反応した。
彼が最も親しくしていた少女。
底抜けの食欲と明るさが印象的だった。

「ネウロ知りませんか、って。帰ってこないんです、って」

事務所のソファーで横になる彼を無理やり車に押し込んでから、もう一月が経つ。
あの頃はまだ眠らない町に溶けて暮らしていた。

「だから、知らないよって返信したんだ」

彼はその言葉を聞くと深く息を吐いた。
絶望のようにも安堵のようにも思われた。
一月前、俺は誰にも何も言わないで、彼を自宅に軟禁した。
水も食べ物もいらない彼は家具みたいにベッドに寝転がっていた。
出て行きたいとも言わず、俺を非難することもなく。
体調が悪いらしくて、顔色も悪かった。
息もほとんどしていなかった。
死ぬの、と聞いたら毒々しい表情で笑ってくれた。

「ネウロ、箒とってくる。多分埃舞うから、外行ってて」

あの表情を見たあと、今までにないくらい俺は行動的になった。
次の日に辞表を出して、その次の日に銀行で全額下ろして、その次の日に片田舎のこの家を新居に決めた。
もちろん下見なんかしてない。
そしてその次の日から引越しの準備を始めた。
突然仕事をやめたもんだから、上司も同僚も部下も、みんな驚いてた。
ひっきりなしにメールや電話がかかってきて、でも電源を切って全部無視した。
家を訪ねてくる人もいたけど門前払いで追い返した。
上司には、またそうやって逃げるのかって罵倒されて殴られた。
それでも意志を変えないのはもう足掻きようがないから。


この家にもとからあった手作りの箒は、おそらく子供らに振り回されたのであろう、半分に折れていた。
車から買ってきた箒とちりとりを下ろすと、ひどく不釣合いに映った。
畝を歩く子供達は、田んぼのおたまじゃくしを捕まえようと必死だ。
遠くでは鶏の声が聞こえるし、車が走る音もほとんどしない。
家のすぐ後ろは山で、たくさん杉が植わっている。
獣道みたいな細い階段を上ったところには、いくつも短い木の幹を交互に立てて椎茸が育っている。
新品の香りのするよそ者の掃除道具を携え、小さく首を振ってから屋内に戻る。
家具は何も持ってこなかったから、自分の車だけで間に合った。
冷蔵庫、炊飯器、鍵、洗濯機、電気。
都会にいたころは無駄なものばかり持っていたものだ。

「ネウロ、掃除するからちょっとそこどいてくれる」

さっきと変わらぬ格好で彼は目を瞑っていた。

「ねぇ、笹塚さん。僕、死んでしまいそうです」

ほとんど口も動いていないようだが、はっきりと聞こえた。
久し振りに、彼の声を聞いた。
都会にいた頃、彼は喋るのも億劫だと言って、ずっと黙ったままだった。
たまにほんの一言二言呟くように言葉を漏らす程度だった。
嘆く風でもなく、淡々と彼はもう一度死んでしまいそうですと告げた。

「……掃除、するから」

「笹塚さんも死にそうですか?」

彼の言葉は色あせた畳に吸い込まれた。
今にも崩れそうな家の中で、俺は立ち尽くした。
彼には嘘が通用しない。
ずっと隠してきたのに。

「何でそう思ったの」

「だって、都会の人がこんな田舎に来る理由なんて、病気の療養くらいしかないでしょう?」

その通りだった。
一月前、俺は残念ながらあと半年でしょうね、と言われた。
生死の匂いが入り混じる診察室で、もってあと半年です、と。
初老の医師は淡々と病気の説明をして、入院しますかと俺に聞いた。
何の感情も湧かないまま俺は首を横に振った。
その後は延命治療の話とか、薬の話とか、いろいろあったけど、何も覚えていない。
痛み止めの薬だけもらって病院を出て、ぼんやり適当に車を走らせた後、探偵事務所に向かった。
本当は弥子ちゃんに会いに行くつもりだった。
彼女なら何か言ってくれると思った。
一緒に悲しんでもらえるとおこがましい願いを抱いていた。
でも事務所にいたのは死人みたいにソファーで眠る助手だった。
その様子を見て、俺は彼にもおこがましい願いを抱いた。
彼を起こして何の説明もしないで、車に乗せた。
そのときにはもうばれていたのかもしれない。
彼は黙って目を瞑って後部座席に座っていた。
家に連れて帰っても文句一つ言わず、事務所にいた頃と同じように死人みたいに眠った。
引っ越すと決めたとき、彼に一緒に来てくれるかと聞いたら、また毒々しく笑ってくれた。

「…ごめん、つき合わせて。帰りたかったら言って」

手が緩んで箒が滑り落ちる。
最近上手く物を持つことができない。

「大丈夫です、ここまで来たらもう帰りませんよ」

痙攣する手を握り締めて後悔と背徳を潰してしまう。
流れ込む自然の空気はおそらく俺を邪魔に思っている。

「ネウロ、最後の願いがあるんだ」

目眩がした。
世界が歪んでいる。
彼はいびつに笑っている。

「一緒に死んで、くれる」

暗転したのは、彼の凝固した瞳が蕩けた瞬間だった。

End
イメージは題名の通りスピッツの「田舎の生活」