空間的狼少年

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ごみくずメルヘン 


今日から出張だ、と脱ぎ散らかした服のしわを伸ばしながら早乙女が言った。
明け方の暗い蒼がカーテンの向こうに見える、暗い朝だった。

「京都まで行って来る。帰りは、一週間後」

視線だけで返事をして、だるい体はベッドに沈めたままでいた。
このわけの分からない男、早乙女との関係には、「なんにもない」という言葉が当てはまると思う。
彼のことで知っていることと言えば、苗字と違法な金融会社の社長だということくらいだ。
互いに素性も過去も明かさない。
また彼のことをよく知りたいなんて気持ちもおきないし、向こうも俺のことを知ろうとしない。
それなのになぜか彼は俺に対しまるで恋人のような態度で接して、俺も拒むことなくそれを受け入れる。
彼の子種を飲み込んで何かが生まれるわけでもないし、同じ部屋にいて新たな考えが生まれるわけでもないのに。
時間を無駄にしているとさえ感じるが、どうせ本能とかそんな部分が、狭い世界に一人で生きるのを拒絶しているのだろう。

「笹塚、顔上げろ」

夜のにおいを湛えたままのクッションに押し付けていた頭を持ち上げられ、口を開く前に口でふさがれた。
何の味もしない。何の温度もない。

「行ってきますのキスだよ」

「……いらない」

もう遅い、と笑う早乙女にため息をついて再び眠りについた。




早乙女のいない一週間とは、いつもと変わらない一週間だった。
彼に奪われていた時間を代替するものは睡眠しかなく、もとの生活スタイルに戻り、起きて仕事をして
眠るだけの単調で平和な1日。
ほら、いてもいなくても変わらない。なんにもない。
頭の中で呟いた7日目、家に着くと同時に携帯が鳴った。
予想はしていたが、電話の向こうの早乙女の声はやけに浮かれていた。
仕事だというのが疑わしくなるくらい楽しそうな旅行記を延々と聞かされたあと、土産があるから今から行く、と
断る間もなく勝手に約束を取り付けられてしまった。
明日も仕事なのに、と途端に静かになった部屋の中で一人ゆっくり息を吐く。
騒がしい声を押し込められた右耳がじんじんと痺れる感触がして不快だった。
幻の声を聞いたような気がした。夢の世界からの電話を受けた気がした。
この一週間は実は10年だったのかもしれない。この一週間は実は100年だったのかもしれない。
電気を消した部屋で目を閉じると、早乙女の顔を思い出せなくてびっくりした。
俺の中での彼はこんなにも薄い存在だったなんて。
いや待て、そもそも俺は事件に関係のない人間の顔をまったく覚えようとしない性格だったのだ。
彼に限ったことではない、そら、上司の顔を思い出してみろ、あいつは眼鏡をかけていたかひげを生やしていたか、
そんなことも記憶にないじゃないか。
いやそんなことではない、問題はそんなことではないのだ、どうして、いったいどうして。
どうして俺は早乙女の顔を思い出せないことを正当化しようとしているのだろう?
なんにもないのだから思い出せない、ではいけないのか?
彼との関係上思い出せないのは当たり前、ではなく、俺は人の顔を覚えないから思い出せないのは当たり前、
であって欲しいのか?
この焦りは、不安は、嫌悪は、震えは、いったい何によるものだ?
そこまで考えたところでチャイムが鳴った。
俺はその音を聞いた瞬間に立ち上がり玄関に向かってドアを開けた。

「よぉ。土産持ってきてやったぞ」

俺は、早乙女が目の前に現れたことに驚愕した。
正直なところチャイムは幻聴だと思っていた。
そして先ほどまでの嫌な感情は消え去り、安堵だけが胸の奥にずしりと座り込んだ。

「……なんでそんな変な服着てんの?」

「これか? 安く売ってたし、東京にはないんだぜ」

真っ赤な下地に新撰組の絵が入った攻撃的なシャツを見せびらかすように早乙女が笑う。
似合ってないと告げると、部下にも言われたと眉を下げた。

「でもお前への土産もこれだ」

差し出された袋の中には、青地に新撰組の絵が入った、早乙女の着ているものの色違いのシャツ。
いらないと押し返しても着てみろと引き取ってくれず結局もらうことになった。
いつもそうだ、彼はいらないものばかり俺に与えている。
いらないものなのに、もらってしまうと愛着がわいて捨てられなくなる。
捨てられなくなるとどんどんたまって、いつの間にか全部そろえたくなってしまう。欲しくなってしまう。
そんなのは嫌なはずなのに、捨てるのはもっと嫌、だなんて。

「あ、八ツ橋も買ったから食うか?」

「そっち先に渡せよ」

ビールと八ツ橋を準備してソファに二人並んで座ると、ゴミだらけの不思議な世界に迷い込んだ気持ちになる。
どうせゴミなら、どうせ捨てられない無駄なゴミなら、意味を持たせてあげればいい。
なんにもないより、何かあるほうがいいに決まっている。
白紙に好きな絵を描けばいいだけのことだ。きっと優しくなれる。

「なぁ、あんたの下の名前なんだっけ」

「名刺あげただろ」

「捨てた」

「うわひでぇ……國春だよ。難しい方の國に春。なに、名前で呼んでくれんの?」

「呼ばねぇよ。知りたくなっただけ」

「あそ。お前は衛士だよな。なんか由来とかあんの?」

八ツ橋をほおばる早乙女に俺はびくりと動きを止めた。
こんなにも、簡単なことだったなんて、人間たちはみな同類だということを忘れていたみたいだ。
これから何度彼と蒼い朝を迎えようとも、それは明るい夜明けに違いない。
「なんにもない」状態が存在しているのならば、無はありえないということにしておこう。


End