空間的狼少年

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C・Serenade


昨日からぐずついていた天気は今日になっても機嫌を直さなかった。
風が強いせいで傘をさしていても細かな雨が体をじわじわと濡らしていく。
こんなことならカッパでも着ればよかったかな、なんて実行するはずもない提案を口にすれば隣の部下が曖昧に
同意してくれた。
役立たずの若い部下、吾代は早く事務所に帰りたくて仕方がないみたいで、ほとんど何も入っていない頭はいつにも
増して空っぽのようだ。
今回の仕事先には駐車場がなかったためやむを得ず強面の男二人が並んで傘をさして歩くことになってしまったが、
俺はそれが嫌だとは思わなかった。
しかし吾代は子供がそのまま大人になったような男だから、見栄をはって真っ黒の車で行きたかったのかもしれない。
けれど郵便局に行くのに、車を使う必要もない。
仕事先なんてのは大層な言い方で、ATMの使い方を知らないと言う吾代のためにわざわざ社長が教えてやりに
行っただけのことだ。
成人したばかりとはいえ、そんな簡単なことすら知らないとは、俺は最近の子供の未来に憂いを感じた。
事務所についたときにはもう街は暗くなり始めていて、雨もひどくなりそうだった。
社長自ら郵便局に足を運ぶくらいだから、もちろん仕事はすべて終わらせてある。
残っていた2人の部下と吾代にも帰らせて俺は一人事務所に残り、ぽつぽつと降り始めた雨が街を閉じ込めていく様子を
じっと眺めていた。



土砂降りの雨の中、車を走らせて俺は笹塚のアパートへやってきた。
安定しなくなると解決しないと分かっていながらここへ来てしまう。

「うわ、お前の家なんでいつもこんなに散らかってんの?」

服はその辺に放り投げられているし、机の上は書類やらペットボトルやらが隙間なく置かれゴミはゴミ箱のそばに落ちている。
空気はタバコの煙で汚れているし、まったくだめな生活空間だ。

「仕事が大変なんだろうけど、ちょっとは掃除しろよ」

焼酎を一人で飲んで、客人をもてなす気のない笹塚に言うと、彼は決まってこう返す。

「きれいにしたって、どうせまた汚れるし」

首を少し傾け何もかもに無関心の視線で彼は俺に答える。
厭世的であるわけでもないのに彼は流されることに従順で、抗うことを最初から諦めている。
警察官になるという夢を果たしたときでさえ、笹塚は喜びもせず台本の文字を読み上げるように良かったと言った。
達成の喜びは感じないくせに失敗しなかったという安心だけは感じている。
今だって仕事に疲れたと言うより生きることに疲れた顔をしている。
まだ若いのにぼんやりとその場に留まって、復讐という何の幸福も生み出さないむなしい信念だけを握り締めている。
俺だって仕事に、生活に、満足しているわけではないが、満足しなければならないくらいには思っている。
野望も希望もない俺には足りないものを欲しがる資格がないから、これで満たされていますと、誰かに申告し続けてきている。
底辺にいても頂点にいてもみんな同じものを追い求め同じ結果に至ると言い聞かせてきた。
そう思うと目の前の男にだんだん腹が立ってきて、笹塚の腕を思い切り引っ張って外に止めてあった車に押し込んだ。
鍵を閉めてないと言う笹塚の文句にも面倒なことに巻き込まれた被害者のような態度にもいらいらして運転が雑になる。
雨は一向に止む気配はなく、むしろどんどん強くなってきてライトの少し先も見えない暗い道を無言で走った。
廃墟みたいなホテルの部屋に入ると同時に笹塚を硬いベッドに押し倒し首を両手で強く掴んだ。
ベッドから漂う妙な香りに吐き気がしてこのまま圧砕してやろうかと力を込めた。

「どうせ、なんて言いながら生きてくのか」

汚れた川の小石みたいにくすんだ目を歪め、笹塚は苦しいと言った。
それが本質のように思えて俺も苦しくなってしまった。

「それなら、どうせなら、今俺が殺してやろうか。お前にとって、受け入れられることなら」

首を絞める手を緩めると、笹塚は参ったような表情で勘弁してくれと両手を上げた。
呼吸は激しい雨音で、心音は轟く雷鳴でかき消されて人形を組み敷いているのかとさえ思った。
こんなことで必死になる俺を笹塚は嘲笑い、哀れむのだろう。
痛々しいと、思った。
けれどどうにもできないくらい俺は劣った人種で、こんな人間じみた喜劇なんて名前も知らない優秀な指導者に
任せて逃げ出してしまいたかった。
服を取り去って、願うように祈るように男を抱いた。
彼の声はのどが焼け焦げたみたいにかすれていて、すぐ真上で鳴り響く雷の福旋律のように聞こえた。
狭く簡素なこの部屋の中ですべてが展開されていたとしても俺はどうせ蚊帳の外だ。
事が終わってシャワーを浴びていると、せっかく熱くなっていた体がつま先まで冷え切ってしまった。
先にシャワーを浴びた笹塚の髪の毛が排水溝に溜まっているのが見えて、俺はそれをすくいあげて一息に飲み込んだ。
石鹸と、少しの情念の味がして俺はたったそのことだけで救われた気がした。



翌日、仕事は朝から始まっているというのに吾代は堂々と遅刻してきた。
電車が遅れたのだと言い訳するが、吾代は車で通勤しているはずなのでひっぱたいておいた。

「お前、もうATM使えるか?」

仕事の合間に尋ねると、まじめな顔で使えないと言った。

「何でだよ、教えただろうが」

「そんなもん忘れた」

「はぁ? 昨日の今日でもう忘れるのかよ。なら誰でもいいからまた使い方聞いとけよ」

「いや、でもどうせまた忘れるだろうし」

悪びれもせずあっけらかんと言い放つ吾代に、何かがフラッシュバックした。
真っ暗な洞穴の奥で動けないと信じ込んでいる獣に向かって叫ぶような光景。
彼は彼ではないけれど言葉は巡り巡るものだ。

「だったら覚えればいいだけのことだろうが。何回でも覚え直せばいいだろ」

吾代は説教されて露骨に嫌な顔をするが決して聞いていないわけではない。
単にいつまでも反抗期が終わらないやんちゃな男子学生のままだということだ。
今日は昨夜の豪雨が嘘のように晴れ渡った。
外で子供が元気にはしゃいでいるのを見て、あぁ大人は頭の悪いやつばかりだと呟いた。

End