空間的狼少年

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始まる夢と終わる夢

     
「思い出せないんだ、あんたのことが」
 
「おかしなことを言いますね。僕は今あなたの隣にいるというのに」
 
助手席に座る彼が本当におかしそうに笑った。
後部座席には昨日の後悔が漂っている。
暑くもないのに冷房をかけているのは、それらを凍らせてしまうため。
運転席から後ろを覗くと、みんなどこか俺の目の届かないところへ逃げてしまうけれど。
 
狭い車内では夜を一部分しか閉じ込められなくて、恐らくこんなんじゃちっとも足りない。
もっと夜を集められれば暗闇に紛れて思い切り呼吸ができるのに。
体を窮屈に縮めるばかりでは、両手を存分に開くことさえ叶わない。

「いつ出会ったとか、どんな会話をしたとか、何も、思い出せない」
 
「それは、僕を忘れてしまったわけではないんですね?」
 
彼の不自然な黒の皮手袋がこちらに伸びてきた。
冷たい彼の手が俺の頬に触れると、やはりここは車の中なんかじゃなかった。
俺たちは見たこともない真っ青な空の下にいて、彼の金の髪が太陽と同調している。
空の終わりを考えもしないで、焦燥を隠し続けているのだ。
 
精一杯背伸びをしてみても、隣にいるはずの彼に届くこともなく俺の期待は霧散していく。
そのせいで悔悟だけが残ってしまう。
こんなに広いと、彼に手が届かないじゃないか。

「あんたに関する記憶がないなら、あんたを知らないのも同然だろう」

「確かにそうですが、では今あなたの眼に映る僕は誰ですか?」

その瞬間に突然体が浮遊感を感じた。
海だ、ここは見たこともない無限の海の中だ。
光の届かないこの世界では誰も太陽を求めない。
仄暗い安穏こそ正義であるから。
 
しかしここも俺たちにふさわしくない。
緩やかに落下していく彼の体を抱きとめることができない。
例えできたとしても、こんなに重い精神では陸に上がれない。

「……だから困るんだ。どんなに俺があんたを忘れようとしても、あんたは俺を逃がさない」
 
「ふふ、こんなにおいしそうな餌を簡単に逃すことなんてできませんよ」
  
やけに楽しそうな声は、だんだん遠のいて、目を開けたら夢の終わり。
視界は見慣れた事務所でいっぱいになる。
深く座ったソファーの背もたれに頭を置いて、ぼんやりと考えていた。
そして夢の始まり、懐疑の元凶。
がちゃりとドアの音がして、真っ青の男が帰ってきた。
 
「おや、笹塚刑事。いらしてたんですか」
 
「悪い。鍵開いてたから勝手に入った」
 
構いませんよと愛想笑の男は持っていたスーパーの袋を机に置いて振り返る。
三日月みたいな口元を動かして何か言ったけど、多分あれは人間には聞き取れない。
男は真向かいのソファーではなく俺の隣のソファーに腰掛けて、にこりと笑う。
 
「あんまり僕を美化しちゃダメですよ」
 
男は目を細めて俺を見つめる。
螺旋を描いた彼の思考にはもう、惑わされない。
落ち着かないのは、煙草を吸っていないせいだ。

End