Main
冬の傷 ユゥイはキッチンが好きだ。 キッチンと言うよりも、料理のできる空間と言ったほうが正しいかもしれない。 料理をしていないときの、静かに出番を待っているフライパンやローリエや菜箸なんかを電気の付いていない状態で見るのは、 舞台裏で休む役者を覗き見しているでおもしろい。 好きなことを仕事にするのはよくないと時々聞くが、ユゥイは料理人になれてよかったと思っている。 苦悩は確かにたくさんあるが、それも含めて仕事はとても楽しい。 とは言ってもやはり苦悩は苦悩だ。今のこれも、苦悩のひとつだ。 ユゥイは肌が繊細で、どうやら日本の洗剤が合わなかったらしく、そこに空気の乾燥も加わって秋ごろから手荒れに悩まされていた。 薬は薬局で買ったがそのまま薬箱の中で眠っている。 しょっちゅう水を使うから、薬を塗ってもすぐに流されてしまい意味がないと思って塗らずにいてしまう。 眠る前に塗ればいいのだけれど、習慣がないために忘れてしまう。 でもそろそろ本当にどうにかしないと、とひび割れて痛々しい指をさすった。 昨日はまだそんなにひどくなかったのに、たった一日でかなり悪化している。 こんな手で作られた料理なんて誰も食べたくないだろう。 後ろのリビングでソファに座ってテレビを眺める黒鋼にだけは、絶対に手を見られたくないとユゥイは強く思った。 今日はファイが一番遅くに帰ってくる。 いつもは一番に帰るのは非常勤のユゥイだから、ファイと黒鋼が帰宅する前に3人分の夕食を作るのが最近の日常だ。 今日は珍しく黒鋼の帰宅が早かった。 昨日の日曜日が部活の試合で、今日は生徒も疲れているだろうから部活は休みにしたのだと言っていた。 たまには手伝おうかという彼の申し出を断り、ユゥイはひとりキッチンに立っている。 冷蔵庫を開いて献立を決めて、材料を取り出す。 それから冷凍してある小松菜を横に置いて、冷たさに痛む指をじっと見つめた。 こんな手で料理したら、汚いとか、思われないかな。 暖房はしているけれど今日はとても寒い。 料理中に赤い傷から血が溢れ出すことは目に見えていた。 指サックを買っておくべきだったと後悔するが、いまさら遅い。 どうにかばれないように、とそっと後ろを窺おうとしたところで、すぐ近くに大きな影を見た。 「その手、どうしたんだ」 全く気付かないうちに、黒鋼がユゥイのすぐ後ろまで来ていた。 どうしよう、とユゥイは反射的に両手を自分の後ろに隠そうとしたが、右手を黒鋼につかまれてかなわなかった。 「ひどいな」 眉を寄せて黒鋼が言った。絶望的な気持ちでユゥイはそれを聞いた。 ごめんなさい、と呟くと黒鋼は首をかしげた。 「いやですよね、血が混じったご飯なんて」 舌が歯に張り付いて上手く喋れなかった。 つかんだ手を握り潰してくれればいいと思った。 黒鋼はさらに眉間の皺を深くすると、ユゥイをリビングへ引っ張って行って、手をつかんだままテレビの脇に置いていたチューブを取って蓋を開けた。 「それは?」 ユゥイが尋ねると、黒鋼はチューブからひねり出した薬のようなものをユゥイの手を包み込むようにして塗りこんだ。 「こんなになるまで放っておくな。さっさと治して、ちゃんとハンドケアしろ」 咎める言葉に、ユゥイは小さく笑い声を上げた。 「なにがおかしいんだよ」 「いえ、あなたの口からハンドケアなんて言葉が出るとは思わなくて」 むっとした黒鋼は、それでもユゥイのもう片方の手を取って同じように薬を塗りこんだ。 しっかりと傷口に塗りこむものだから、何度かぴりりと痛みを感じたが、これなら明日にはいくらか良くなっているだろう。 大きな、力強い手は父のようで、ファイがよく黒鋼をお父さんとからかって呼ぶのもわかる気がした。 「ありがとうございます。でもどうしてこんなもの持ってるんですか?」 黒鋼の手はいつも健康的で、手荒れなんてものとは無縁だろうに。 ユゥイの質問に黒鋼は、どこかばつが悪そうに声を低くした。 「……おまえの兄貴も、冬になるとすぐ手をやられるからな」 それを聞いた瞬間に、どろどろの沼に引きずりこまれる感覚に陥った。 ファイもきっとあの手に優しく包まれて薬を塗ってもらったのだろう。 甘えたの兄のことだから、自分から塗ってと彼に擦り寄ったかもしれない。 でも、そうか、とユゥイは静かに納得した。 そうでもなければ、この男からハンドケアなんて言葉が出るはずがない。 おかしくもなんともないことだったのだ。 ファイの手はユゥイのように荒れてはいなかったから、たぶん、風呂上りにハンドクリームでも塗ってもらっているに違いない。 「ボクも気をつけないといけませんね。薬、ちゃんと自分で塗るようにします」 ユゥイは黒鋼の持つチューブの薬品名を盗み見て、キッチンに向かおうとした。 しかし3歩進んだところで、せっかく塗ってもらったのに、すぐに水で流してしまわなければならなくなることに気が付いた。 どうしようかと逡巡していると黒鋼がユゥイの隣を通り抜けてキッチンへ向かって行った。 声をかけると黒鋼は並べられた材料を見て、今日はいい、と言った。 「俺がやるから、おまえは水を使うな」 「でも、黒鋼先生」 「……あー、指示だけ頼めるか」 ユゥイは微笑んで黒鋼の隣に立った。 「きっと、ファイも喜びますよ」 「何がだ」 「黒鋼先生の手作りだ、って」 そんなことない、と黒鋼は言うけれど、絶対にファイは飛んで喜ぶだろう。 ユゥイはキッチンが好きだ。 自分が使えなくても、他人が包丁やみりんやしゃもじを使っているのを見るのも、とても好きだ。 それなのにいつも自分が使っている道具を彼が手にしているのを見ても何とも感じなかった。 何とも、とは違うかもしれない。透明の虚脱感だろうか。 両手には彼の手の暖かさが残っている。 明日にはもう、全て水に流されてしまっている。 黒鋼がまずどうすればいいかと指示を求め、最初に味噌汁を作っておきましょうとユゥイは流し台の下から小さい鍋を出した。 End