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ヒトはサルへと進化する 暗い部屋でひとり毛布にくるまって隠れるようにファイは息を潜めていた。 吸血鬼の体になってから夜はなかなか眠れない。あまり眠りを必要としない。 ごろんと仰向けになって真っ暗な天井を見つめると、無いはずのものまで見えてしまいそうで怖くなった。 本来形を持っていない怒りや憎しみや悲しみが、具体的なイメージで瞳の奥に現れる。 それらを打ち消そうとぎゅっと強く目を瞑るけど、明日になればそれらは現実としてファイに襲い掛かる。 何度、このまま夜が明けなければいいと思ったことか。 それでも機械的に時間は進み朝は幸せな人にだけ幸福を与える。 静かな暗闇の中、ファイは心の中で明日少女に向けるための笑顔の練習をした。 「ファイ、眠れないの?」 同じベッドで寝ていたモコナが起き上がってファイの頬に手を当てた。 最近はサクラと寝ることが多かったモコナだが、今日はファイと寝ると言ってすぐにファイのベッドに潜り込んだのだった。 「ごめん、起こしちゃったね」 「ううん。モコナも、なんだか眠れないの」 モコナの柔らかな両手がファイの手に触れる。 悲しんでいる人を癒すことの出来るこのぬくもりをファイは羨ましく感じた。 「ファイ、大丈夫? 傷は痛くない?」 ファイの胸に擦り寄るモコナが尋ねる。 「大丈夫だよ。心配させてごめんね」 ファイが笑ってもモコナは誤魔化されない。 他人の辛さや寂しさがわかるのだと、以前モコナは言っていた。 モコナがどう思っているのかはわからないが、ファイは自分がサクラのように心から笑えないことを申し訳なく思っていた。 自分がちゃんと笑えないせいでモコナにも寂しい思いをさせている。 だから本当は、こんな日はモコナと一緒にいたくはなかったのだけど、モコナは頑なにファイのベッドから出ようとしなかった。 「ねぇ、ファイ」 モコナが苦しそうにファイの頬を撫でる。 こんなに優しい生き物に、こんな顔をさせたくなんてないのに。 「ファイは、黒鋼のこと、嫌いになったの?」 今日の夕方、ファイは黒鋼の血を飲むことを拒んだために、黒鋼から暴行を受けた。 と言っても黒鋼はどうにか血を飲ませようと必死になっていただけで、それは動物が混乱して暴れているようなものだった。 今は死ぬわけにはいかないからと、ファイは最低限生きるための血は飲んでいたのに黒鋼はファイの体が満足するまで血を与えようとするから、 その自分勝手な行動に苛立ったファイが絶対飲まないと言って黒鋼から逃げようとしたのが原因だった。 黒鋼もファイの態度が気に入らなかったようで、部屋から出て行こうとするファイの腕を掴んで床に引き倒し、頭を床に叩きつけて無理やり口を開かせた。 それでもファイは抵抗を止めず長く伸びる爪で黒鋼を威嚇したが、全く恐れる様子のない黒鋼は立ち上がってファイの鳩尾を強く踏みつけた。 冷たい目でファイを見下ろす黒鋼は、何度もファイを蹴りつけた。 だけど冷酷な赤い瞳の奥にはベールで隠されたやり切れない後悔があった。 力技で黒鋼に敵うはずもなくファイはされるがままに床に転がって、そのうち気が済むだろうと痛みを堪えていたが、きぃと扉を開く控えめな音が聞こえたと思うと、 すぐに叱責するような悲鳴が続いた。 何してるの、と大声を上げたのはモコナだった。 不穏な空気を感じ取ってやって来たのかもしれない。 モコナは動きを止めた黒鋼の足にしがみついて、やめてと泣きながら懇願した。 苦々しい表情でそれを見下ろす黒鋼はファイの上から足を退かし、机に放り投げていたリストバンドを腕にはめた。 どうしてこんなことするの、とモコナは問うが、たぶん黒鋼にも理由はわかっていないだろう。 ファイのこと嫌いなの? だからファイにひどいことするの? ファイがまた黒鋼をからかったの? それで怒ったの? そのまま出て行こうとする黒鋼の前に立ってモコナは涙をこぼしながら訴える。 しかしそのどれもが正しい理由ではない。 黒鋼はファイを嫌ってはいないし、ファイが以前のように黒鋼をからかうことはもう二度とないし、怒りにまかせてファイに暴力を振るったわけでもない。 それはモコナもわかっているだろうけど、そうであればいいとして言っているようだった。 そんな単純な理由なら、きっとすぐに解決できる。 色々あっていらいらするのもわかるけど、ファイにひどいことしないで。 モコナを避けて扉を開けた黒鋼にモコナが続ける。 もし、悲しくて、辛くて、どうしようもなくなったら、モコナを殴って。 そう言った瞬間に黒鋼は足を止めたが、振り返ることなく出て行った。 ぱたんと閉まる扉の音が滑稽なほど明るく響いた。 そのことを気にしてモコナは夕方からずっとファイの傍を離れなかった。 「オレは最初から黒鋼のことは好きじゃなかったよ」 モコナの小さな頭を包み込むようにして撫でると、モコナはゆるく頭を振った。 「ファイは、モコナに嘘は通じないってわかってるのに、嘘をつくね」 そう言ってモコナはファイに背を向けた。 「モコナが人間なら良かった。そしたらファイをぎゅってしてあげられるのに」 「モコナはそのままでいいんだよ。人間なんかになっちゃだめだ」 「でも、人間だったら、ファイの苦しさを取り払ってあげられたかもしれない」 「人間じゃないモコナだから、こうして一緒にいて救われてるんだ」 肩を震わせて泣いているモコナを抱き寄せて一緒に毛布にくるまる。 こんなに小さな生き物なのに人間のように苦しむ姿をファイはかわいそうだと思った。 人間と同じように考え、喋ることができることは何よりも残酷なことだった。 「ごめんね。モコナが他人の感情に聡いって知ってるのに、オレは笑ってあげられない」 「どうして謝るの。どうしてファイは全部自分のせいだって思うの」 「実際、そうだからだよ」 「違うよ。違うのに、ファイが納得できるような否定ができないのは、モコナが人間じゃないからなの?」 「否定する必要がないから否定できないんだ。モコナは正しいよ」 ひどいことを言っているとファイは自嘲気味に笑った。 どうしてモコナと違って自分は他人を傷つけることばかりするのだろう。 ファイの腕にしがみついて泣き声を抑えているモコナを撫でて落ち着かせようとするけど、モコナは泣き止まない。 東京を出てから、モコナは泣いてばかりだ。 あんなに毎日楽しそうにはしゃいでいたムードメーカーが、悲しくて悲しくて泣いている。 やがて泣き疲れて寝入ったモコナから手を離してファイは寝返りを打った。 明日もまた誰かを傷つけるのだろうと思うと、いっそ魔法を使って月を真上で縫い付けてしまおうかと、そんな考えがよぎった。 END