空間的狼少年

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※笹塚さん死後です

彼岸花 


波の音がするのでゆっくりと目を開けてみると、おれは粗末な小舟に乗っかっていた。
どうしてこんなところにいるのかは分からないが、抗ってはいけないことだけはよく分かっていた。
小舟は勝手にどこかへ揺れながら進んでいて、舟にはおれ以外何も乗っていない。
暗い場所で奏でられる笛の音のような揺らめき方で深い霧の中を進んでいた。
四方は霧のせいで何も見えず、有限などないとさえ思えるくらいだった。
湖だか海だか知らないが水は白く濁っていて、もしかしたら恐ろしく深いのかもしれない。
手を水中に差し込もうと体を乗り出すと誰もいないはずの場所から声がした。

「その水にさわってはいけませんよ」

見ると、青と黄色の煙がおれの反対側でおぼろげに浮かんでいる。
声はその煙から発せられたようだが、この人はいったい誰だろう。
(おれはすぐにこの煙が煙ではないとみやぶっていた)
粒子のような青い煙は厭世的で、絹のような黄色い煙は利己的であるらしい。
だけどおれはその得体の知れない煙に確かな懐かしさを感じていた。

「ぼくはね、あなたに裏切られてしまったんですよ」

静まった舟に森のざわめきのような音がし出した。
この人はいったい誰だろう。
思い出さなければならない気もするが、おれはそうすることに強いためらいを持っている。

「だけど、ぼくは怒っていません。ただ、世界が色を失ってしまったんです、それだけなんです」

どうしてこの人はこんなに悲しい目をしているんだろうか。
おれに原因があるには違いないのだろうが、この人はおれを嫌っていない。
それなのにこの人の奥にある深緑の心は過去の喪失に打ち震えている。
この場所についてもおれ自身についても何も疑問は抱かないのに、この人のことだけは知りたくて
仕方ない。
多分おれはこの人に謝らなくてはならないのだ。
なにかとてもひどいことをしてしまって、だからこの人はこんなに辛そうにしている。

「向こう岸に着いたら、あなたはきっと全て思い出します。そのときあなたは悔悟の情に
 ひれ伏すでしょう」

おれには、はっきりとこの人の慟哭が聞こえていた。
形に表すことのできない感情の起伏がこの人の中でぎこちなく渦巻いている。
今はなくなってしまったが、以前はおれにもちゃんとした心があった。
なくなったことを何とも思わないのはおれが不完全になってしまったからだ。
完全な感情があったころ、おれはこの人のこういう不器用さを哀れに思っていた。
だが、無いということがこんなに幸せなこととは思ってもみなかった。

「さぁ、着きました。この先はひとりで行ってください」

こつんと舟の先が岸に当たった。
霧のせいで陸地があるのが見えなかったようだ。
その向こうはやはり霞んでいて、何があるのか分からない。

「ぼくはあなたに伝えるべき言葉も表情もありません。あぁどうか、と祈ることさえできません」

「最後にあなたを抱きしめる体もありません。ぼくは本当はこのままひとりで帰りたくなんてないのに」

「こうなっては、あなたを責めることもできません。ぼくの美徳はどこへ行ってしまったのでしょうか」

それだけ言うと、雲散霧消しておれだけが残されてしまった。
幻みたいな人だ。
首をかしげて舟から降りて陸にあがると、矢庭におれは立っていられなくなった。
……どうして思い出せなかった、思い出さなかった!
彼の言った通り俺は悔悟に押し潰されまともに息もできなくなっていた。
もう一度舟に乗り込もうとするが、舟は俺の手を抜けて勝手に消えてしまった。
頭を巡る彼の報われぬ言葉に、しばらく俺は縋りついていなければならない。
目の前の彼岸花が俺を嘲っていた。

End